歴史、旅行

川中島合戦戦国絵巻への道(平成20年度)~甲斐古府中へ①~

エロヒムと暫しの交歓を果たした我々であったが、気がつくとお昼時に迫っていた。

時間の過ぎるのが早すぎる!

これもモントーク計画の余波なのか。

小山田氏の岩殿城を右手に過ごし、ようよう国中入りした頃には昼食を予約した時間になってしまった。

運転していた御所様におかれては、沿道に咲く桃の花の美しさを見る余裕も無かった事と思われる。

そして、ようやく街中に入れば、皮肉にも武田二十四将に道を阻まれ(苦笑)・・・、迂回するハメに。

ようやく30分ほど遅れで、予約のほうとう屋に到着したのであった。
(御所サマ、お疲れ様)

ここで尾張衆の二方と御所様奉公衆の太っちょ殿と合流。
食事はやはり、ほうとうでモリモリと・・・。

私は「辛口豚肉ほうとう」とかいうのを食べましたが、コチュジャン入りの豚汁ほうとう&ほうとうという感じでしょうか。

以前、中川温泉オフ会で猪鍋ほうとうを食べたのを思い出しました。
(アレは美味しかったな~。寒かったけど)

それにしても具がデカイ(爆)。

おでんの輪切り大根みたいな形で、ジャガイモが三個ほど入っていました。実際、麺より多かったんじゃなかろうか・・(笑)。

まあ、辛い味噌汁に根菜類が入っていれば、自分はもう言うことはありませんです。(ま、ホットな屁が地球に優しくないかもしれません)

食後は、尾張衆のユゲ殿のシャア専用ケータイに俄然注目!

いいですねえ、あのモノアイ点灯音!!

私も欲しい!!量産型でいいから。

(全然関係ないですが、アッザムってお掃除ロボにしか見えないですよね)

写真は武田通りの信号機。
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市の鳥なんでしょうか、あちこちの電灯やらにカワセミが留まっていました。
青信号でピヨピヨ(?)鳴いたら面白かったのですが。

しかし、信号機や鉄柱がオール茶系に落ち着いているのは嬉しい配慮ですね。

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川中島合戦戦国絵巻への道(平成20年度)~序章~

一年ぶりの石和。

今年は出れないんじゃないかと思っていたのだけれど、色々な方の助力により行ってきました。

そんな調整もあって、昨年は征夷大将軍太郎さんの隊で上杉軍に参陣したワタクシでしたが、今年は原隊復帰?

武田方の三浦介星友隊の欠員の代わりとして、何とか参加できたのでした。

星友さんの隊は自分が石和デビューした宮下隊の後を引き継いだ隊でして、一応自分も初回以来のメンバーなんだけど、毎年参加していた訳でもなく、なかなか以前のように普段お会いする機会がないまま、昨年ついに征夷大将軍太郎さんの将軍隊に浮気してしまった訳であります。

その際「副将と軍師の職を与えよう」との調略があったかどうかは、記憶にございません(笑)。

まあね、そんなチョッチ情けない状態で三浦介星友殿の温情にすがってしまった訳ですな。

(これも、各リーダーの温情および、交流の深い両隊の関係があっての事でして、あらためまして感謝の言葉をここにしるしておきます)


そんなこんなで、12日。
相州小田原を出陣。
自宅の神棚に鎮祭される箱根・伊豆山神社の二所および鶴岡八幡宮と松原明神(小田原総鎮守)に武運と道中無事を祈り、合流地へ。

征夷大将軍太郎殿のお車で、さおりん殿とかずさんぐ殿の4人で甲斐府中を目指したのだった。
ちなみに、さおりん殿は北条家玉縄衆。
今回に至り、初めて北条家援軍の同士を得て心強い限りである(?)。

そして午前11時半頃、車は津久井領より甲州郡内へ入ろうとしていた。

それにしても、藤野SAで見たこいつは何だったのか。
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「宇宙からのメッセージ」・・・(汗)。

私の頭の中では、昔、学校の帰りに駅前で配られていた「宇宙人を迎えよう」という怪しいチラシのイラストがモザイク模様に蘇りつつあった。

も、もしかして・・・、エロヒム??

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川越に行ってきました

先月29日の土曜に、川越に行ってきました。6年ぶり。
今回の主目的は市立博物館で行なわれていた企画展『後北条氏と河越城』の展観。
http://www.city.kawagoe.saitama.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1107055770367&SiteID=0000000000000&FP=whatsnew
市立博物館ですから規模としては小さな展示だったのですが、以前、見ようとして叶わなかった真田宝物館の「黄八幡」などに対面できたのは嬉しいことでした。
また、レプリカながらも古河公方の旗や、後北条時代に河越城代を務めた大道寺氏の判物なども興味深いものでした。

それに併せて今回の川越訪問では、なるべく戦国時代の河越城関係の旧跡めぐりと、巡礼中の「関東三十六不動尊」のお寺で朱印を頂くことにしました。
ご同道いただいたのは、お馴染の征夷大将軍太郎氏。後ほど、以前、江戸東京博物館でもご一緒したナカジさんが展観のみ合流しました。

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当日は午前中が雨でしたので、まず室内拝観が可な喜多院へ。
ここで旧境内社の仙波東照宮・日枝神社にも参拝。
喜多院とこの後に行った川越成田山は、ともに川越にある「三十六不動尊」のお寺でして、まず最初に参拝と朱印受領が果たせたのは、ひとまずホッとしました。
それにしても、喜多院は見どころの多いところですね。
以前も行っているのですが、歴史は河越城より古いですし、古建築や庭も見応えがあって飽きません。
また、そう古くは無くても有名な五百羅漢も表情が豊かで楽しいです。
川越成田山は江戸幕末開創の新しい寺ですので、純粋に巡礼目的ではありましたが、それだけに観光客も殆どおらず静かに参拝できました。
堂外に出ると、雨がカラリと。

この時点でもう正午近くではありましたが、昼食を少し遅めにして続けて寺めぐりなどを敢行。そして陽が傾き始めた頃、展観を最後に。

その行程は・・・

蓮馨寺(れんけいじ:河越城代・大道寺駿河守政繁母の墓碑あり。浄土宗)

旧鍛冶町(後北条時代、相州鍛冶・平井某が移住。刀匠などが集住した)

長喜院(大道寺駿河守の甥という長喜(法名?)開基の曹洞寺院)

養寿院(鎌倉時代の当地の秩父党武士、河越経重開基。伝・河越重頼墓、丹治久友作銅鐘を伝える。曹洞宗)

(昼食:芋うどん)

大蓮寺(大道寺駿河守の母菩提寺。小田原城下にも同名の寺で同母の菩提寺がある。浄土宗)

広済寺(大道寺駿河守創建。近世川越の地誌『三芳野名勝図会』著者・中島孝昌の墓あり。浄土宗。)

東明寺(河越夜戦の伝承激戦地の一つ。「川越夜戦」碑あり。時宗。裏手が伝・太田道灌屋敷跡)

真行寺(開基を武田信虎の娘と伝う。詳細不明。浄土真宗)

川越城跡(大手の道灌像から虎口の名残などに沿って、天神郭・富士見櫓台・堀跡など。本丸御殿は時間の都合によりパス)

市立博物館にて展観『後北条氏と河越城』

氷川神社(川越総鎮守。すでに夕闇降り、県重文の本殿はよく見えず。ライトアップされた中の挙式の景色が綺麗でした)

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と、後半かなり端折りましたが(笑)、実際結構早いテンポで回りましたので、こんな感じです。
川越の名産はサツマイモとのことで、芋ようかんや芋納豆、芋シュークリームなどのお菓子のほか、芋を混ぜ込んだ「うどん」や「そうめん」が各お店で売っていました。
私達はお昼に芋うどん、夕方の小腹が空いた折に芋シュークリームを食べました。
うどんはかなりコシのある麺で、具はやっぱり芋天でした(笑)。
「小江戸」だけに、スープは濃いしょうゆ味ですが、意外と薄味の方が合うような気がしました。
芋シューはなかなか!
おやつというよりも、おかずを食べているような錯覚に陥りましたが、イモ好きな私にはクセになる美味しさ♪
この時は「むらさき芋」味を1コ買い食いしただけでしたので、次回は「さつま芋」の方を食べたいものです。
少し感動した味だったので、宣伝しておきます(笑)。
http://www.koedo-kameya.com/standard_good.html

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金沢文庫展観と寺社旧跡めぐり(2)

さて展示のほぼ終わりまで見た頃、携帯に電話が。
征夷大将軍太郎さんからで、これから合流してくださるとの事。
称名寺の門前で待ち合わせることに。

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合流までまだ1時間以上かかると思われたので、称名寺の裏山を歩いてみることにしました。
登りはじめると、すぐ脇に「三重塔跡」の石碑が。
今は草の中に位置を示す碑があるだけですが、平坦にされた空間が建物の存在を偲ばせます。
鎌倉後期、最盛期と思われる称名寺のありし姿は、金沢文庫展示の模型や元亨三年(1323)の「称名寺絵図」で想像することが出来ますが、金堂の後ろにあった二階建ての講堂や、この三重塔もいつか復元されるのでしたら、とても楽しみな事です。
もちろん、浄土式庭園が再現された現在の状態だけでも、実際のスケールで当時の精神性に触れられる貴重なものなのですが。鎌倉の永福寺もはやく同様に整備されることを願っている人は相当多いのではないでしょうかね。

途中の百観音(お砂踏み?)を過ぎて、少し登るともう山頂でした。
が、この日は完全な夏日快晴でしたので、たっぷりと汗をかいてしまいました。
コンクリート製の八角堂があるこの広場は、称名寺三山の一つ、金沢山の頂で、大変眺望にすぐれています。
みなとみらいなども遠望できますが、それよりも海の景色。
野島を手前に、猿島や横須賀の沿岸を一望すると、何だか、昔の名勝とされた金沢八景の旧観が目に浮かぶようです。

そして、尾根を東に進むと稲荷山。
称名寺金堂の真裏にあたる山です。
「陰陽師×密教」の展示解説では、称名寺でダキニ法が修された可能性として稲荷山をあげていました。
「称名寺絵図」には稲荷社のような建物は描かれていませんが、あまり使われていないような道があって、寺の方から直接この辺りに登ってこられるようです。

さらに尾根を東に行くと、称名寺の前身である阿弥陀堂と金沢文庫を建立した、北条実時のお墓です。
境内では彼のお墓だけが宝篋印塔で、さすが金沢北条氏の初代の風格を感じました。

実時墓所の前の谷道を下っていくと、ほどなく称名寺です。
こちらの道は、さきほど三重塔跡から金沢山に登った道と異なり、雛壇状の平坦地が連続していて、何か建物か畑でもあったのではないかと思わせました。
三重塔横の道は旧来の道ではないのかもしれません。
「称名寺絵図」では、谷の入口に経蔵があって、その後方に堀のようなものが描かれています。
もしかしたら、と考えていましたが、やはり鎌倉の東勝寺のような防戦を意識した構造でもあったのでしょうか。

それにしても喉が乾きました。
もう汗だくだくでシャツは重いし、着心地悪いこと。
参道沿いの自販機でコーラを買って、赤門前で暫しボーッとしていると、
「こんにちは」
征夷大将軍太郎さんでした。
呼ばれるまで、全然気が付きませんでした。
久々の再会でしたのに、ハナっから情けない顔しててスイマセン。

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とりあえず、池をもう一度まわり、金堂と釈迦堂で手を合わせた後、文庫内の食堂で昼食。
カボチャサラダがついたカレーライスは500円。
ここで小1時間話して、午後の史跡めぐりへ。

門前の道を六浦方面にまっすぐ下る。
右手に金沢八幡を過ごすと、町屋町。
目の前は、こっから金沢八景駅近くの瀬戸神社を経て十二所方面に向かう旧六浦道。
だけど、広い道路になってて、この辺りではあまり面影は感じられなかったかな。
いえ、道沿いには寺社が多かったし、地名も昔を語っているのが少なくないので、もう少し時間をかけて歩けばまた別だったでしょう。

町屋町では伝心寺(曹洞宗)の北条氏繁とその一族のお墓を拝観。
ここの開基は、鎌倉五代執権の北条時頼(大河ドラマ『北条時宗』で渡辺謙が演じていた方ですね)。
道元禅師が直接説法をされた由緒を持っています。
お墓(供養塔でしょう)が残る氏繁という方は、戦国時代の玉縄北条氏の二代目で、お寺にとっては中興開基にあたるようです。
開山上人は南足柄市の大雄山から来られた養拙宗牧。
ややこしいのですが、玉縄北条氏というのは、小田原北条氏の重臣で、今の大船駅近くにあった玉縄城の城主だった方でして、ルーツは異なる一族です。
彼のお墓といえば、同じく玉縄にある龍宝寺(氏繁の戒名)の裏山のが有名で、私も何度かお参りしていますけど、こちらは今回初めて知ったのでした。

あいにく、法事の最中でしたので、おだいこくさんにお墓の場所とお寺の由緒書なんかを頂きましたけど、慌しそうでなければ、氏繁とこのお寺の関係なんかも住職に聞いてみたかったです。
まあ、氏繁の時代の玉縄北条氏は三浦郡の支配や江戸湾の向こうにいる里見氏への睨みとなっていたから、港のあった六浦にも玉縄衆の拠点があったはずだとは思うんですけどね。
『城郭大系』にある「町屋陣屋」は江戸初期ってことになってますけど、玉縄衆以来のものが踏襲されていた可能性だってあるかもしれません。
でも、子孫のお墓は明らかに江戸時代だし・・・。
まあ、土地のことはその地の人に聞くのが一番。あとでの楽しみにしておきましょうか。

次に、洲崎町の龍華寺(真言宗御室派)。
こちらは縁起によれば、瀬戸神社の神宮寺として源頼朝によって六浦山中に創建された浄願寺が、15世紀末の兵火で焼け落ちた為、この地にあって同じく廃れていた光徳寺と併合されて興されたものだそうです。
江戸時代には20以上もあったという塔頭や子院も、明治に統廃合され、今ではそうした旧本尊や仏教遺物を多数蔵しています。
以前、金沢文庫の展示で公開された脱活乾漆の菩薩像も、このお寺の塔頭、福寿院の本尊だったものだそうです。

瀬戸神社へ着く手前には、瀬戸橋。
この辺に来ると、ようやくここが港の町だということを思い出しました。

最後に、瀬戸神社とその道路向いにある摂社・琵琶島弁財天社を参拝。
琵琶島弁財天は、源頼朝が伊豆の三島明神を勧請して瀬戸神社を創建したおり、妻・政子がこの人工の島に竹生島の弁天様を勧請したのだそうです。
収められている弁財天像は立像のため、立身弁財天として、出世や成功を祈る人も多かったとか。
弁天様は小さな社なので、道だけ見るとなんか、海に突出た瀬戸神社の参道のようにも見えます。

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あ、これが最後じゃなかった(笑)。
最後に行ったのは、上行寺東遺跡。
まあ、その実寸レプリカなのですけれど。
正しくは「上行寺東遺跡復元整備地」といいます。
金沢八景駅の裏山のマンション建設に際して発見された、中世のやぐらや建物跡などの遺跡です。
この遺跡の一部は、さきの龍華寺の前身でもある浄願寺である可能性もあるそうです。
結局、実物は破壊されてしまったけど、その現場近くに遺跡を型取りして樹脂で固めたレプリカが展示されてるとのことで、これも前から見たかったところではありました。
でも、最初にここに登る階段を見たときはドッと疲れがでましたよ。
急なコンクリの階段で、その高さはまるで池田屋の倍くらいはあるかと見えましたから(笑)

ここで、この日の史跡めぐりは終了。
夕食は藤沢のインド料理店で。
私ははじめてフィッシュティッカマサラを食べました。
魚肉は赤身と白身が入ってたみたい。

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金沢文庫展観と寺社旧跡めぐり(1)

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前後する日記となりますが、16日(日)、横浜市金沢区は称名寺となりにある県立金沢文庫に行って参りました。
今回は展観と史跡巡りを兼ねていたので、早めの朝9時前に現地到着。陽射しが厳しかったですけどね。
称名寺の池では消防団が放水訓練をしていました。

今回の展観は「陰陽道×(かける)密教」。
http://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/bunko/tenjiannai.htm

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日本にもたらされた陰陽道が密教に取り込まれ、宗教儀礼や学問に体系化。陰陽五行や天文、暦などが密教的にとりこまれて発展していく。
その実践は平安以降、権力者や武士などが怨敵調伏や栄華達成を祈願する修法をも発展させた。金沢北条氏を大檀越に持つ称名寺にも聖天法や、荼枳尼天を本尊に修するダキニ法の教本などが残されている。
展示物はそうした中世密教資料で、博物館の企画としてはなかなかマニアックな内容でした(笑)。
まあともかく、複雑怪奇。

こうした修法は中世後期から近世、さらに俗化・大衆化して、いわゆる禁厭(まじない)として今でも時々お見かけしますね。これらは、純粋な密教僧というよりも、近世以降の里修験だとか聖みたいな人々が大衆に広めたのでしょうか。

個人的には、このような左道密教が県内の各地でどのように受容されていったかも興味があったのだけれど、展示解説はあくまで資料に関連するものに限られていました。
ダキニ法といえば、立川流を連想しない訳にはいかないのですが、その流祖といわれる仁寛は晩年伊豆に配流されているのであって、すでに鎌倉末期には東国でかなり広まっていたとも云われます。
ならば、幕府とも強い関係を持った箱根・伊豆の山岳密教教団にも、そうした学問は伝わっていたはず。
箱根三所権現と伊豆走湯山二所権現の関係は金胎両部で、つまり陰と陽の関係と見なされていたと何かで読んだ記憶があるのだけど、そういう土地柄では立川流も学問として受け入れ易かったのだと想像するのです。
まあ、どちらも最盛期は平安から鎌倉だろうし、明治の廃仏を経て単なる土地の神社となってしまった今では、不明なことだらけなんだろうけど。

では、鎌倉ではどうだったのか。
豊川稲荷みたいに、荼枳尼天が稲荷神に同一視されて今でも残っている稲荷社があるかも。
鶴岡八幡宮の西側にある「志一稲荷」などは怪しいですよね。というか、そのものズバリのような気もするのだけど・・・(汗)。
ただ、ここの神社の「志一」が、『太平記』に出てくる仁和寺の外法成就の人「志一房」かどうかは自分も何も確認していないのですが。
そういえば、この近くには巨福呂坂の青梅聖天もある(笑)。
これらは二十五坊に関係する神仏だったのでしょうかね。
ダキニ法は21日間の修法だったり、豊川稲荷では21回真言を唱えるとかあるそうですが、さすがに21日参りは大変そうですので、志一稲荷で21回ご真言を唱えてみるのも面白いかもしれません。
ただ、ダキニ法は「頓成悉地法」など称するものがあるようにすぐに効果を現すのだけれど、栄華を極めたあとに急激な没落があったりするようですのでご注意(笑)。
有名な例では、平清盛や後醍醐天皇。今川義元も豊川稲荷の伽藍を整備したのでしたっけ。
まあ、なんでもかんでも悪く結びつけるのは良くないですが、やはり政権関係のお願いはしない方がいいのかも・・・?


ええと、展観の内容から大分横道それてしまいました・・。
遅くなったので、午後からのお寺見物などは、また明日にでも書きます。

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