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「河越夜戦」云々②

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そして、23話「河越夜戦」。
天文15年(1546)4月20日の夜がその時であると云われているのですが、実のところ、それを証明するような良質の史料はあまり残っていなかったり。ただ、戦局を転換する大きな合戦があった事は確かで、それは、前後に発給された文書史料などに知ることが出来ます。

まあそれはそれ。一般に知られている(といっても現在はかなりマイナーな合戦話かもしれませんが)河越夜戦の話は、江戸時代の軍記物によるものであります。もちろん今ドラマの話もそれを元に構成されたものです。が、ドラマ作品ならばやはり美味しい話を上手く使う事に文句があろう筈もありません。
ただ、ネタ元の軍記物の内容もまた適度に変更・省略されていますので、その辺りを幾つか紹介してみます。

ドラマでは北条方の諜者として登場した山内上杉家臣・本間江州(ほんまごうしゅう:本間近江守)ですが、軍記物に登場する本間は少々異なっています。
軍記では、本間は山内上杉を浪人したと装い、同輩の猪俣左近と二人で北条家に仕え、三年(または四年)の間その内情を探っていたとあります。北条家の諜者になったという話は見かけません。
ただ、北条家に仕えてみると、上杉家の多くの武士たちが北条家にも内々に好を通じている事に驚く、という話があります。
三年後、その事実を帰参した主家(山内上杉憲政)に伝え、一度は忠節を賞されるものの、憲政お気に入りの側近が讒言をした為、両人は遠ざけられ、猪俣に至っては毒殺されてしまうのでした。
そして、河越夜戦の時。憲政側近たちが主に先んじて逃亡する中、最期まで奮闘したのが本間江州でありました。それを討ち取った北条方の武将が、小田原時代より旧知となった大道寺駿河守であり、大道寺駿河守の指し物「金提灯」は本間がその時彼に譲ったものとである、という締め括りがあったりなかったり(本による)。
あくまで読物の話ですから、このエピソードがどこまで史実を伝えているかは不明ですが、実際に河越城代であった大道寺駿河守(盛昌)が出ているあたりは興味深いところ。

いずれにせよ、ドラマでは本間江州という上州侍の律儀さは軍記のキャラを損なうどころか、省略化のお手本のように上手くストーリーに生かされていたと思いました。

省略化といえば、上の大道寺駿河守もそうでしたね。討取ったのは、清水吉政になっていました。というか、北条氏の重臣は彼と北条綱成(本話で河越城守将を務めていた人)しか今のところ出ていませんね(笑)。
まあ、ただでさえ馴染みの薄い関東戦国史(笑)。ドラマ的に意味の無い人を出しても、混乱を招くばかりかもしれません。古河公方(足利晴氏)くらいは観たかったですが・・。
でも、有名なエピソードなどの主体部分などは、結構まめに挿入されていたりしますので、満足度はそれほど損なわれていません。そもそも、映像化だけでも嬉しいのですから(笑)。

省略された話がもうひとつあります。北条綱成の実弟・福島弁千代のエピソードです。
ドラマでは、氏康の本隊が河越城の救援に来ていることを知らせる役目を、本間江州に与えていましたが、軍記物では、北条氏康の見目麗しい小姓・弁千代がたった一騎で敵の包囲陣を通り抜け(上杉勢もまさか敵とは思わず)、兄のいる河越城に「救援軍が近くに来ているから早まるな」という氏康の言葉を伝える話があります。
私などはてっきり、ドラマでは福島彦十郎(勘介を撃っちゃった若侍)がその役をするのかな、などと勘繰っていたのですが、あっさり本間の矢文になってしまうとは(笑)。
この福島弁千代はなかなかネタの多い人物ですので、また後日紹介したいと思います。

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と、福島兄弟の弟は出なかったのですが、兄・綱成はその高名な「黄八幡」旗をなびかせていましたし、ホンのちょっと「お味方、勝利~!」と、部下が叫んでいるところも、軍記のお話を連想させてくれて、なかなかニクイ演出でした。

しかし、その綱成勢に滅ぼされる役になった扇谷上杉朝定の描かれ方は、史実同様に悲惨でした・・・。
朝定の登場シーンは、(開門する河越城にニヤリとしつつ)「なんだ・・・??」と振り返る所のみ!
混乱する夜陣の中、ついに雑兵共々討死、滅亡してしまった扇谷上杉家最期の当主ですが、実はこの人、当時たしかまだ22歳。13で父(朝興)が没し家督を継いで早々に、代々の居城・河越城を北条氏綱に奪われ、叔父も北条氏の捕虜に。かつて太田道灌を家宰にしていた頃の勢いからすると、悲しいまでの落ちぶれ様でした。
それが、ようやく山内上杉家や古河公方家の合同のもと、悲願であった河越城の奪還が成ろうとしていたわけです。この戦で無念といったら、まずこの方を置いて他には無いような気がしますね。

それに、武田晴信の最初の奥さんは、この人の姉(晴信より年上だったと云、懐胎死)。
つまり元義兄弟なわけで、ドラマ的に重要ではないにせよ、少しはセリフの端にでも出してあげればいいのになあ、と思いました。例えば、母の大井夫人に手を合わさせるとか。

最期にもう一つ軍記の話として、河越合戦(天文15・1546)の前年三月二十日、小田原の浜に大亀が上陸したという話が『北条五代記』に記されています。8人でようやく持ち上がったという大亀で、氏康はこの瑞相を喜び、松原明神(現・松原神社)で法楽能を舞わせたとか。その翌年の同日(閏年だったのでしょうか)、果たして河越で大勝したのは、やはり亀は奇瑞であったとしています。


写真は(上から)、川越市の東明寺。合戦地と伝わる場所のひとつで付近からは当時のものと思われる遺骨が出土したとか。山内(境内)には「川越夜戦跡」碑があります。

次が、「小田原北条五代祭り」の武者行列に出る北条綱成の「黄八幡」旗。黄と云っても、朽葉色の黄色と軍記にもありますので、こんな感じに再現されてるのでしょう。
「黄八幡」旗は、後に武田氏と北条氏が駿東で戦った折に武田方に奪われ、「武勇にあやかれ」と真田氏に下賜されたと云い、現在も長野市の真田宝物館に伝存しています。
また、玉縄北条家の重臣・堀内日向守の家にも玉縄北条家の遺品として「黄八幡」旗が伝わっていると、どこかで聞いたか読んだような気がしますが、よく覚えてません。

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左の写真は、昨年、松原神社境内で見た「吉兆の大亀」像。
当日、そこにあった由緒書によれば、河越合戦にまつわる吉例にあやかるものとして作られたものだそうです。残念なことに頭が欠けております。
甲羅を撫でると、心願成就・勝利・合格に利益あるそうです。
また、亀は長寿の霊獣であることから、賽銭を10円納めれば10日、1000円納めれば千日寿命が延びるとも(笑)。
こんなの前あったかな・・・・?
でも、こういうセンスは嫌いじゃありません。
由緒や利益は信じることで成就するわけですから。
ともかく、せっかくの新たな北条パワースポット。北条稲荷の蛙石のように末永く大事にしてもらいたいものです。

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「河越夜戦」云々①

さて、また暫く間が空いて夏越大祓も過ぎてしまいました。
そして、今更ながらに大河ドラマ『風林火山』23話の「河越夜戦」に関して、思うところを幾つか。

ともかくも、この合戦が映像化されたのは初めてだったのではないでしょうか?
毛利元就の厳島・織田信長の桶狭間と並んで「戦国三大奇襲戦」と云われたりするなか、ようやく「河越」も現代メディアデビューを果たした感があります。
とはいえ、桶狭間の合戦については現在も諸説ある状況だし、河越の合戦もまた良く分かっていないのが現状でありまして。別に一々「三大・・」とかに拘る必要も無いのですが。

本回もまた井上靖の原作『風林火山』には無いオリジナルストーリーでありますが、第一話と並んで、北条氏贔屓な視聴者には嬉しい企画であったに違いありません。
ドラマ的には、後の真田幸隆の武田臣従や長尾景虎登場への「つなぎ」、さらに後の三国同盟への布石でもあると思えるのですが、こういう一時横道的な構成ができるのも、大物大名の御一代記ではなく、「前半生が不明にして志し半ばで戦死」という短命な主人公のドラマならではというところでしょうか。

さて、本ドラマは、武田&主人公である山本勘介の視点で描かれていますので、ここは一つ北条贔屓の身として、北条側からの視点について簡単に紹介。

いつだったか失念しましたが、これ以前の回で氏綱が没しようとするにあたり、氏康に遺訓を伝える場面がありました。内容はいわゆる氏綱公の「御遺訓」とか「御置文」とか呼ばれる五箇条の内容ですが、こういう所をさりげなく押さえてくれている辺り、今回の脚本は大変嬉しいものがあります。

で、その氏綱が没して氏康が名実共に家督を継承したのが、天文10年(1541)7月。氏康26歳。
河越合戦はこの頃からの流れを見ていくと、結構、その合戦に至るまでの一定の緊張感が想像できるように思います。
ちなみに、河越城は4年前の天文6年(1537)7月に氏綱が攻略。ドラマには登場しませんが、氏綱三男で玉縄城(鎌倉市)主・為昌(次男某は早世)が、河越の城主を兼ねます。

氏綱死去三ヵ月後の11月、早速、山内・扇谷の両上杉軍が河越城に来襲した模様。この時の氏康感状が幾つか残っています。やはり代替わりの時期というのは、狙われやすいようですね。そもそも、氏綱が河越城を奪取したのも、扇谷朝興の死後でありましたが。
とはいえ、氏康も「代替わり検地」を開始して、領内の支配を引き締めています。

翌天文11年(1542)5月、為昌が弱冠23歳で死去。
彼は、玉縄(三浦領を含む)・河越のほかに、武蔵小机(横浜市港北区)の城主として、主に相模東部方面を任されていた重要一門でした。あと氏康の弟は20歳の氏尭(うじたか)一人のみ。それだけに影響は大きく、これを機に北条氏領国の支配や家臣団編制に大きな変革がなされていきます。為昌の広大な支配領域と家臣団は分割され、玉縄は義弟だった北条(福島)綱成が継ぎ、河越は為昌後見人で鎌倉代官の大道寺盛昌が、そして小机は叔父(氏綱末弟)で箱根権現別当を隠居した北条宗哲(幻庵)が継承することに。

先代と重臣にして実弟(しかも河越城主)の相次ぐ死没。
やはり管領家としてはこれを機と見なしたものと想像するのですが、同年6月、関東管領・山内上杉憲政は北条討伐祈願と解せる願文を鹿島神宮に捧げています。

ただ、その後の両社の細かな軍事的動きが暫く不明。
ですが、天文12年(1543)には、氏康は古河公方・足利晴氏に忠節を誓う起請文を書いていますし、同13年には房総の里見氏の領内に進出している模様。
天文14年7月、今川義元、氏綱の代に北条家に占領されていた駿河東部を奪還するため、上杉憲政と結んで駿河吉原へ出陣。それまでの間に山内上杉家・扇谷上杉家・今川家の三者で軍事協同に関する外交が進められていたのでしょう。

その5ヶ月前に小田原へ来訪した連歌師・谷宗牧の『東国紀行』には、今川・北条の軍事境界における緊張が記されています。
〈・・・一里ばかり過たれば、吉原の城もまぢかくみえたり、この舟を見つけて、足軽うち出、事あやまちもしつべきけしきなれば、十四五町此方の礒にをしよせ、荷物おろさせ、松田弥四郎申陣所へ人つかはしたれば、案内者をこせ、みなと川のわたりし船さしよせて待たり・・・(正月26日)〉

8月になると、妹が義元に嫁いでいた武田晴信も出陣。
9月には北条方の吉原城(富士市)が落城。今川軍さらに東進。時同じ頃、両上杉家が河越城を包囲。城代として入城していた玉縄城主・北条綱成の籠城が始まります。
まさに四面楚歌。
西は今川、北は武田、東は上杉。南の里見の動きも目を離せない。とまあ、この敵対状況は氏綱の時もそうだったのですけれど、ここまで両上杉と今川・武田が連携して同時攻勢に移った事は無かったのではないでしょうか。
そして10月、古河公方が河越包囲軍に参加。
公方・足利晴氏の正室は北条氏綱の娘でしたから、氏康とは義兄弟。当初は氏康の要請で中立を保っていました。が、ついに上杉からの誘いに乗ってしまいました。
これは本気モードでかなりまずい状況。
公方の手勢は少なくとも、その威に従ってさらに多くの武士が参陣してくるのは大迷惑。
氏康ピンチ。
ここにおいて、駿河東部の放棄(今川家に返還)を決断。天文14年10月下旬、今川・武田両家と和睦し、ひとまず一方の危機は薄れたのでした。
あとは、いかに河越方面を収拾するか。

・・・というのが、河越合戦(天文15年・1546)の前年までの大まかな流れです。
ドラマでも22話「三国激突」の締めがこの辺りだったと思います。

22話といえば、躑躅ヶ崎館(武田氏館)軍議のシーンで、小山田信有(田辺誠一)が広げた地図を覚えておられるでしょうか?
かなりアバウトな地図で、国名と主立った城くらいしか記載されていませんでしたが、そのなかになぜか「河村城(山北町)」が。玉縄城も韮山城も記されていないのに何故?
まあ、単に相甲駿国境の城という意味からなのかもしれませんが、この後、永禄4年(1561)3月に上杉謙信(当時はまだ長尾景虎)が小田原城まで攻め寄せてきた折に、どうやら武田の援軍が河村城に入っていたようなのですよね。
で、同年の9月に第四回川中島合戦(勘介討死)があるわけです。
ドラマ的にはクライマックス前のイベントとして、この謙信小田原攻めに勘介が出てきそうな気がしてなりません。地図の記載はそのヒントかな、とも受け取ったのですが、如何なものでしょうか。後々が楽しみです。

なんか結果的に23話のネタ話というより、22話のネタ話になってしまいました。

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