歴史

日帰り武士

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去る15日の日曜、山梨県の笛吹市で行なわれた時代祭りに参加して来ました。
その名も『川中島合戦戦国絵巻』というのですが、笛吹市の『桃の花祭り』イベントの目玉であります。
4月の山梨は各地で武田信玄関係のイベントが行なわれておりまして、毎年この時期の甲州は武田月間とも呼ばれていたり。
今年は大河ドラマの影響もありまして、なかなか盛況でありました。

(とりあえず前置きに今までの事を書きますが、参加者の方々はとばして下にお進み下さい)

・・・☆☆☆・・・

「今年は」と付けたのは、実は初めての参加ではないから。
平成13年に、その頃は石和町のイベントでしたが、歴史関係のネット掲示板で仲良くなった方々に誘われて参加したのが最初。(まあ、それ以前から見学では行ってたのですが)
その時のメンバーが今でも史跡巡りのお馴染さんになっているのです。
この時は上杉軍(一般参加の殆どはこちら)だったのですけど、共に参加した面々皆、どちらかというと武田贔屓。

で、どうにか(地元のボランティア参加が大半の)武田で出ようと、当時のリーダーの尽力で、翌年に念願の武田軍参加が叶ったのであります(笑)。

このお祭りの面白いのは、ただ時代衣装を着て歩くだけでなく、模擬合戦「川中島の戦い」を実際に演じるということ。
要するに堂々とお祭りの中でチャンバラができるという訳ですな。
それから、参加者は「昔の武者のように」自分を誇示する事が許されておりまして、オリジナルの背旗やら隊印(個人または団体参加なのです)などを着用できるのも、なかなか他の地域の時代祭りでは無い面白さではないかと思います。
実際、リピーターも多く、常連さんでは毎年ここで出会うのを楽しみにしておられる方もいるようです。

私の場合は不定期ということもあって、毎年申し込みの段階で希望は表明するものの、今回で4回目。でも3・4年ぶりなので久々。
今回は初回からお世話になっていた隊から浮気して、マイミクの将軍太郎さんの隊「幕府軍」で出陣です。
前の隊では初回を除いてずっと武田軍でしたが、幕府軍は上杉軍の常連さん。よって、今回は多少不本意ながらも上杉軍に参加と相成りました。
まあ、個人的なスタンスとしては武田軍になった時点で、小田原北条氏からの援兵というつもりでして(笑)。一応、武田氏と北条氏は何度か協同作戦をとっていますし、お互い援軍を送ったりしています。
そんな意味と、小田原勢の誇りを込めて、3回目からはオリジナルの指物をデビュー。北条家の三鱗紋入りの提灯であります。ちゃんと地元の提灯職人さん(小田原駅改札にぶらさがってる巨大提灯を作った方です)に用途を理解して作って頂いた本格派です。実物同様、油も塗ってあるので雨天でも大丈夫(笑)。
ただ、伝統工芸で有名な「小田原ちょうちん」は江戸時代に完成したスタイル。よって、オーソドクスなスタイルの提灯です。(でも、これもどこまで古いのかよく分からないのですけどね)
あと、提灯を指物にした理由は、地元の名物というのではなく、江戸前期の軍記もの『北条五代記』(北条遺臣でもある三浦浄心が著した逸話録『慶長見聞集』から、北条氏関係の話を抜粋したもの)「小田原北条家旗馬しるしの事」に出てくる、玉縄衆・三好孫太郎の「七ツ提灯」に肖ったものであります。
最初は、昔から好きな小田原武士の、馬廻衆・鈴木大学助(小田原籠城時、渋取口で討死)の背旗「やり」でも作ろうかと思いましたが、余りにマイナーで認知されにくいと思い辞めました。
また、この提灯の指し竿は、亡き祖父が四方竹(四角い竹)で拵えてくれたもの。たかが竿ですが、実は提灯より大事です。

で、この提灯、デビューした時もなかなか目立ったらしく、結構色んな方から聞かれました。この時、友好都市として参加していた館山からの里見隊とも記念撮影できましたし(笑)。

まあ、というのが私にとってのこのお祭り(常連さんは「石和」と略称)なのですが、あまりに前置きが長くなったので、この辺で今回の日記へと参ります。

・・・☆☆☆・・・

甲州入りしたのは、この日の朝7時過ぎ。
多くの隊士の方々は前日より宿泊して楽しまれていたようですが、私は残念ながら都合悪くギリギリに。(毎度こんなん)
それでも、中央線の特急「スーパーあずさ」というのに乗れば集合時間の1時間前には着ける目算だったのだけれど、直前になって当日午前は新宿駅工事のため各停のみと知る。
ということで、小田原駅から始発4:53発もしくはその次の5:08に乗らねばならん事に。
利用駅の鴨宮駅からだと、小田原に下る始発がそれより後になってしまうので、急遽、祖母宅にて仮眠させて頂く。
出発の折は、しっかりと駅前の氏政公・氏照公にお参りして出ました。

町田駅で乗り換え、八王子に。
偶然にも町田駅で通勤中の伯母と遭遇。
「あんたそんな竿持ってどこ行くの?」と聞かれ、
「山梨・・・」と答えといたが、釣りにでも行ったと思われたか。
で、八王子から石和温泉までが約1時間半。
日曜朝の車内は、部活の学生か登山客くらいしかいません。
ちと寒いが、車窓からは山の所々に咲く山桜が見えてつかの間の旅情気分を味わえた気がします。
実は電車で山梨に行くのは、これが初めてだったかも。
八王子を出た後に、同県の藤野に着いたりするあたり、やはり小田原からだと電車は遠回りという気がしますね。(身延線経由というのも考えましたが、さらに遠回り)

石和温泉駅に着いたのが8:40頃。
9時が集合時間だから、まさにギリギリ。途中の路線一つで遅れが発生していても、間に合わなかったでしょうから、ようやくホッとしたのであります。

集合場所の小学校体育館で「幕府軍」隊士の方々と合流。
ここで着付けをして頂き、記念撮影(参加費込み)をして頂いたりするのです。
さらにその後、合戦祭りの段取りの説明などがあって、11時半に昼食。(この弁当も参加費込みなのですが、衣装代も含めて参加量はたった2000円。以前の石和町の時は1000円であったとはいえ、かなり良心的な値ではないかと。さらに祭後の汗を流してもらおうと、温泉入浴券も付いてきます)

食事が済むと、正午半の出発(出陣)準備まで各自思い思いに楽しんでいます。まあ、若い方々は概ねチャンバラ、写真を撮ったりと。
女性が結構多いのですが、征夷大将軍太郎さんによれば、ゲーム(対戦もの?)などで戦国武将などが人気なるのだとか。
まあ、これも一種のコスプレには違いないですな。
前回、自分が出たのは確か映画『ラスト・サムライ』がヒットした後だったと思いますけど、さすがに外国人の参加者もちらほらいました。
今回は、山本勘介のような眼帯をしている御仁が複数見受けられまして、やはり年度によって参加者の傾向性があるのでしょう。
・・と、私も色々観察していたような事を言っていますが、実は眠いのと空腹(朝食抜き)とで、弁当つかった後はゴロ寝してました。

そして、時は正午半を過ぎて・・。いざ出陣!
征夷大将軍太郎さんより借りた面頬を被り、文字通り甲の緒を締め直し。
我等が隊は北信は葛尾城主の村上義清隊。
最終的に武田に信濃を追われるものの、武田軍を最も苦しめた勢力の一つであり、よく知られるところ。
ま、個人的には、鎌倉時代から信州の塩田北条氏に敵対したり、吉野で後醍醐天皇の忠臣であったりと、イマイチ北条氏とはしっくり来ない気もしますが、武名高い村上隊というのも気合が入ります。
これに、幕府隊の隊印としての朱色の「天下布武」巾着(征夷大将軍太郎さんのオリジナル)と、橙色の布を腰と頭に。
この頃から、各隊からも鬨の声が上がり、俄然テンションが上がって参ります。

メインの通りから笛吹川を渡り、「合戦場」の中州(字名川中島)へ。もう沿道はお客さんで一杯です。
すでに中州には赤備えの武田軍が勢ぞろいしており、遠くから見るとなかなか壮観なのです。BGMなど本来は観客向けの演出も、なりきって歩いていると、なかなか心地よい緊張感。
中州の小ステージには、武田信玄と山本勘介と由布姫が陣と別に着座。今年限りの演出でしょうか。

で、我々黒備えの上杉軍も中州の反対側に着陣するのですが、実はここから暫しの待機時間でして。
関係者やゲストの挨拶、先ほどの勘介・由布姫などによる寸劇などあって、両軍の杯儀などまで、着々と合戦に至るまでの演出が用意されております。
が、参加者からはよく見えない(笑)。
しかも、ほぼ毎年良い天気。というか、かなり直射日光カンカンの暑さなんですが。

暫しこんな状態で上杉軍の将兵はボーっとしておりました(笑)。
それが、ドカーンと火縄銃の実演でたたき起こされると、そろそろ合戦であります。
上杉軍は数隊ごとで一班となり、各班が順々に突撃する「車掛かり」の戦法を実施。これは、守ってる武田側から見てると、突っ込んでくる黒の集団というのはなかなか迫力があります。
まあ、近くで相対するとどちらもニコニコした烏合の衆なんですが(笑)。
でも、突撃開始の時は刀(竹光)振り上げて、「村上隊、突っ込め~」とか叫んでまして、結構これが気持ち良い(笑)。
毎度、雑兵でしたが、小なりとも将役は良いものです。
あんまり興奮しすぎて、背中の提灯、一度竹光でプッスリ刺しちゃましたよ(笑)。

最後は乱戦になるのですが、この時に以前お世話になっていた隊の方々と遭遇。奇しくも、板垣信方隊でして、ミニ「上田原の戦い」の再現となりました。
まあ、狙っていたのですけどね・・。

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そんなこんなで何度か激突が繰り返された後、(山梨のお祭りなので)上杉敗退。というか退却。というか、元の場所で皆さとてもスッキリした表情しておられました。
私らといえば、大エンドのアナウンスを聞きつつも、空になった上杉本陣で記念写真を撮ったり、謙信役の方と写真を撮ったり、やっておきたい事をさっさかやってました。
なぜなら、合戦(&イベント)が終ったら、両軍ともさっさと退場して着替え場の小学校に戻らんといけないのです。
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まあ、本来は最初から最後まで軍団然としているべきなのですが、このあたりまでくると観客席にも終りムードが出ているのがこちらからも見えます。
進行スタッフの人たちも、我々も客の一部として大目に見てくれているのだと思いますが・・・。

小学校に戻って武装解除すると、これまた体が解放されたような爽快さ。缶コーヒーなども頂いたり、ほんとに至れり尽くせりで、頭が下がります。

その後、幕府隊の人たちが泊まっていた宿に同道し、温泉に浸かり(今回は一人でゆっくり入れました)、ビールと軽食でお開き。
叫んで・走り回って・温泉に浸かって、皆さんとても爽やかなお顔でお帰りになられました。

見るだけでなく、出てみて二度楽しめるこの合戦祭り、今回久々に無理を押して参加して良かったと思います。
ストレス発散には、翌日ちょっと辛いですけどね(笑)。
来年も都合さえよければ・・・・。

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遠州袋井訪問

昨日11日、静岡県は袋井市の大叔父宅へ家族並びに伯母と祖母とで行ってまいりました。
実は先日一周忌が過ぎた祖父は、ここへ行こうと出発の支度をしている時に倒れたのでして。(母方)祖母の実家でもある大叔父の家に、祖父の御霊も一緒に連れ立って訪問したのでした。

本当を言うと、前々日から風邪気味で遠出する気分ではなかったのだけれど、実に三十年ぶりの大叔父の家。次はいつになるか分かったものではないので、葛根湯とハチミツやらプロポリスやらをかっ込んで出発したのであります。

それにしても、東名高速沿いには城跡が多く接しています。
いつも西上するときは専ら夜間走行なので、意識しないのですが、昼だとよく分かります。
大井松田ICから入れば、まず松田城。次に山北の河村新城。
駿東に入れば、裾野の千福城も。東海道沿いでは、蒲原城と用舟城などが見えました。防音壁(防風?)が無ければ、もっと色々と見えるはず。

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小田原を午前9時半に出て、袋井に着いたのが11時半頃。
まず大叔父の車と合流して、祖母の実家の墓参に。
私や父にとっては縁遠い寺ではありますが、私が3歳か4歳の時に一度、袋井の曾祖母に会っています。昔ながらの農家造りの家で、又従姉妹にあたる子ども達と大きな縁側で遊んだ記憶が。ですが、それよりも、帰り際に暗い土間の玄関で、曾祖母が私の誕生祝にお小遣いを沢山くれた事がより鮮明であったりも。
ともかく、私個人としては、その曾祖母の墓参という気分でしょうか。

そのお寺である海蔵寺でお参りして、大叔父の家で昼食。
内心期待していたのですが、やっぱり鰻!
祖母が食べきれない分も含めて美味しく頂きました。

食事時、旅行の話しか何かから大叔父が結構な歴史好きと感じた自分。食後、さりげなく、「久野城ってここから歩いてどのくらいですか?」と聞くと。
「ちょっと歩きじゃ遠いな。じゃ、車で連れてってあげるよ」と嬉しい答えが。
実は久野城も東名から見える城跡のひとつでして、以前から興味あったのです。
ヒマそうにしていた母と伯母も同行することになりましたが、その後、ついでにと「遠州三山」の一つ油山寺にも連れて行ってもらい、予期せぬ観光三昧となったのでした。

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久野城は城マニア向けなので詳細は省きますが(笑)、今川氏が遠州攻略に取り立てたもので、以後、徳川・豊臣の時代を経て、江戸前期に廃城になったもの。現在の遺構は、豊臣系城郭の時代に修造された姿で、結構な土木工事はこの時に行なわれた模様。ただし、石垣は使用されなかったようです。
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最近は毎年のように、発掘調査が継続されているようで、大叔父からも現地見学会の資料など頂きました。
祖母も、戦前にこの山で遊んだりもしたようですが、彼女いわく「何も無いよ」。
でも、本やネットで調べた話しなどを聞かせると、「あの(城址の)古井戸は姫が身投げしたとかいう話しで恐かった」と(何かあるじゃんか!)。
現在の城跡は、一帯がそっくり市に買い上げられ、見学しやすいようになっています。桜樹もいくつかあったので、10日ほど前に来れば花見が楽しめたかも。

ちなみに、最初に行った海蔵寺も城館伝承地の一つです。
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開基の今川了俊に発する遠州今川氏系の城館の一つであったらしく(墓地に了俊の追善墓碑があります)、現状の立地からもそれは伺えます。祖母や大叔父の話では、城跡伝承地の裏山は殆ど削られてしまったようです。今でも山内の弁天池後方の盛土が土塁のように見えますが、これが昔の地形の削り残しなのか、遺構なのかは分かりません。
大叔父によれば、離れた所にも土塁状の地形があったようですが、今は無いとの事。察するに、消滅した小山と現在の寺域を中心に、小規模ながら複数の中世城館遺構が点在していたのではないでしょうか。まあ、地籍図など見ていないのでなんとも言い難いのではありますが。

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油山寺(真言宗智山派)はもとは湯山寺の意らしく、山中から湧く鉱泉(ホウ酸成分があるようです)が眼病に効くとの霊験が昔から有名です。
一方で、山内の建築物に文化財が多いことでも名高く、桃山時代の三名塔に数えられる三重塔や、今川義元の供養に寄進されたと言う奥の院の本尊厨子、掛川城の大手門を移築した山門、横須賀城城主が寄進した旧城御殿の書院、浅羽の代官所を移築した方丈など、歴史建築が好きな人にも必見のお寺かと。
お薬師さんのお寺ということでしょうか、本坊の屋根は瑠璃色の亙で印象的でした。

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興味深かったのは、奥の院で本尊のお薬師さん隣に祀られている「軍善坊大権現」。山の守護神にして足腰の神さまとの事。
お名前や御利益から察するに、役行者さんに似た感じの神さまのように思いましたが、本堂外に白山堂がありましたので、やはり昔の偉大な先達さんなのかもしれません。
近所で言えば、大雄山最乗寺の道了大権現(大薩捶)に似た御性格の神さまでしょうかね。
自然林が良く残る山内なので、そんな昔の雰囲気も感じさせてくれる静かな古刹です。

しかし、袋井あたりは暖かいですね。
この日は日中21℃くらいで、小田原とは5度以上も違いました。果物や野菜が良く育つわけです。
すれ違う人々も心なしか朗らか。
気候が土地の人情を育てるというのは、あながち的を得ているのかも。

帰りには名産のメロンと干し芋を頂き、何だかあっという間に小田原に着きました。

そして再び風邪気味に。
城跡や寺では元気に走り回っていたのに・・。
回復どころか、帰宅してどっと疲れも出た感じで、今日は大事をとって終日自宅でダラダラしておりました。

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駿東の城跡めぐり

今日は久々の城跡めぐり。
お馴染のS氏より先週連絡があり、桜を見に行こうという話が、開花がまだ見込めそうにないので急遽城跡巡りにしようということになった。
午前8時半に鴨宮駅からS氏の車にて出発。ここから、同じく史跡巡りのお馴染のメンバー、征夷大将軍太郎さんも加わる。

実はこの瞬間まで具体的にどこへ行くのか決定していなかったのだが、現在放送中の『風林火山』に合わせて、近場で武田氏に関係する城跡ということに。
向かったのは駿東。
駿東郡は武田と北条がたびたび合戦した相駿の境である。
よって、双方の異なった築城遺構が点在しており、城好きにとってはバラエティに富んだ地域なのである。

とりあえず、今日はもう遅いし少々疲れたので、行程の内容のみを。個々についてはまた後日(面倒くさくて書かない可能性もあり)。

午前8時半・鴨宮駅出発
~足柄路より【足柄城跡(小山町)】~竹之下古戦場を経由して【深沢城跡(御殿場市)】~近隣の寺院で深沢城大手門を残す【大雲院】~(途中昼食)~やや南下して【葛山館跡&葛山城跡(裾野市)】および葛山氏菩提寺の【仙年寺】~やや南の御宿にある【千福城跡(裾野市)】および大森氏に由緒のある【普明寺】~黄瀬川の途中にある【五竜の滝(裾野市)】~そして帰路に【宝鏡院(三島市)】に立ち寄って足利義詮および政知の墓(分骨らしい)を見学~箱根路にて小田原へ(夕食および拙宅にて歓談)

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江戸博 企画展「江戸城」

結局、江戸博に到着したのは10:10頃。遅れてしまいました(汗)。

それにしても、どえらい外観のビル。
SFちっくで、ホワイトベースやビッグトレーの艦橋みたい。

ここで征夷大将軍太郎さんとナカジさんに合流、のはず、・・・が見当たらない。
初訪問で知らなかったのだけど、ここは入口が複数。私は知らずに裏口でウロウロしていたわけ。やっぱり余裕がない行動は良くないですね。

まあ程無く征夷大将軍太郎さんと会えたのですけど、ナカジさんは電車が人身事故で遅れているとの事。
玄関で待っているのも勿体無いので、常設展をまず。

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ゲートをくぐると日本橋(半分の長さを復原)。ちゃんと木造で、欄干の擬宝珠には元禄の年号が。
橋下の左右には「江戸ゾーン」の中村座や神田明神の山車や、「東京ゾーン」の朝野新聞社や公衆電話が復原されています。
まあ、細々言うとキリがないので止めておきますが、こんな風に江戸から明治・大正・昭和と各時代の景色がミニチュアや実寸模型で展示されているのです。もちろん、実物品も展示されています。
ミニチュアも中途半端な再現ではなく、しっかりと監修されているので、当時の立体写真を見ているようです。
時代ごとにゾーン分けが成されているのも上手いと思いました。体験できる展示もあるので、好きな人はたっぷり楽しめることと思います。

30分後、ナカジさんも合流。
で、再び一から展示を見直したりしたのですが、一つの展示を見る度に長々と話題が続くので(笑)、気がつくと何故かもう15時過ぎ。あれ?と思いましたよ、ホントに。

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さすがに第一目的の企画展を見逃してはアホなので、東京ゾーンは足早に。でも、やっぱり鹿鳴館や浅草十二階(凌雲閣)に捕まりまして(笑)。ついでに腹も減ったので、館内の洋食屋へ向かいました。
やはり別な展示を見るには気力を再充填しないとならんのであります。

洋食屋「東京モダン亭」は戦前の洋食屋風で、なかなか良い雰囲気。ハヤシライスを食べました。デミは美味しかったですが、肉がやや強かったかな・・。

そして満を持して「江戸城」展へ(笑)。
第一章「江戸城のなりたち」
第二章「天下人と城」
第三章「徳川将軍の城」
第四章「登城」
第五章「儀礼―政治の舞台」
第六章「大奥と将軍の暮らし」
・・・というのが展示内容ですが、私が前半に重点を置いていたのは言うまでもありません。

エントランスには大田道灌坐像(複製)や道灌書状が。
円覚寺黄梅院への返書などでしたが、陣中から抹茶の礼を述べているのがあったりと、彼の風流さが伺えました。
常陸国総社宮から出展の伝道灌所用軍配も時代を感じさせます。
北条時代の展示品としては、早雲寺の氏綱像や東大史料編纂所の氏綱判物(伊東文書大永四年)、埼玉県立文書館からの道祖土文書(このときは天正十三年氏政朱印影写本)など。
氏綱公の像は2月初めで早雲寺に帰還(同寺でも近く寺宝公開)して、代わりに氏政公像が上京される予定(笑)。
隠居氏政公の朱印状は江戸支配に関する一部で、婚礼行列に対する細かな指示が書かれているもの。行列の人衆は脇目をしたり手をふったりするなとか、結構細かいです。奏者は海保新左衛門尉。

第二章の展示は、秀吉政権下の徳川江戸城などを考えさせるような展示で、安土城跡や聚楽第跡、大阪城跡から出土の金箔亙や各時代の銭貨など。それと、一番の見ものは久野山からの出展、家康の「歯朶具足」(重文)。

第三章は北条氏が滅んで、家康の入府から江戸城大増築、当初の天守の推定など。
大手町出土の中世板碑なんかは古い時代の集落を想像させて興味深い。あと、八重洲北口遺跡のキリシタン墓副葬品なんかも今回初見でした(四番町資料館から)。
以前、都立図書館で展示された甲良家文書も。この辺りは今でも同図書館HPで画像公開がされてますけど、実物はやはり見ていて良いですね。
しかし、何と言っても「江戸名所図屏風」が魅力的でした。
この手の名所図屏風はホントに、じっと見ていて飽きることがありません。
個人的にこの頃の服装髪型などの方が好きかも。特に女性の。
でも、良く見ると女装している男もちらほら。その逆の女性もいるようですが。

それ以降のももちろん興味深いものでしたが、とりあえずこのあたりで。
やはり外からの借用展示品は前半に多いようで。
それにしても良くあちこちから集めたものだと思いました。

閉館時間と共に館外へ。
ミュージアムショップは大して見れませんでしたが、でっかい葵の紋所入りのメガネ拭きはちょっと惹かれました。

1時間ほどお茶して解散。
まさか終日博物館で過ごすとは想像してませんでしたが、かなり充実した見聞に大満足です。
こういう体験型博物館も面白いですね。

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初不動

昨日28日は初不動ということで、両国の江戸博見学に合わせて深川不動と富岡八幡に参拝に行ってきました。
博物館での待ち合わせは10時だったので、9時の護摩に合わせて門前仲町へ。
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商店街や門前はまだ露天の準備中でしたが、不動堂は早くも護摩が始まっていました。
このお不動さんは江戸時代の富岡八幡の別当寺・永代寺が明治に廃寺された後に建てられたもので、成田山の別院です。
といっても、徳川五代将軍綱吉の時代に(その母堂が成田山の本尊を是非江戸で参拝したいとの願いで)永代寺境内に出開帳した事に由来するとか。
富岡八幡の例祭が毎月1と15日のほかに28日なのは、そういうご縁があるからなんでしょうかね。

別に私は智山派の信徒ではないのですが、現在「関東三十六不動」を巡礼中でして、ここはその第20番札所なのです。
ともかく、まずは蝋燭を灯し護摩と一緒に読経&ご真言。
お寺に限らず宗教施設は皆そうだと思いますが、歴史ばかりで何も活動していない所よりも、現役で信徒が集まるところの方がエネルギーを感じますね。
活気というのでしょうか。
護摩を前に、ドンドコと和太鼓に合わせてお経や真言を唱和するのは半トランス状態にも近づけそうで、結構快感です。
もちろん、意図するのはそういう「神がかり」というより、心口意で大日如来や不動尊などの本尊と一体化するものなので、そこで遊び心を出している自分もどうかと思いますが。
でも広義の意味においては、それもありかなと。それに自分、単なる在家だし(笑)。

時間も少なくなってきたので護摩が終る頃、早めに御朱印をもらいました。昨年から今年にかけては、霊場開設20周年記念(そう、まだ新しい霊場なのです)の金(正確には黄色ですけど)の御朱印入りでちょっと嬉しい。

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その後、山内(境内)を軽く散歩。
成田信仰で有名な市川団十郎ほか、役者などが名を連ねた明治時代の記念碑(燈明台)や、お百度石、不動尊と二童子のブロンズ像などがありました。
私が気になったのは、お百度石の隣にあった将軍地蔵(写真)。本尊とする愛宕神社はあちこちにありますが、像で見たのは初めて。鼻筋が少しウルトラマンに似ているような。しかしなぜここに?火防祈願?

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その後、富岡八幡を駆け足で参拝。
鳥居や社殿が立派ですね。しかし、それ以上に神輿がすごい!
神輿蔵のをガラス越しに見れるのですが、国内最大なばかりか鳳凰や狛犬の目にはダイヤモンドが!鳳凰の鶏冠にはルビーが宝飾されているようです(実はあまり良く見えなかった)。
この八幡さん、横浜市金沢区の富岡八幡では、そこから江戸に勧請されたと伝えているようです。
境内には伊能忠敬の像がありました。
露天商のCDからは舟木一夫の「銭形平次」が流れていて、個人的にはとても居心地が良かったのですが、時計を見ると10時十分前。
ダッシュで境内を後にしました。

どちらもまた改めてゆっくり参りたいものです。

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平成十九日丁亥 伊豆箱根ニ所権現参詣記

正月八日赤口。伊豆山神社、箱根神社に参詣す。ご同道は藤沢征夷大将軍太郎殿、海老名S殿。昨正月相模国六社参詣と同じ面々也。
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八時過ぎに拙宅にて合流。先ず鎌倉将軍家旧例に倣い酒匂神社に参拝す。同地及び西側一帯ハかつて浜辺御所と呼ばれし地にて鎌倉将軍家上洛並びに伊豆箱根ニ所権現参詣、若しくは伊豆箱根三嶋三所参詣の折に宿泊せし旧跡也。嘗て駒形雷電等の箱根伊豆山分霊、源氏の八幡社在りけるも今は何も当地の鎮守数社と合祀され酒匂神社と成る。現在の主祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊なり。又、寿永四年(1185)源九郎義経一行、平宗盛父子護送の折投宿せるも当地と伝ふ。其後腰越駅より帰洛の折も投宿す。参道左手に曽我五郎力石、古様の狛犬在。今の境内頗る狭しと雖も、松樹凛々、昔の浜辺の景色僅かに偲ばれるもの也。昨夜の大風に松葉散々参道に落つ。氏子等清掃の中、我等本日の道中安全ニ所参拝無事成就を祈願す。
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丸子川渡り、真白き富士高嶺を右に望見す。東海道小田原宿より熱海道。先ず伊豆山神社に向ふ。天候頗る快晴。相州青海波煌く。右手、石橋山古戦場は頼朝公治承四年(1180)大敗の地也。当初ニ所詣は伊豆山より箱根へ至る道程為るも、将軍家石橋山に於て想廻らす事是在り。戦死者追会並びに潔斎を催されるに付、ニ所参詣の吉日日延べと相成らば、以後に於ては箱根より伊豆山への順路と成る由と聞く。其の他『吾妻鏡』に拠ば、建久元年(1190)正月二十日、将軍家伊豆山権現参詣帰路、当地で討死せる佐奈田余一義忠主従の塚覧じて落涙数行に及ぶとあり。

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九時前に伊豆山着。共々参拝す。拝殿清掃中にして多くの床几並び置かれる。本日は成人式なれば、伴う参拝者準備の為なり哉。社前より網代、川奈の岬を遠望す。初島への沖船、航跡穏かなり。境内の頼朝政子腰掛石、郷土資料館を見物す。
伊豆山神社は上代の古は詳かならず。『箱根権現縁起絵巻』に拠らば、箱根伊豆山共に相州大磯高麗権現に由来すると伝ふ。嘗て伊豆山走湯権現として崇敬大いに集受く。主祭神は火牟須比命、伊邪那伎命、伊邪那美命。現今、三柱を以て伊豆山神とす。延喜式神名帳に火牟須比命神社と記す。本地は法体千手、俗体阿弥陀、女体如意輪。摂社は本宮社、雷電社、走湯社。末社は結明社、白山社、足立権現社。永らく伊豆修験の中心にして神仏習合の霊場也。度々の天災並び寺勢変遷に因り当初の由緒教義、詳らかならず。旧別当密厳院、跡を境内西方僅かに残すのみ。別当般若院は豆州真言宗総元締にして関東各地に所領持つに至るも、明治神仏分離に因り別して今、単立す。
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そもそも豆州韮山に止置れし源頼朝公と北条時政女政子の婚礼を助くは当社別当、密厳院阿闍梨覚淵と伝ふ。治承四年挙兵に於ては伊豆山宗徒も一味すと。政子伊豆山に匿れし後、当社専光坊住職良暹により鎌倉に於て再開果す。良暹、鶴岡八幡宮初代別当職に任ぜらる。
郷土資料館ご神宝類を拝観す。宝冠阿弥陀坐像並びに社殿裏山経塚遺物等、古き時代の信仰厚きを今しに見る物也。宝冠阿弥陀は伊豆山常行三昧堂本尊にして優品。往時は快慶作宝冠阿弥陀も有りしと聞く。今、芸州耕三寺所有。買取られし経緯全く存ぜざれども残念至極也。走湯権現立像三体在り。二つは何れも男神にて銅造。鎌倉並びに室町南北朝の代の作也。御姿は立烏帽子に袍、袈裟を上懸る。鉾と笏の持物共に失いける。一つは男女一対木造。室町時代。男神御姿は衣冠把笏、前の二体と異れり。女神御姿は唐服垂髪。案ずるに此男女神御姿は箱根神社及び大磯高来神社に存する男女神像にも似たり。其の他、紺地金泥般若心経(後奈良天皇宸翰)、頭髪梵字曼荼羅(北条政子奉納)等は複製を展示す。
資料館拝観後、神社再拝す。当社神徳の縁結は良く知られたる所也。征夷大将軍太郎殿、恋愛成就を祈願す。当方、新な広き人縁及び神助を祈願す。社務所にて朱印受く。神籤中吉。曰、雨晴れて木の間よりさす月光に緑さやかな風にほふかな。雨後の薫風爽やかな新年開運を期す。境内雷電社、結明社、足立権現社を参拝す。結明社は日精月精なる男女二神にして縁結の神也。征夷大将軍太郎殿心願す。足立権現社は当方以前参拝に際し脚痛治癒を祈願せし所、即ち本復す。祭神は役ノ行者神変大菩薩也。結明社参拝の折、I氏と称す老人に声掛らる。当社に興味此有らば案内書を渡さむ読むべしとて、紙幅厚き手製の案内書を下される。尋るに、I老人家は代々伊豆山にて山伏を修せしと。今は伊豆山氏子として日参欠さず、明かならぬ社歴等を調べて居るとの由。S殿、案内書御代に志納申出たるも、I老人曰,此れ神恩感謝の奉仕也と断じて受けず。我等感謝の言葉尽し、此ぞ神縁と也と語て参道を下る。省れば山伏に御師先達たる案内職有り。時代遷ると云へども志は伝はるもの也。

参道階段、小田原古道を跨ぎ更に渚近くまで下る。権現坂と称すと云。沿道植樹は吉野桜。路傍の道祖神、僧形坐像は豆州の様式也。国道近く鳥居礎石在り。今境内の石鳥居此也。大正震災の後、此処より遷さると。I老人曰、境内鳥居に由緒有り。天正十八年(1590)豊臣秀吉、小田原北条攻略の砌、伊豆山修験等北条方に一味致し、堂宇等放火受く。其の折、網代の漁船漁民等徴発さる。役後、網代の村民等、詫びとて鳥居新に建立す。但し今の鳥居、網代村惣氏子の銘有と雖も建立文化二年(1805)と記す。然らば由緒の鳥居は今存せずと見ゆ。国道西に橋。逢初橋と称す。古く是より北西、御嶽社杜近くに在しもの也。伝説曰、伊豆山沖初島に漂着せる初木姫、伊豆山彦命と初て出逢し地也と。又一説曰、源頼朝公と北条政子初て出逢し地也共云。誠に縁結の昔話多き地也。逢初橋近く、逢初地蔵堂なる小庵在り。由緒曰、元暦元年(1184)北条政子、長女大姫が病気平癒の為、経紙を練て地蔵像を造り安置せると。今其の地蔵像を見ず。
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権現坂下に走湯神社在り。伊豆山飛地境内末社にて男女二神を祀る。社殿裏崖下横坑に温泉湧く。嘗て此処より温泉大いに湧出し、海に注ぐを以て走湯と名付けられたりと伝ふ。今は樋を以て旅宿に供さるのみ。由緒の景色全く失ふ。願わくば旧に復す事期すもの也。坑内湯煙満つ。湯気のみにても効能有り哉。出湯、其侭浴すに熱さ過ぐ。触れるに摂氏五十度程と感じたり。
熱海の街、来宮神社等を過ぎ、日金の山路に入る。街中に満巻上人所縁の湯前神社在り。関心覚えしも、本日大事は二所詣無事成就にして敢て立寄らず。日金山東光寺、其に同じ。彼地は伊豆山本宮旧地にして、十国見渡す計りの絶景地なれば、寄道等も一考巡り有り。但し此辺りに差掛る頃、俄かに薄暗き雲た立出る。然らば富士も隠れ、景勝望むべくなしとて過ぎ行きたり。

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芦川旧宿にて鎮守駒形神社参拝す。此宿は嘗て箱根権現が修験、比丘尼等多く住せし所也。当時の産物に杓子有り。此れ箱根権現に納められ、参詣者少き冬季には修験等により神符と共に里人に授与せられしもの也。以て杓子町とも称さる。今、其の跡殆ど止めず。旧道脇の六地蔵、巡礼碑等、僅かに昔を偲ばす。鎮守駒形神社、元は荒湯駒形権現と称し、修験比丘尼等、此処より霊峰駒ケ岳を遥拝すと云。箱根権現社外末社。古社の一つ也。祭神は、天之御中主神、大山祇神、素盞嗚尊。三柱を駒ケ岳地主神とす。其の他境内に蓑笠明神、犬塚明神、毘沙門天。蓑笠明神は嘗て箱根宿三島町の住民移住せし時、三嶋大社分霊を勧請したもの也。明治末、三島町の境内上地されるに付合祀さる。祭神事代主神。犬塚明神は由緒曰、元和四年(1618)箱根宿開設の折、狼駆除に賜りし唐犬二匹を祀る小祠也。二匹、善く勤るも傷付き死す。人々厚く謝して犬塚明神と祭ると伝ふ。毘沙門天は近年開設の箱根七福神の一つ也。本日初寅縁日なれば参拝す。高所なれば、伊豆山に比べ幾分肌寒し。

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箱根神社々頭は参詣人で賑わいたり。我等も謹んで参拝す。社務所にて御神酒受く。神籤、大吉。曰、常盤なる松の緑のすがやかに初日かがやく神のみ苑に。正月に縁起良き一首也。又、伊豆山の神籤と日月の吉歌成るも幸先良し。一々喜憂するは愚かなれども、神意の支へ斯有らば以て励みと為さむ。続いて九頭龍新宮、高根社、駒形社を参拝す。九頭龍社は近年、縁結の神徳大いに知らるゝ所にて特に女人等の信仰厚く受く。本日も参拝者多く、長く列を為す。境内には龍神小社別して一祠在り。勝名荒神社改め曽我神社の裏に鎮座す。神号由緒等記載無し。案ずるに神山清水平に祭祀さる龍神若しくは湖畔白和龍王なるに哉。定かならず。是にて二所御参拝無事果す。時刻、正午前。赤口なれば今、神助の参拝とぞ知る。
箱根神社『縁起並序』及び『縁起絵巻』に拠らば、大磯高麗権現に由緒ありと。伊豆山権現と共に当地山岳修験の古刹なれば関心浅からずと雖も詳かならず。中興萬巻上人を以て箱根修験の祖とも云。上人奥津城は社殿裏山に在り。祭神、瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、耶木花咲姫命。三柱を箱根大神と称す。本地は法体文殊、俗体弥勒、女体観音也。以て箱根三所大権現と嘗て称す。別当金剛王院、明治に廃し、今は其の跡地のみを残す。縁起曰、源頼義、義家、東征の折度々参詣し表矢を献ずと。又、別当行實、若くして源為義、義朝等に好通ずと伝ふ。然るに、治承四年(1180)源頼朝挙兵に於ては当山衆徒一味す。以後、伊豆山走湯権現並び箱根三所権現は鎌倉将軍家の崇敬浅からず。二所詣旧例は是に発す。後に三嶋大明神を加へ三所詣とも申したり。此等三社、関東武士の帰依尊崇大いに受く。天正十八年小田原役の砌は当社箱根権現衆徒、北条方に一味。伽藍灰燼に帰す。徳川家康、源家に倣い伊豆山箱根等修繕す。
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境内休憩所に於て昼食。名物の餅を食す。軟かく美味なり。権現からめもちと称し、一皿に海苔巻、下し胡麻、黄粉、餡子の餅で四百円也。大根下し餅も美味也。S氏、征夷大将軍太郎氏、更に蕎麦を平ぐ。此頃、天候回復す。
新築成る宝物殿を拝観。常設展示は大きく変わり無し。但し、展示の手法等は一新成され、見学安易を図る。企画展示に於ては現今、二所詣展を公開せり。新館落成の杮落しとて、伊豆山神社、鶴岡八幡宮、三嶋大社等より神宝出陳さる。伊豆山社蔵、紺紙金銀字交書仏説無所稀望経。八幡宮蔵、源実朝公詠草三首。等々何れも関心深く拝見す。箱根神社に於ても此程初て展覧に供するもの少なからず。法体俗体女体権現立像、男神女神坐像、女神立像、銅造男神坐像等何れも初見のもの也。男女神一対の坐像は最も古き神像にて、平安の御作と云。三所権現は法俗女の三身なれば相の僧形像を欠く。萬巻上人像をして権現法体像を成さむるか。然れども作風全く異る。法俗女体の三像は素朴なれども善く宝蔵されたる対のもの也。表情豊か女神立像は也。銅造男神坐像は珍しきものと覚ゆ。其の他、箱根権現縁起絵巻、曽我兄弟由緒の刀剣等拝見す。
平和大鳥居より湖岸を散策。途中、御供船庫内を覗見る。龍頭鷁首の船其々在り。本年後鎮座一千二百五十年大祭の年なれば、新たに改修為されしもの也哉。興福院大師堂に参拝す。開山、権現別当四十一世融山僧正。後、曹洞宗に改める。由緒を以て、金剛王院伝来の仏像数体を蔵す。

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帰路は渋滞を避け、宮城野橋より久野林道を経て三竹、沼田に出ず。道折、塔ノ峰城址、八乙女神社、西念寺を見物す。八乙女社境内は沼田城出郭の遺構也。西念寺に駿州興国寺城主、天野康景墓所在り。更に、栢山善栄寺、二宮尊徳翁生家を見学す。善栄寺は北条氏康室、瑞渓院殿所縁の寺也。今、追善供養墓残る。又、二宮本家の菩提寺にて尊徳翁追善墓も是在り。法名、誠明院功誉報徳中正居士。塔婆に訓語等記せり。一円融合、積小為大、分度推上。当方先祖も翁に所縁浅からず。現今当方、行状改むべき事少なからず。墓前にして無言の訓戒覚得る心地是有り。省るに本日、清々しき二所参詣に勇気受け、二宮翁に心中一渇さる。天導ならば全て心得たり。本年、謹みて神仏を敬ひ、刻々の可勤を誓うもの也。(終)

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厚木の寺院巡り

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あいにくの雨だったが厚木で寺院めぐりをしてきた。
同行の方はお馴染の征夷大将軍太郎さん。そして海老名のSさんで、お車を出していただいた。
お二方ともネットでお知り合いになった方々なのだけど、主に県内の歴史散歩を共に楽しむようになって早6年余り。オフ会と今風に称して企画したりしているが、何のことはない、ただの社会人の歴史愛好サークルである。
ただ、同県人とはいえ各地のさらにローカルな歴史というのは普段なかなか接する機会も無く、マイナー趣味すぎてネットにも引っかからない事が少なくない。ローカルと云えども、その集合体が市や県を構成しているわけで、他所の微細な史話から己が土地の歴史を再発見することもしばしばで、私はこの交流を通じて大変多くのことを学ばせて頂いている。
普通のサークルと異なるのは、そうしたネット友人を介して、異なった趣味の方とも会う機会ができたということであろうか。
だが、やはり長続きは気心の和である。
そういう意味では、今回の寺院めぐりは早めの年越大祓い、いや仏名会になったであろうか。

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とりあえず参拝・訪問順に概要を記すと次の通り。飯山観音(長谷寺・坂東三十三観音第六番札所)~松石寺(松田直長の墓など)~山中陣屋跡史跡公園(荻野山中藩陣屋跡)~法界寺(松田康長創建、鋳物師木村家墓)~清源院(伝越智氏館跡、同氏供養碑、伊東政世一族墓)~蓮生寺(小幡景憲一族墓)~法雲寺(山角次郎右衛門一族墓)以上厚木市内~長泉寺(伝渋谷一族墳墓地、曾司五郎定心居館推定地)。各地の詳細は後々HPでアップの予定(たぶん)。

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その後、相鉄線さがみ野駅近くのタイ料理店「パイケオ」にて飲食。折りしもラオス系タイ人の人達の誕生パーティーに居合わせ、共に楽しませてもらう。帰路は不覚にも寝過ごし、一駅間ほど歩く羽目になってしまった。

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写真は上と中央が清源院(征夷太守軍太郎さん提供)で、下がパイケオ(私の携帯カメラにて)

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近江に行って参りました(その4)彦根城

さて、ようやく最終目的地の彦根城。もう行ってから一月も経とうとしているのですが、まあけじめレポとしまして・・。
まず、写真はこちらです(パスワードは「om20061105」)。
http://lumixclub.jp/photo/Lci?mode=guest&album=EGKMWUIISZ07iOQ37gsI

時間は午後2時過ぎだったか。さすがにお腹も空いたので、彦根へ戻る道すがらコンビニで中華まんなどを買う。K氏のご友人は彦根城で姫装束(・・で良かったのかな?)を体験中とのことで、それが終る前までに是非とも彦根城へ着到を目指していたのであった。急ぐK氏は早々に飲み込むように済ませて運転。私は助手席で窓を開けて寛ぎながらゆっくり食させていただく。陽は暖かく真に良い天気、窓からの風も心地よかった。

道は大して混んでおらずスムースに彦根へ。ふと路傍を見ると、「巡礼街道」の標示が。同名の道は小田原にもあるが、こちらは坂東三十三所観音霊場の札所への道であり、彦根のそれは、かつて彦根城築城以前に山上にあった彦根寺の巡礼道とのことである。ちなみにその道沿いの商店街は「ベルロード商店街」と称しているが、これは六部(巡礼者)の持っていた鈴に因むとの事。

巡礼街道を東に向かい、芹川を渡ると程なく彦根城下である。
巡礼街道を外れて京橋へ向かう直線道路に入る。ここは、城への導入路として整備された商店街「夢京橋キャッスルロード」となっており、沿道の店が全て町屋風に仕上げてある。色調や屋根の勾配などが統一され、また電線も完全に地中化であり、一層の景観美を際だたせている。何だか江戸時代テーマパークに来たような楽しさで、城に入るまでの気分を盛り上げてくれる。やはり、城下を観光地として整備するなら、これくらいやって欲しいものである。
その通りの中に、目を引く朱門の寺があった。宗安寺とある。が、これが石田三成の佐和山城大手門を移築したもの(と伝える)と知ったのは、帰宅して後のことであった。墓地には、大坂の陣で討死した青年武将・木村重成の首塚(井伊家家臣・安藤長三郎なるものが討取ったと伝える)があるとのこと。上方(西方)びいきの方には、なかなか感慨ひとしお為らぬ寺かと思う。ちなみに本堂には徳川家康の位牌も祀られているとのこと。これもまた、上方びいきの方には複雑な思いひとかた為らぬかもしれないが。

このキャッスルロードの突き当たりが京橋口で、ここで外堀(旧中堀)を越えると所謂二の丸(内曲輪)域内である。橋向うは枡形の食い違いが良く残る門跡でもあった。そこから、内堀沿いに進んだ所にある二の丸駐車場に我々は車を止めた。
駐車場とはいえ、二の丸佐和口多聞櫓のすぐ裏にある広場であり、すでに周囲には重文クラスの建築群(同多聞櫓、馬屋など)が建ち並んでいる。これらを見ただけで(今日のメインはやはり彦根城であったかもしれない。もっと早く来るべきだった・・・)と早々に感じた次第であった。

駐車場を出ると内堀のすぐ向うは彦根城博物館で、土塁の向うにはその御殿造りの甍が軒を連ねているのが見えた。さらに遠くには山上の本丸石垣も望めた。ここから城内に入るのは大手門ではなく表門であるが、今はこちらが最も大きな入場口のようになっている感じ。
表門橋を渡っていて気づくのは、この表門を境にした左右の土塁である。一方は、法面の上下に石垣を配する鉢巻・および腰巻石垣であり、一方は腰巻石垣のみで勾配の緩い土塁であった。
さて、橋を渡っていると、正面から緋や萌黄の色鮮やかな姫様風の人々が四人ばかりこちらに歩いて来られる。そして、この中にK氏ご友人もおられた。私もご挨拶させていただき、同行のご家族衆に僅かながら小田原土産を手渡させていただく。先々より小田原北条家ご贔屓の方とK氏より伺っていたので、老舗のういろうが良いかとも思ったが、とりあえず正栄堂の最中「虎朱印」を持参した。しかし、ご一同5人であったのに対し、3つほどの最中しか持って行かなかったので、少々申し訳ない気もした。

ご友人らと別れ、表門を通りいよいよ主城郭内へ。城と博物館のセット入場券もあったが、各郭を歩くと博物館まで拝観する時間は無さそうなので、今回は止めておいた。大変残念ではあるが、また次回を期待したい。

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表門から登城していく「表坂」は樹々に覆われてやや薄暗い。それを上り詰めたところに高石垣と、左右に二階櫓を配した天秤櫓が建っている。というより立ちはだかって居る感じといえようか。天秤櫓の門からは、我々が表坂で左手に接していた鐘の丸へと橋(廊下橋)が架かっている。すなわち、今歩いてきた道は堀道(堀底道)なのであった。尾根の反対側にある大手門からの道もここで合流していたようで、この門の防御にどれだけ重点が置かれていたかが察せられた。
また彦根城の石垣や建築物の多くは、他の廃城から転用したものが多いとされているが、この天秤櫓は長浜城から移築されたと云われている。土台の石垣の積み方が左右で異なるのは、一方のみ後世に改修されたためである。

鐘の丸へ上がり、廊下橋へ。この橋は、戦時の際にはいつでも落とせたものではあったろうが、旧観は覆屋を備えた橋であった。
そういえばこの橋には、ちょっとした昔話がある。
慶長11年(1606)、彦根城の築城が一段落した祝宴の折、この橋を通っていた結城秀康(徳川家康次男)が吐血する事件があった。一説には、後の彦根二代藩主の井伊直孝が毒をもったと云われているが、真相は不明である。が、その翌年に秀康は34歳で死去。死因は梅毒と伝えられているが、同年には弟の松平忠吉(家康四男)も死去しており、その辺りが徳川秀忠(家康三男)側近による謀殺であるとか、徳川政権の将来を憂いた父家康の意によるものという説の根拠になっているようではある。ともあれ、この秀康の吐血痕だけが橋の羽目板に残った。そして後年、幾つかの不幸が秀康の祟りと結び付けられ、不吉なものとして羽目板ならびに覆屋なども取り払ってしまったということである。
この話だけを信じると、幕府の忠誠の為には謀事も厭わずという恐ろしげな井伊直孝のイメージが浮かぶかもしれないので、小田原ネタもかぶせてもう一つ余談を。
我らが小田原・大久保藩二代の大久保忠隣公が謀反の嫌疑で所領を没収され、配流の身が預けられていたのも、彦根藩領であった。その折、預かっているという立場もあったろうが、多くの幕臣らが大御所・家康の怒りを恐れて忠隣公無実の訴訟取り次ぎを渋る中、冤罪を訴えて赦免を請うてくれたのが井伊直孝と成瀬正成であった。
その運動も功を奏し、もともと秀忠の覚えも大きかった忠隣であるから、家康没後に無罪の内意を得たが、それでは先君の政道に失点を残しかねないとして忠隣は辞退。佐和山の麓にある井伊家菩提寺・竜譚寺門前に居を移し、仏門に帰依した余生を送ったとされる。遺骨は小田原大久寺もしくは京都本禅寺に改葬されたようだが、位牌のみが同寺に今も残っている。

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さて、大変説明臭くなってきたのでこの辺りで少々急ぎまわりを。
天秤櫓の門をくぐって、太鼓丸。やや小さな枡形あり。次に太鼓門。この櫓門は佐和山城からの転用と目されている由。そして本丸。大津城天守を移築したという天守で、破風や花頭窓などが特徴的で秀麗。ただし、下層は下見板張りで突上げ戸、石垣を雨水から守る水切り板が巡らしてあったり、さらには塗込めの漆喰裏には戦時の為の鉄砲狭間が設けられているらしい(天守内は時間的都合により立入らず)。慶長年間の城らしいといえばそれまでだが、見る角度によってはそのような無骨さは微塵も感じさせない(そういえば、現在時代劇専門チャンネルで再放送中の『葵・徳川三代』では大津城の合戦に現・彦根天守が合成もしくはCG処理で登場していた)。西の丸の三重櫓もまた小谷城天守を移築したと伝えているが、これは概ね否定された模様。いずれにせよ移築といえども、外観までがそっくりもとのままということはまずないだろう。
本丸着見台からの展望はすこぶる良く、眼下には城内御殿を模した博物館の全容や佐和口門、二の丸庭園の玄宮園などが見下ろされ、さきほど表門からはるかに望んだ本丸石垣はここであったかと気がついた。また北側は旧三の丸域から琵琶湖方面まで見渡せ、やや