カテゴリー「歴史」の28件の記事

「天地人展」後期展観

ショボくれたまま、ほおづき持って六本木へ。
嘘です。
日比谷線でひと眠りして忘れました。

しかし、さすがにミッドタウンで、ほおづきぶら下げて歩いてると、明らかに場所違いという気が…(知らぬ)。
美術館入口で、受付のお姉さんにほおづき預けるのが少々こっ恥ずかしかった。

今日待ち合わせしたのは、桜風東行さんとナカジさん。
前回ご一緒した時、お二人とも後期展示を気にしていたのと、ご職場もそれほど遠くなく当日なんとかご都合がつけられそうだとの事で、無理してお誘いさせてもらいました。

ただ、ナカジさんとは館内ですぐに合流できたものの、桜風さんとお会いできたのは、展観後、出口の外で。
どうやらお忙しい所を無理押して参上して下さったらしく、展示も急いで観られた模様。
展示を見ながら上杉氏の色々を解説してもらうという目論見ばかりか、ご本人の楽しい機会を急かせてしまったようで、少々申し訳無く、反省(猿)。

さて、後期展示で興味深かったのは、個人的にはやはり上杉三郎景虎の書状。
御館の乱のさ中、9月14日付で小田切孫七郎に宛てたもの。
安田の地に陣して山浦衆を引き付けている等の軍功を賞した、というような内容だったと思います。
彼の自筆というか花押は初めて実物を見ました。と思います。

景虎の花押は、上杉謙信や憲政とは異なり、兄・北条氏政(当主時代)の花押と同じスタイル。
氏政は義父の信玄の花押に倣ったものかと、昨年の神奈川県立博物館での北条氏文書展では説明がなされていましたけど…。
何様というんでしたっけ?
景虎のは、右下に離れた所に、はね点。
越後における北条氏政の代理人という存在を象徴しているのでしょうか。
遠山康英(康光の子)の花押も、景虎のと似ているのが気になります。

その他、目を引いたのは、
新発田氏を討った時の景勝感状(嶺岸佐左衛門尉宛)や、富田左近将監が秀吉から拝領したと伝える「黄地牡丹唐草模様緞子」の陣羽織など。

肖像画は、前期では「前田玄以像」(重文)がエロ坊主っぽい風貌で印象的だったり、ルパン三世みたいなもみあげが目立った「本多政重像」がありましたが、今回は、「本多政信像」や「伊達政宗夫妻画像」、昭和の「石田三成画像」とか。皆、落ち着いたご風貌。
インパクト勝負なら、前半の方が圧倒的でした(笑)。

後期の目玉であった「上杉本洛中洛外図屏風」(狩野永徳)は、さすがに一番人気。
前回と違い、閉館前の展観でしたので、離れて全面を俯瞰なんてできようもなく、細川邸や三好邸など、気になる個所幾つかを寄って見るに留まりました。
信長好きなナカジさんは、一人でじっくり観てたみたいですけど。
展観後、図録も何も買わなかったのに、屏風のミニチュアだけは買っておられました(笑)。
余程お気に召したようで♪

上杉家、やはり歴史好きな女性で熱心な方がおられるようで、図録見本をシートに座ってじっくり読んでる人が居ました。
トイレに行ったり、桜風さんを確認しに行ったりと15分くらいの間に、その方の前を三度通り過ぎましたが、全く動く気配なし(笑)。
目、血走らせてたんじゃなかろうか(笑)。
まあ、東京でこうしてまとめて観られる機会ってのも、そうそう無いだろうし、図録で理解深めて展示室内見直したいってのもあるでしょうけどね。
これが北条氏だったら、と思えば理解できます。

展観後、受付でほおづきを受け取り(笑)、出口付近のシートで桜風さん待ち。
程なく来られましたが、スーツ姿の桜風さんは当然の如く印象が違いましたので(笑 良い意味で)、実際薄暗い展示室内で中で待ってても、気が付かなかったかも。

展観後は、ベトナム料理を。
帰りのロマンスカーが21:30だったので、短い間ではありましたが楽しい時間を過ごせました♪
歴史談義から違う方向に行ってしまいましたが(笑)

ご同道頂いた、桜風さんとナカジさん、ありがとうございました!

| | コメント (0)

夏越大祓

今日で今年の前半も終了。
夏越の大祓。

昨年は、報徳二宮神社で人形(ひとがた)納めて来ましたが、今年は小田原駅近くの“だいなりさん”こと大稲荷神社に寄ってきました。
33615283_28708870731

こちらは北条時代にあった稲荷が元になっているとのことですが、その後、近居した武田旧臣・曲淵氏の屋敷稲荷と併せて田中稲荷と称し、北条氏滅亡後に小田原城主となった大久保忠世が三河から移した稲荷を併せて祀ったものとされています。

大久保氏は忠世の子、忠隣の時に謀反を疑われ、近江に改易配流されてしまいます(井伊家預かりとなり龍潭寺で没す。寛永5(1628)年6月27日)。
小田原に残った関連の寺社も一時期荒廃しますが、貞享3(1686)年、三代後の忠朝が下総佐倉から小田原藩主に返り咲き、先祖の無念を晴らすと、そのゆかりの寺社もまた厚く保護されて行きました。
大稲荷神社が城主のさらなる崇敬を受け、規模が大きくなるのは、忠朝の子、忠増の時。
家臣の清水氏の妹に田中稲荷が降りて、年内に藩主に慶事あり、と告げたというのですが、その通り忠増はその年に若年寄から老中に、隠岐守から加賀守に出世したのでした。
喜んだ忠増は、土地を寄進して別当寺を付けました。それが今の鎮座地。また、江戸の大久保氏邸内にも別宮を勧請しました。
どうやら城の鬼門除けとして厚く崇敬を受けたのはこの頃からみたいです。


こちらで茅の輪をくぐるのは初めてかも。
雨に濡れた輪が、夏らしい感じです。

ここは人形が置かれてなく、名簿帳が置いてありました。
記載した分のお祓いをしてくれるスタイルみたいです。
ということで、自分と家族を記して、今年前半の感謝。
そして、心にたまった穢れもさようなら。

明日は山開き・海開き♪
富士山は雪が大分残っているようですが、とりあえず多くの浅間神社では神事が行われる事でしょう。
小田原も明日から海開きです。
逗子や鎌倉なんかはもう開いちゃったみたいですね。
さすが観光地、早い。

| | コメント (0)

パパイヤ甘粕

NHKのスタパ見てたら、パパイヤ鈴木が今日のゲストでした。

本人曰く、体が小さいんです、との事。

大河で着ている甘粕の衣装は、パパイヤ氏と衣装担当さんで決めたのだとか。
イメージした甘粕のキャラと本人が好きな色なども考えたとかで、なるほど小道具にもそうした気遣いがあるんですね。

上田衆の俳優さん達はプライベートでも飲みに行くなど仲が宜しいそうで、やはり大河のように一年かけて密に仕事すると、特に同胞の役なんかは気心が知れて来るんでしょうね。
『新撰組!』の役者達もそんな感じがしましたが、ちょっと羨ましいですね。

ドラマとしての作品は相変わらずツッコミいれたくなる気がしますけど、真面目に制作に携わってる方を観ると、後ろめたいというか申し訳ない気がします。
ま、ネタにされてるのはキャストや裏方ではなく、主に脚本なのでしょうけど…

あ、ネタといえば、パパイヤの頭!
やはり番組でも話題にあがっていました(笑)
後半では甘粕の兜も登場するそうなので、それも期待して欲しいとの事。

あの頭にどんな兜が乗るんだ??!
シコロから毛がはみ出してそうな恐いもの見たさで…楽しみです♪

| | コメント (0)

日帰り武士

1941502
去る15日の日曜、山梨県の笛吹市で行なわれた時代祭りに参加して来ました。
その名も『川中島合戦戦国絵巻』というのですが、笛吹市の『桃の花祭り』イベントの目玉であります。
4月の山梨は各地で武田信玄関係のイベントが行なわれておりまして、毎年この時期の甲州は武田月間とも呼ばれていたり。
今年は大河ドラマの影響もありまして、なかなか盛況でありました。

(とりあえず前置きに今までの事を書きますが、参加者の方々はとばして下にお進み下さい)

・・・☆☆☆・・・

「今年は」と付けたのは、実は初めての参加ではないから。
平成13年に、その頃は石和町のイベントでしたが、歴史関係のネット掲示板で仲良くなった方々に誘われて参加したのが最初。(まあ、それ以前から見学では行ってたのですが)
その時のメンバーが今でも史跡巡りのお馴染さんになっているのです。
この時は上杉軍(一般参加の殆どはこちら)だったのですけど、共に参加した面々皆、どちらかというと武田贔屓。

で、どうにか(地元のボランティア参加が大半の)武田で出ようと、当時のリーダーの尽力で、翌年に念願の武田軍参加が叶ったのであります(笑)。

このお祭りの面白いのは、ただ時代衣装を着て歩くだけでなく、模擬合戦「川中島の戦い」を実際に演じるということ。
要するに堂々とお祭りの中でチャンバラができるという訳ですな。
それから、参加者は「昔の武者のように」自分を誇示する事が許されておりまして、オリジナルの背旗やら隊印(個人または団体参加なのです)などを着用できるのも、なかなか他の地域の時代祭りでは無い面白さではないかと思います。
実際、リピーターも多く、常連さんでは毎年ここで出会うのを楽しみにしておられる方もいるようです。

私の場合は不定期ということもあって、毎年申し込みの段階で希望は表明するものの、今回で4回目。でも3・4年ぶりなので久々。
今回は初回からお世話になっていた隊から浮気して、マイミクの将軍太郎さんの隊「幕府軍」で出陣です。
前の隊では初回を除いてずっと武田軍でしたが、幕府軍は上杉軍の常連さん。よって、今回は多少不本意ながらも上杉軍に参加と相成りました。
まあ、個人的なスタンスとしては武田軍になった時点で、小田原北条氏からの援兵というつもりでして(笑)。一応、武田氏と北条氏は何度か協同作戦をとっていますし、お互い援軍を送ったりしています。
そんな意味と、小田原勢の誇りを込めて、3回目からはオリジナルの指物をデビュー。北条家の三鱗紋入りの提灯であります。ちゃんと地元の提灯職人さん(小田原駅改札にぶらさがってる巨大提灯を作った方です)に用途を理解して作って頂いた本格派です。実物同様、油も塗ってあるので雨天でも大丈夫(笑)。
ただ、伝統工芸で有名な「小田原ちょうちん」は江戸時代に完成したスタイル。よって、オーソドクスなスタイルの提灯です。(でも、これもどこまで古いのかよく分からないのですけどね)
あと、提灯を指物にした理由は、地元の名物というのではなく、江戸前期の軍記もの『北条五代記』(北条遺臣でもある三浦浄心が著した逸話録『慶長見聞集』から、北条氏関係の話を抜粋したもの)「小田原北条家旗馬しるしの事」に出てくる、玉縄衆・三好孫太郎の「七ツ提灯」に肖ったものであります。
最初は、昔から好きな小田原武士の、馬廻衆・鈴木大学助(小田原籠城時、渋取口で討死)の背旗「やり」でも作ろうかと思いましたが、余りにマイナーで認知されにくいと思い辞めました。
また、この提灯の指し竿は、亡き祖父が四方竹(四角い竹)で拵えてくれたもの。たかが竿ですが、実は提灯より大事です。

で、この提灯、デビューした時もなかなか目立ったらしく、結構色んな方から聞かれました。この時、友好都市として参加していた館山からの里見隊とも記念撮影できましたし(笑)。

まあ、というのが私にとってのこのお祭り(常連さんは「石和」と略称)なのですが、あまりに前置きが長くなったので、この辺で今回の日記へと参ります。

・・・☆☆☆・・・

甲州入りしたのは、この日の朝7時過ぎ。
多くの隊士の方々は前日より宿泊して楽しまれていたようですが、私は残念ながら都合悪くギリギリに。(毎度こんなん)
それでも、中央線の特急「スーパーあずさ」というのに乗れば集合時間の1時間前には着ける目算だったのだけれど、直前になって当日午前は新宿駅工事のため各停のみと知る。
ということで、小田原駅から始発4:53発もしくはその次の5:08に乗らねばならん事に。
利用駅の鴨宮駅からだと、小田原に下る始発がそれより後になってしまうので、急遽、祖母宅にて仮眠させて頂く。
出発の折は、しっかりと駅前の氏政公・氏照公にお参りして出ました。

町田駅で乗り換え、八王子に。
偶然にも町田駅で通勤中の伯母と遭遇。
「あんたそんな竿持ってどこ行くの?」と聞かれ、
「山梨・・・」と答えといたが、釣りにでも行ったと思われたか。
で、八王子から石和温泉までが約1時間半。
日曜朝の車内は、部活の学生か登山客くらいしかいません。
ちと寒いが、車窓からは山の所々に咲く山桜が見えてつかの間の旅情気分を味わえた気がします。
実は電車で山梨に行くのは、これが初めてだったかも。
八王子を出た後に、同県の藤野に着いたりするあたり、やはり小田原からだと電車は遠回りという気がしますね。(身延線経由というのも考えましたが、さらに遠回り)

石和温泉駅に着いたのが8:40頃。
9時が集合時間だから、まさにギリギリ。途中の路線一つで遅れが発生していても、間に合わなかったでしょうから、ようやくホッとしたのであります。

集合場所の小学校体育館で「幕府軍」隊士の方々と合流。
ここで着付けをして頂き、記念撮影(参加費込み)をして頂いたりするのです。
さらにその後、合戦祭りの段取りの説明などがあって、11時半に昼食。(この弁当も参加費込みなのですが、衣装代も含めて参加量はたった2000円。以前の石和町の時は1000円であったとはいえ、かなり良心的な値ではないかと。さらに祭後の汗を流してもらおうと、温泉入浴券も付いてきます)

食事が済むと、正午半の出発(出陣)準備まで各自思い思いに楽しんでいます。まあ、若い方々は概ねチャンバラ、写真を撮ったりと。
女性が結構多いのですが、征夷大将軍太郎さんによれば、ゲーム(対戦もの?)などで戦国武将などが人気なるのだとか。
まあ、これも一種のコスプレには違いないですな。
前回、自分が出たのは確か映画『ラスト・サムライ』がヒットした後だったと思いますけど、さすがに外国人の参加者もちらほらいました。
今回は、山本勘介のような眼帯をしている御仁が複数見受けられまして、やはり年度によって参加者の傾向性があるのでしょう。
・・と、私も色々観察していたような事を言っていますが、実は眠いのと空腹(朝食抜き)とで、弁当つかった後はゴロ寝してました。

そして、時は正午半を過ぎて・・。いざ出陣!
征夷大将軍太郎さんより借りた面頬を被り、文字通り甲の緒を締め直し。
我等が隊は北信は葛尾城主の村上義清隊。
最終的に武田に信濃を追われるものの、武田軍を最も苦しめた勢力の一つであり、よく知られるところ。
ま、個人的には、鎌倉時代から信州の塩田北条氏に敵対したり、吉野で後醍醐天皇の忠臣であったりと、イマイチ北条氏とはしっくり来ない気もしますが、武名高い村上隊というのも気合が入ります。
これに、幕府隊の隊印としての朱色の「天下布武」巾着(征夷大将軍太郎さんのオリジナル)と、橙色の布を腰と頭に。
この頃から、各隊からも鬨の声が上がり、俄然テンションが上がって参ります。

メインの通りから笛吹川を渡り、「合戦場」の中州(字名川中島)へ。もう沿道はお客さんで一杯です。
すでに中州には赤備えの武田軍が勢ぞろいしており、遠くから見るとなかなか壮観なのです。BGMなど本来は観客向けの演出も、なりきって歩いていると、なかなか心地よい緊張感。
中州の小ステージには、武田信玄と山本勘介と由布姫が陣と別に着座。今年限りの演出でしょうか。

で、我々黒備えの上杉軍も中州の反対側に着陣するのですが、実はここから暫しの待機時間でして。
関係者やゲストの挨拶、先ほどの勘介・由布姫などによる寸劇などあって、両軍の杯儀などまで、着々と合戦に至るまでの演出が用意されております。
が、参加者からはよく見えない(笑)。
しかも、ほぼ毎年良い天気。というか、かなり直射日光カンカンの暑さなんですが。

暫しこんな状態で上杉軍の将兵はボーっとしておりました(笑)。
それが、ドカーンと火縄銃の実演でたたき起こされると、そろそろ合戦であります。
上杉軍は数隊ごとで一班となり、各班が順々に突撃する「車掛かり」の戦法を実施。これは、守ってる武田側から見てると、突っ込んでくる黒の集団というのはなかなか迫力があります。
まあ、近くで相対するとどちらもニコニコした烏合の衆なんですが(笑)。
でも、突撃開始の時は刀(竹光)振り上げて、「村上隊、突っ込め~」とか叫んでまして、結構これが気持ち良い(笑)。
毎度、雑兵でしたが、小なりとも将役は良いものです。
あんまり興奮しすぎて、背中の提灯、一度竹光でプッスリ刺しちゃましたよ(笑)。

最後は乱戦になるのですが、この時に以前お世話になっていた隊の方々と遭遇。奇しくも、板垣信方隊でして、ミニ「上田原の戦い」の再現となりました。
まあ、狙っていたのですけどね・・。

1941503
そんなこんなで何度か激突が繰り返された後、(山梨のお祭りなので)上杉敗退。というか退却。というか、元の場所で皆さとてもスッキリした表情しておられました。
私らといえば、大エンドのアナウンスを聞きつつも、空になった上杉本陣で記念写真を撮ったり、謙信役の方と写真を撮ったり、やっておきたい事をさっさかやってました。
なぜなら、合戦(&イベント)が終ったら、両軍ともさっさと退場して着替え場の小学校に戻らんといけないのです。
1941504
まあ、本来は最初から最後まで軍団然としているべきなのですが、このあたりまでくると観客席にも終りムードが出ているのがこちらからも見えます。
進行スタッフの人たちも、我々も客の一部として大目に見てくれているのだと思いますが・・・。

小学校に戻って武装解除すると、これまた体が解放されたような爽快さ。缶コーヒーなども頂いたり、ほんとに至れり尽くせりで、頭が下がります。

その後、幕府隊の人たちが泊まっていた宿に同道し、温泉に浸かり(今回は一人でゆっくり入れました)、ビールと軽食でお開き。
叫んで・走り回って・温泉に浸かって、皆さんとても爽やかなお顔でお帰りになられました。

見るだけでなく、出てみて二度楽しめるこの合戦祭り、今回久々に無理を押して参加して良かったと思います。
ストレス発散には、翌日ちょっと辛いですけどね(笑)。
来年も都合さえよければ・・・・。

| | コメント (2)

遠州袋井訪問

昨日11日、静岡県は袋井市の大叔父宅へ家族並びに伯母と祖母とで行ってまいりました。
実は先日一周忌が過ぎた祖父は、ここへ行こうと出発の支度をしている時に倒れたのでして。(母方)祖母の実家でもある大叔父の家に、祖父の御霊も一緒に連れ立って訪問したのでした。

本当を言うと、前々日から風邪気味で遠出する気分ではなかったのだけれど、実に三十年ぶりの大叔父の家。次はいつになるか分かったものではないので、葛根湯とハチミツやらプロポリスやらをかっ込んで出発したのであります。

それにしても、東名高速沿いには城跡が多く接しています。
いつも西上するときは専ら夜間走行なので、意識しないのですが、昼だとよく分かります。
大井松田ICから入れば、まず松田城。次に山北の河村新城。
駿東に入れば、裾野の千福城も。東海道沿いでは、蒲原城と用舟城などが見えました。防音壁(防風?)が無ければ、もっと色々と見えるはず。

19411_0323
小田原を午前9時半に出て、袋井に着いたのが11時半頃。
まず大叔父の車と合流して、祖母の実家の墓参に。
私や父にとっては縁遠い寺ではありますが、私が3歳か4歳の時に一度、袋井の曾祖母に会っています。昔ながらの農家造りの家で、又従姉妹にあたる子ども達と大きな縁側で遊んだ記憶が。ですが、それよりも、帰り際に暗い土間の玄関で、曾祖母が私の誕生祝にお小遣いを沢山くれた事がより鮮明であったりも。
ともかく、私個人としては、その曾祖母の墓参という気分でしょうか。

そのお寺である海蔵寺でお参りして、大叔父の家で昼食。
内心期待していたのですが、やっぱり鰻!
祖母が食べきれない分も含めて美味しく頂きました。

食事時、旅行の話しか何かから大叔父が結構な歴史好きと感じた自分。食後、さりげなく、「久野城ってここから歩いてどのくらいですか?」と聞くと。
「ちょっと歩きじゃ遠いな。じゃ、車で連れてってあげるよ」と嬉しい答えが。
実は久野城も東名から見える城跡のひとつでして、以前から興味あったのです。
ヒマそうにしていた母と伯母も同行することになりましたが、その後、ついでにと「遠州三山」の一つ油山寺にも連れて行ってもらい、予期せぬ観光三昧となったのでした。

19411_0411
久野城は城マニア向けなので詳細は省きますが(笑)、今川氏が遠州攻略に取り立てたもので、以後、徳川・豊臣の時代を経て、江戸前期に廃城になったもの。現在の遺構は、豊臣系城郭の時代に修造された姿で、結構な土木工事はこの時に行なわれた模様。ただし、石垣は使用されなかったようです。
19411_0691
最近は毎年のように、発掘調査が継続されているようで、大叔父からも現地見学会の資料など頂きました。
祖母も、戦前にこの山で遊んだりもしたようですが、彼女いわく「何も無いよ」。
でも、本やネットで調べた話しなどを聞かせると、「あの(城址の)古井戸は姫が身投げしたとかいう話しで恐かった」と(何かあるじゃんか!)。
現在の城跡は、一帯がそっくり市に買い上げられ、見学しやすいようになっています。桜樹もいくつかあったので、10日ほど前に来れば花見が楽しめたかも。

ちなみに、最初に行った海蔵寺も城館伝承地の一つです。
19411_0271
開基の今川了俊に発する遠州今川氏系の城館の一つであったらしく(墓地に了俊の追善墓碑があります)、現状の立地からもそれは伺えます。祖母や大叔父の話では、城跡伝承地の裏山は殆ど削られてしまったようです。今でも山内の弁天池後方の盛土が土塁のように見えますが、これが昔の地形の削り残しなのか、遺構なのかは分かりません。
大叔父によれば、離れた所にも土塁状の地形があったようですが、今は無いとの事。察するに、消滅した小山と現在の寺域を中心に、小規模ながら複数の中世城館遺構が点在していたのではないでしょうか。まあ、地籍図など見ていないのでなんとも言い難いのではありますが。

19411_0851
油山寺(真言宗智山派)はもとは湯山寺の意らしく、山中から湧く鉱泉(ホウ酸成分があるようです)が眼病に効くとの霊験が昔から有名です。
一方で、山内の建築物に文化財が多いことでも名高く、桃山時代の三名塔に数えられる三重塔や、今川義元の供養に寄進されたと言う奥の院の本尊厨子、掛川城の大手門を移築した山門、横須賀城城主が寄進した旧城御殿の書院、浅羽の代官所を移築した方丈など、歴史建築が好きな人にも必見のお寺かと。
お薬師さんのお寺ということでしょうか、本坊の屋根は瑠璃色の亙で印象的でした。

19411_1171
興味深かったのは、奥の院で本尊のお薬師さん隣に祀られている「軍善坊大権現」。山の守護神にして足腰の神さまとの事。
お名前や御利益から察するに、役行者さんに似た感じの神さまのように思いましたが、本堂外に白山堂がありましたので、やはり昔の偉大な先達さんなのかもしれません。
近所で言えば、大雄山最乗寺の道了大権現(大薩捶)に似た御性格の神さまでしょうかね。
自然林が良く残る山内なので、そんな昔の雰囲気も感じさせてくれる静かな古刹です。

しかし、袋井あたりは暖かいですね。
この日は日中21℃くらいで、小田原とは5度以上も違いました。果物や野菜が良く育つわけです。
すれ違う人々も心なしか朗らか。
気候が土地の人情を育てるというのは、あながち的を得ているのかも。

帰りには名産のメロンと干し芋を頂き、何だかあっという間に小田原に着きました。

そして再び風邪気味に。
城跡や寺では元気に走り回っていたのに・・。
回復どころか、帰宅してどっと疲れも出た感じで、今日は大事をとって終日自宅でダラダラしておりました。

| | コメント (0)

駿東の城跡めぐり

今日は久々の城跡めぐり。
お馴染のS氏より先週連絡があり、桜を見に行こうという話が、開花がまだ見込めそうにないので急遽城跡巡りにしようということになった。
午前8時半に鴨宮駅からS氏の車にて出発。ここから、同じく史跡巡りのお馴染のメンバー、征夷大将軍太郎さんも加わる。

実はこの瞬間まで具体的にどこへ行くのか決定していなかったのだが、現在放送中の『風林火山』に合わせて、近場で武田氏に関係する城跡ということに。
向かったのは駿東。
駿東郡は武田と北条がたびたび合戦した相駿の境である。
よって、双方の異なった築城遺構が点在しており、城好きにとってはバラエティに富んだ地域なのである。

とりあえず、今日はもう遅いし少々疲れたので、行程の内容のみを。個々についてはまた後日(面倒くさくて書かない可能性もあり)。

午前8時半・鴨宮駅出発
~足柄路より【足柄城跡(小山町)】~竹之下古戦場を経由して【深沢城跡(御殿場市)】~近隣の寺院で深沢城大手門を残す【大雲院】~(途中昼食)~やや南下して【葛山館跡&葛山城跡(裾野市)】および葛山氏菩提寺の【仙年寺】~やや南の御宿にある【千福城跡(裾野市)】および大森氏に由緒のある【普明寺】~黄瀬川の途中にある【五竜の滝(裾野市)】~そして帰路に【宝鏡院(三島市)】に立ち寄って足利義詮および政知の墓(分骨らしい)を見学~箱根路にて小田原へ(夕食および拙宅にて歓談)

| | コメント (0)

江戸博 企画展「江戸城」

結局、江戸博に到着したのは10:10頃。遅れてしまいました(汗)。

それにしても、どえらい外観のビル。
SFちっくで、ホワイトベースやビッグトレーの艦橋みたい。

ここで征夷大将軍太郎さんとナカジさんに合流、のはず、・・・が見当たらない。
初訪問で知らなかったのだけど、ここは入口が複数。私は知らずに裏口でウロウロしていたわけ。やっぱり余裕がない行動は良くないですね。

まあ程無く征夷大将軍太郎さんと会えたのですけど、ナカジさんは電車が人身事故で遅れているとの事。
玄関で待っているのも勿体無いので、常設展をまず。

19128_0591
ゲートをくぐると日本橋(半分の長さを復原)。ちゃんと木造で、欄干の擬宝珠には元禄の年号が。
橋下の左右には「江戸ゾーン」の中村座や神田明神の山車や、「東京ゾーン」の朝野新聞社や公衆電話が復原されています。
まあ、細々言うとキリがないので止めておきますが、こんな風に江戸から明治・大正・昭和と各時代の景色がミニチュアや実寸模型で展示されているのです。もちろん、実物品も展示されています。
ミニチュアも中途半端な再現ではなく、しっかりと監修されているので、当時の立体写真を見ているようです。
時代ごとにゾーン分けが成されているのも上手いと思いました。体験できる展示もあるので、好きな人はたっぷり楽しめることと思います。

30分後、ナカジさんも合流。
で、再び一から展示を見直したりしたのですが、一つの展示を見る度に長々と話題が続くので(笑)、気がつくと何故かもう15時過ぎ。あれ?と思いましたよ、ホントに。

19128_0831
さすがに第一目的の企画展を見逃してはアホなので、東京ゾーンは足早に。でも、やっぱり鹿鳴館や浅草十二階(凌雲閣)に捕まりまして(笑)。ついでに腹も減ったので、館内の洋食屋へ向かいました。
やはり別な展示を見るには気力を再充填しないとならんのであります。

洋食屋「東京モダン亭」は戦前の洋食屋風で、なかなか良い雰囲気。ハヤシライスを食べました。デミは美味しかったですが、肉がやや強かったかな・・。

そして満を持して「江戸城」展へ(笑)。
第一章「江戸城のなりたち」
第二章「天下人と城」
第三章「徳川将軍の城」
第四章「登城」
第五章「儀礼―政治の舞台」
第六章「大奥と将軍の暮らし」
・・・というのが展示内容ですが、私が前半に重点を置いていたのは言うまでもありません。

エントランスには大田道灌坐像(複製)や道灌書状が。
円覚寺黄梅院への返書などでしたが、陣中から抹茶の礼を述べているのがあったりと、彼の風流さが伺えました。
常陸国総社宮から出展の伝道灌所用軍配も時代を感じさせます。
北条時代の展示品としては、早雲寺の氏綱像や東大史料編纂所の氏綱判物(伊東文書大永四年)、埼玉県立文書館からの道祖土文書(このときは天正十三年氏政朱印影写本)など。
氏綱公の像は2月初めで早雲寺に帰還(同寺でも近く寺宝公開)して、代わりに氏政公像が上京される予定(笑)。
隠居氏政公の朱印状は江戸支配に関する一部で、婚礼行列に対する細かな指示が書かれているもの。行列の人衆は脇目をしたり手をふったりするなとか、結構細かいです。奏者は海保新左衛門尉。

第二章の展示は、秀吉政権下の徳川江戸城などを考えさせるような展示で、安土城跡や聚楽第跡、大阪城跡から出土の金箔亙や各時代の銭貨など。それと、一番の見ものは久野山からの出展、家康の「歯朶具足」(重文)。

第三章は北条氏が滅んで、家康の入府から江戸城大増築、当初の天守の推定など。
大手町出土の中世板碑なんかは古い時代の集落を想像させて興味深い。あと、八重洲北口遺跡のキリシタン墓副葬品なんかも今回初見でした(四番町資料館から)。
以前、都立図書館で展示された甲良家文書も。この辺りは今でも同図書館HPで画像公開がされてますけど、実物はやはり見ていて良いですね。
しかし、何と言っても「江戸名所図屏風」が魅力的でした。
この手の名所図屏風はホントに、じっと見ていて飽きることがありません。
個人的にこの頃の服装髪型などの方が好きかも。特に女性の。
でも、良く見ると女装している男もちらほら。その逆の女性もいるようですが。

それ以降のももちろん興味深いものでしたが、とりあえずこのあたりで。
やはり外からの借用展示品は前半に多いようで。
それにしても良くあちこちから集めたものだと思いました。

閉館時間と共に館外へ。
ミュージアムショップは大して見れませんでしたが、でっかい葵の紋所入りのメガネ拭きはちょっと惹かれました。

1時間ほどお茶して解散。
まさか終日博物館で過ごすとは想像してませんでしたが、かなり充実した見聞に大満足です。
こういう体験型博物館も面白いですね。

| | コメント (0)

初不動

昨日28日は初不動ということで、両国の江戸博見学に合わせて深川不動と富岡八幡に参拝に行ってきました。
博物館での待ち合わせは10時だったので、9時の護摩に合わせて門前仲町へ。
19128_0211
商店街や門前はまだ露天の準備中でしたが、不動堂は早くも護摩が始まっていました。
このお不動さんは江戸時代の富岡八幡の別当寺・永代寺が明治に廃寺された後に建てられたもので、成田山の別院です。
といっても、徳川五代将軍綱吉の時代に(その母堂が成田山の本尊を是非江戸で参拝したいとの願いで)永代寺境内に出開帳した事に由来するとか。
富岡八幡の例祭が毎月1と15日のほかに28日なのは、そういうご縁があるからなんでしょうかね。

別に私は智山派の信徒ではないのですが、現在「関東三十六不動」を巡礼中でして、ここはその第20番札所なのです。
ともかく、まずは蝋燭を灯し護摩と一緒に読経&ご真言。
お寺に限らず宗教施設は皆そうだと思いますが、歴史ばかりで何も活動していない所よりも、現役で信徒が集まるところの方がエネルギーを感じますね。
活気というのでしょうか。
護摩を前に、ドンドコと和太鼓に合わせてお経や真言を唱和するのは半トランス状態にも近づけそうで、結構快感です。
もちろん、意図するのはそういう「神がかり」というより、心口意で大日如来や不動尊などの本尊と一体化するものなので、そこで遊び心を出している自分もどうかと思いますが。
でも広義の意味においては、それもありかなと。それに自分、単なる在家だし(笑)。

時間も少なくなってきたので護摩が終る頃、早めに御朱印をもらいました。昨年から今年にかけては、霊場開設20周年記念(そう、まだ新しい霊場なのです)の金(正確には黄色ですけど)の御朱印入りでちょっと嬉しい。

19128_0171
その後、山内(境内)を軽く散歩。
成田信仰で有名な市川団十郎ほか、役者などが名を連ねた明治時代の記念碑(燈明台)や、お百度石、不動尊と二童子のブロンズ像などがありました。
私が気になったのは、お百度石の隣にあった将軍地蔵(写真)。本尊とする愛宕神社はあちこちにありますが、像で見たのは初めて。鼻筋が少しウルトラマンに似ているような。しかしなぜここに?火防祈願?

19128_0221
その後、富岡八幡を駆け足で参拝。
鳥居や社殿が立派ですね。しかし、それ以上に神輿がすごい!
神輿蔵のをガラス越しに見れるのですが、国内最大なばかりか鳳凰や狛犬の目にはダイヤモンドが!鳳凰の鶏冠にはルビーが宝飾されているようです(実はあまり良く見えなかった)。
この八幡さん、横浜市金沢区の富岡八幡では、そこから江戸に勧請されたと伝えているようです。
境内には伊能忠敬の像がありました。
露天商のCDからは舟木一夫の「銭形平次」が流れていて、個人的にはとても居心地が良かったのですが、時計を見ると10時十分前。
ダッシュで境内を後にしました。

どちらもまた改めてゆっくり参りたいものです。

| | コメント (0)

平成十九日丁亥 伊豆箱根ニ所権現参詣記

正月八日赤口。伊豆山神社、箱根神社に参詣す。ご同道は藤沢征夷大将軍太郎殿、海老名S殿。昨正月相模国六社参詣と同じ面々也。
P10000091
八時過ぎに拙宅にて合流。先ず鎌倉将軍家旧例に倣い酒匂神社に参拝す。同地及び西側一帯ハかつて浜辺御所と呼ばれし地にて鎌倉将軍家上洛並びに伊豆箱根ニ所権現参詣、若しくは伊豆箱根三嶋三所参詣の折に宿泊せし旧跡也。嘗て駒形雷電等の箱根伊豆山分霊、源氏の八幡社在りけるも今は何も当地の鎮守数社と合祀され酒匂神社と成る。現在の主祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊なり。又、寿永四年(1185)源九郎義経一行、平宗盛父子護送の折投宿せるも当地と伝ふ。其後腰越駅より帰洛の折も投宿す。参道左手に曽我五郎力石、古様の狛犬在。今の境内頗る狭しと雖も、松樹凛々、昔の浜辺の景色僅かに偲ばれるもの也。昨夜の大風に松葉散々参道に落つ。氏子等清掃の中、我等本日の道中安全ニ所参拝無事成就を祈願す。
P10000111
丸子川渡り、真白き富士高嶺を右に望見す。東海道小田原宿より熱海道。先ず伊豆山神社に向ふ。天候頗る快晴。相州青海波煌く。右手、石橋山古戦場は頼朝公治承四年(1180)大敗の地也。当初ニ所詣は伊豆山より箱根へ至る道程為るも、将軍家石橋山に於て想廻らす事是在り。戦死者追会並びに潔斎を催されるに付、ニ所参詣の吉日日延べと相成らば、以後に於ては箱根より伊豆山への順路と成る由と聞く。其の他『吾妻鏡』に拠ば、建久元年(1190)正月二十日、将軍家伊豆山権現参詣帰路、当地で討死せる佐奈田余一義忠主従の塚覧じて落涙数行に及ぶとあり。

P10000241
九時前に伊豆山着。共々参拝す。拝殿清掃中にして多くの床几並び置かれる。本日は成人式なれば、伴う参拝者準備の為なり哉。社前より網代、川奈の岬を遠望す。初島への沖船、航跡穏かなり。境内の頼朝政子腰掛石、郷土資料館を見物す。
伊豆山神社は上代の古は詳かならず。『箱根権現縁起絵巻』に拠らば、箱根伊豆山共に相州大磯高麗権現に由来すると伝ふ。嘗て伊豆山走湯権現として崇敬大いに集受く。主祭神は火牟須比命、伊邪那伎命、伊邪那美命。現今、三柱を以て伊豆山神とす。延喜式神名帳に火牟須比命神社と記す。本地は法体千手、俗体阿弥陀、女体如意輪。摂社は本宮社、雷電社、走湯社。末社は結明社、白山社、足立権現社。永らく伊豆修験の中心にして神仏習合の霊場也。度々の天災並び寺勢変遷に因り当初の由緒教義、詳らかならず。旧別当密厳院、跡を境内西方僅かに残すのみ。別当般若院は豆州真言宗総元締にして関東各地に所領持つに至るも、明治神仏分離に因り別して今、単立す。
P10000201
そもそも豆州韮山に止置れし源頼朝公と北条時政女政子の婚礼を助くは当社別当、密厳院阿闍梨覚淵と伝ふ。治承四年挙兵に於ては伊豆山宗徒も一味すと。政子伊豆山に匿れし後、当社専光坊住職良暹により鎌倉に於て再開果す。良暹、鶴岡八幡宮初代別当職に任ぜらる。
郷土資料館ご神宝類を拝観す。宝冠阿弥陀坐像並びに社殿裏山経塚遺物等、古き時代の信仰厚きを今しに見る物也。宝冠阿弥陀は伊豆山常行三昧堂本尊にして優品。往時は快慶作宝冠阿弥陀も有りしと聞く。今、芸州耕三寺所有。買取られし経緯全く存ぜざれども残念至極也。走湯権現立像三体在り。二つは何れも男神にて銅造。鎌倉並びに室町南北朝の代の作也。御姿は立烏帽子に袍、袈裟を上懸る。鉾と笏の持物共に失いける。一つは男女一対木造。室町時代。男神御姿は衣冠把笏、前の二体と異れり。女神御姿は唐服垂髪。案ずるに此男女神御姿は箱根神社及び大磯高来神社に存する男女神像にも似たり。其の他、紺地金泥般若心経(後奈良天皇宸翰)、頭髪梵字曼荼羅(北条政子奉納)等は複製を展示す。
資料館拝観後、神社再拝す。当社神徳の縁結は良く知られたる所也。征夷大将軍太郎殿、恋愛成就を祈願す。当方、新な広き人縁及び神助を祈願す。社務所にて朱印受く。神籤中吉。曰、雨晴れて木の間よりさす月光に緑さやかな風にほふかな。雨後の薫風爽やかな新年開運を期す。境内雷電社、結明社、足立権現社を参拝す。結明社は日精月精なる男女二神にして縁結の神也。征夷大将軍太郎殿心願す。足立権現社は当方以前参拝に際し脚痛治癒を祈願せし所、即ち本復す。祭神は役ノ行者神変大菩薩也。結明社参拝の折、I氏と称す老人に声掛らる。当社に興味此有らば案内書を渡さむ読むべしとて、紙幅厚き手製の案内書を下される。尋るに、I老人家は代々伊豆山にて山伏を修せしと。今は伊豆山氏子として日参欠さず、明かならぬ社歴等を調べて居るとの由。S殿、案内書御代に志納申出たるも、I老人曰,此れ神恩感謝の奉仕也と断じて受けず。我等感謝の言葉尽し、此ぞ神縁と也と語て参道を下る。省れば山伏に御師先達たる案内職有り。時代遷ると云へども志は伝はるもの也。

参道階段、小田原古道を跨ぎ更に渚近くまで下る。権現坂と称すと云。沿道植樹は吉野桜。路傍の道祖神、僧形坐像は豆州の様式也。国道近く鳥居礎石在り。今境内の石鳥居此也。大正震災の後、此処より遷さると。I老人曰、境内鳥居に由緒有り。天正十八年(1590)豊臣秀吉、小田原北条攻略の砌、伊豆山修験等北条方に一味致し、堂宇等放火受く。其の折、網代の漁船漁民等徴発さる。役後、網代の村民等、詫びとて鳥居新に建立す。但し今の鳥居、網代村惣氏子の銘有と雖も建立文化二年(1805)と記す。然らば由緒の鳥居は今存せずと見ゆ。国道西に橋。逢初橋と称す。古く是より北西、御嶽社杜近くに在しもの也。伝説曰、伊豆山沖初島に漂着せる初木姫、伊豆山彦命と初て出逢し地也と。又一説曰、源頼朝公と北条政子初て出逢し地也共云。誠に縁結の昔話多き地也。逢初橋近く、逢初地蔵堂なる小庵在り。由緒曰、元暦元年(1184)北条政子、長女大姫が病気平癒の為、経紙を練て地蔵像を造り安置せると。今其の地蔵像を見ず。
P10000351
権現坂下に走湯神社在り。伊豆山飛地境内末社にて男女二神を祀る。社殿裏崖下横坑に温泉湧く。嘗て此処より温泉大いに湧出し、海に注ぐを以て走湯と名付けられたりと伝ふ。今は樋を以て旅宿に供さるのみ。由緒の景色全く失ふ。願わくば旧に復す事期すもの也。坑内湯煙満つ。湯気のみにても効能有り哉。出湯、其侭浴すに熱さ過ぐ。触れるに摂氏五十度程と感じたり。
熱海の街、来宮神社等を過ぎ、日金の山路に入る。街中に満巻上人所縁の湯前神社在り。関心覚えしも、本日大事は二所詣無事成就にして敢て立寄らず。日金山東光寺、其に同じ。彼地は伊豆山本宮旧地にして、十国見渡す計りの絶景地なれば、寄道等も一考巡り有り。但し此辺りに差掛る頃、俄かに薄暗き雲た立出る。然らば富士も隠れ、景勝望むべくなしとて過ぎ行きたり。

P10000501
芦川旧宿にて鎮守駒形神社参拝す。此宿は嘗て箱根権現が修験、比丘尼等多く住せし所也。当時の産物に杓子有り。此れ箱根権現に納められ、参詣者少き冬季には修験等により神符と共に里人に授与せられしもの也。以て杓子町とも称さる。今、其の跡殆ど止めず。旧道脇の六地蔵、巡礼碑等、僅かに昔を偲ばす。鎮守駒形神社、元は荒湯駒形権現と称し、修験比丘尼等、此処より霊峰駒ケ岳を遥拝すと云。箱根権現社外末社。古社の一つ也。祭神は、天之御中主神、大山祇神、素盞嗚尊。三柱を駒ケ岳地主神とす。其の他境内に蓑笠明神、犬塚明神、毘沙門天。蓑笠明神は嘗て箱根宿三島町の住民移住せし時、三嶋大社分霊を勧請したもの也。明治末、三島町の境内上地されるに付合祀さる。祭神事代主神。犬塚明神は由緒曰、元和四年(1618)箱根宿開設の折、狼駆除に賜りし唐犬二匹を祀る小祠也。二匹、善く勤るも傷付き死す。人々厚く謝して犬塚明神と祭ると伝ふ。毘沙門天は近年開設の箱根七福神の一つ也。本日初寅縁日なれば参拝す。高所なれば、伊豆山に比べ幾分肌寒し。

P10000541
箱根神社々頭は参詣人で賑わいたり。我等も謹んで参拝す。社務所にて御神酒受く。神籤、大吉。曰、常盤なる松の緑のすがやかに初日かがやく神のみ苑に。正月に縁起良き一首也。又、伊豆山の神籤と日月の吉歌成るも幸先良し。一々喜憂するは愚かなれども、神意の支へ斯有らば以て励みと為さむ。続いて九頭龍新宮、高根社、駒形社を参拝す。九頭龍社は近年、縁結の神徳大いに知らるゝ所にて特に女人等の信仰厚く受く。本日も参拝者多く、長く列を為す。境内には龍神小社別して一祠在り。勝名荒神社改め曽我神社の裏に鎮座す。神号由緒等記載無し。案ずるに神山清水平に祭祀さる龍神若しくは湖畔白和龍王なるに哉。定かならず。是にて二所御参拝無事果す。時刻、正午前。赤口なれば今、神助の参拝とぞ知る。
箱根神社『縁起並序』及び『縁起絵巻』に拠らば、大磯高麗権現に由緒ありと。伊豆山権現と共に当地山岳修験の古刹なれば関心浅からずと雖も詳かならず。中興萬巻上人を以て箱根修験の祖とも云。上人奥津城は社殿裏山に在り。祭神、瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、耶木花咲姫命。三柱を箱根大神と称す。本地は法体文殊、俗体弥勒、女体観音也。以て箱根三所大権現と嘗て称す。別当金剛王院、明治に廃し、今は其の跡地のみを残す。縁起曰、源頼義、義家、東征の折度々参詣し表矢を献ずと。又、別当行實、若くして源為義、義朝等に好通ずと伝ふ。然るに、治承四年(1180)源頼朝挙兵に於ては当山衆徒一味す。以後、伊豆山走湯権現並び箱根三所権現は鎌倉将軍家の崇敬浅からず。二所詣旧例は是に発す。後に三嶋大明神を加へ三所詣とも申したり。此等三社、関東武士の帰依尊崇大いに受く。天正十八年小田原役の砌は当社箱根権現衆徒、北条方に一味。伽藍灰燼に帰す。徳川家康、源家に倣い伊豆山箱根等修繕す。
P10000581
境内休憩所に於て昼食。名物の餅を食す。軟かく美味なり。権現からめもちと称し、一皿に海苔巻、下し胡麻、黄粉、餡子の餅で四百円也。大根下し餅も美味也。S氏、征夷大将軍太郎氏、更に蕎麦を平ぐ。此頃、天候回復す。
新築成る宝物殿を拝観。常設展示は大きく変わり無し。但し、展示の手法等は一新成され、見学安易を図る。企画展示に於ては現今、二所詣展を公開せり。新館落成の杮落しとて、伊豆山神社、鶴岡八幡宮、三嶋大社等より神宝出陳さる。伊豆山社蔵、紺紙金銀字交書仏説無所稀望経。八幡宮蔵、源実朝公詠草三首。等々何れも関心深く拝見す。箱根神社に於ても此程初て展覧に供するもの少なからず。法体俗体女体権現立像、男神女神坐像、女神立像、銅造男神坐像等何れも初見のもの也。男女神一対の坐像は最も古き神像にて、平安の御作と云。三所権現は法俗女の三身なれば相の僧形像を欠く。萬巻上人像をして権現法体像を成さむるか。然れども作風全く異る。法俗女体の三像は素朴なれども善く宝蔵されたる対のもの也。表情豊か女神立像は也。銅造男神坐像は珍しきものと覚ゆ。其の他、箱根権現縁起絵巻、曽我兄弟由緒の刀剣等拝見す。
平和大鳥居より湖岸を散策。途中、御供船庫内を覗見る。龍頭鷁首の船其々在り。本年後鎮座一千二百五十年大祭の年なれば、新たに改修為されしもの也哉。興福院大師堂に参拝す。開山、権現別当四十一世融山僧正。後、曹洞宗に改める。由緒を以て、金剛王院伝来の仏像数体を蔵す。

P10000931
帰路は渋滞を避け、宮城野橋より久野林道を経て三竹、沼田に出ず。道折、塔ノ峰城址、八乙女神社、西念寺を見物す。八乙女社境内は沼田城出郭の遺構也。西念寺に駿州興国寺城主、天野康景墓所在り。更に、栢山善栄寺、二宮尊徳翁生家を見学す。善栄寺は北条氏康室、瑞渓院殿所縁の寺也。今、追善供養墓残る。又、二宮本家の菩提寺にて尊徳翁追善墓も是在り。法名、誠明院功誉報徳中正居士。塔婆に訓語等記せり。一円融合、積小為大、分度推上。当方先祖も翁に所縁浅からず。現今当方、行状改むべき事少なからず。墓前にして無言の訓戒覚得る心地是有り。省るに本日、清々しき二所参詣に勇気受け、二宮翁に心中一渇さる。天導ならば全て心得たり。本年、謹みて神仏を敬ひ、刻々の可勤を誓うもの也。(終)

| | コメント (0)

厚木の寺院巡り

01_8
あいにくの雨だったが厚木で寺院めぐりをしてきた。
同行の方はお馴染の征夷大将軍太郎さん。そして海老名のSさんで、お車を出していただいた。
お二方ともネットでお知り合いになった方々なのだけど、主に県内の歴史散歩を共に楽しむようになって早6年余り。オフ会と今風に称して企画したりしているが、何のことはない、ただの社会人の歴史愛好サークルである。
ただ、同県人とはいえ各地のさらにローカルな歴史というのは普段なかなか接する機会も無く、マイナー趣味すぎてネットにも引っかからない事が少なくない。ローカルと云えども、その集合体が市や県を構成しているわけで、他所の微細な史話から己が土地の歴史を再発見することもしばしばで、私はこの交流を通じて大変多くのことを学ばせて頂いている。
普通のサークルと異なるのは、そうしたネット友人を介して、異なった趣味の方とも会う機会ができたということであろうか。
だが、やはり長続きは気心の和である。
そういう意味では、今回の寺院めぐりは早めの年越大祓い、いや仏名会になったであろうか。

02
とりあえず参拝・訪問順に概要を記すと次の通り。飯山観音(長谷寺・坂東三十三観音第六番札所)~松石寺(松田直長の墓など)~山中陣屋跡史跡公園(荻野山中藩陣屋跡)~法界寺(松田康長創建、鋳物師木村家墓)~清源院(伝越智氏館跡、同氏供養碑、伊東政世一族墓)~蓮生寺(小幡景憲一族墓)~法雲寺(山角次郎右衛門一族墓)以上厚木市内~長泉寺(伝渋谷一族墳墓地、曾司五郎定心居館推定地)。各地の詳細は後々HPでアップの予定(たぶん)。

061209_2159
その後、相鉄線さがみ野駅近くのタイ料理店「パイケオ」にて飲食。折りしもラオス系タイ人の人達の誕生パーティーに居合わせ、共に楽しませてもらう。帰路は不覚にも寝過ごし、一駅間ほど歩く羽目になってしまった。

061209_1752
写真は上と中央が清源院(征夷太守軍太郎さん提供)で、下がパイケオ(私の携帯カメラにて)

| | コメント (0)

近江に行って参りました(その4)彦根城

さて、ようやく最終目的地の彦根城。もう行ってから一月も経とうとしているのですが、まあけじめレポとしまして・・。
まず、写真はこちらです(パスワードは「om20061105」)。
http://lumixclub.jp/photo/Lci?mode=guest&album=EGKMWUIISZ07iOQ37gsI

時間は午後2時過ぎだったか。さすがにお腹も空いたので、彦根へ戻る道すがらコンビニで中華まんなどを買う。K氏のご友人は彦根城で姫装束(・・で良かったのかな?)を体験中とのことで、それが終る前までに是非とも彦根城へ着到を目指していたのであった。急ぐK氏は早々に飲み込むように済ませて運転。私は助手席で窓を開けて寛ぎながらゆっくり食させていただく。陽は暖かく真に良い天気、窓からの風も心地よかった。

道は大して混んでおらずスムースに彦根へ。ふと路傍を見ると、「巡礼街道」の標示が。同名の道は小田原にもあるが、こちらは坂東三十三所観音霊場の札所への道であり、彦根のそれは、かつて彦根城築城以前に山上にあった彦根寺の巡礼道とのことである。ちなみにその道沿いの商店街は「ベルロード商店街」と称しているが、これは六部(巡礼者)の持っていた鈴に因むとの事。

巡礼街道を東に向かい、芹川を渡ると程なく彦根城下である。
巡礼街道を外れて京橋へ向かう直線道路に入る。ここは、城への導入路として整備された商店街「夢京橋キャッスルロード」となっており、沿道の店が全て町屋風に仕上げてある。色調や屋根の勾配などが統一され、また電線も完全に地中化であり、一層の景観美を際だたせている。何だか江戸時代テーマパークに来たような楽しさで、城に入るまでの気分を盛り上げてくれる。やはり、城下を観光地として整備するなら、これくらいやって欲しいものである。
その通りの中に、目を引く朱門の寺があった。宗安寺とある。が、これが石田三成の佐和山城大手門を移築したもの(と伝える)と知ったのは、帰宅して後のことであった。墓地には、大坂の陣で討死した青年武将・木村重成の首塚(井伊家家臣・安藤長三郎なるものが討取ったと伝える)があるとのこと。上方(西方)びいきの方には、なかなか感慨ひとしお為らぬ寺かと思う。ちなみに本堂には徳川家康の位牌も祀られているとのこと。これもまた、上方びいきの方には複雑な思いひとかた為らぬかもしれないが。

このキャッスルロードの突き当たりが京橋口で、ここで外堀(旧中堀)を越えると所謂二の丸(内曲輪)域内である。橋向うは枡形の食い違いが良く残る門跡でもあった。そこから、内堀沿いに進んだ所にある二の丸駐車場に我々は車を止めた。
駐車場とはいえ、二の丸佐和口多聞櫓のすぐ裏にある広場であり、すでに周囲には重文クラスの建築群(同多聞櫓、馬屋など)が建ち並んでいる。これらを見ただけで(今日のメインはやはり彦根城であったかもしれない。もっと早く来るべきだった・・・)と早々に感じた次第であった。

駐車場を出ると内堀のすぐ向うは彦根城博物館で、土塁の向うにはその御殿造りの甍が軒を連ねているのが見えた。さらに遠くには山上の本丸石垣も望めた。ここから城内に入るのは大手門ではなく表門であるが、今はこちらが最も大きな入場口のようになっている感じ。
表門橋を渡っていて気づくのは、この表門を境にした左右の土塁である。一方は、法面の上下に石垣を配する鉢巻・および腰巻石垣であり、一方は腰巻石垣のみで勾配の緩い土塁であった。
さて、橋を渡っていると、正面から緋や萌黄の色鮮やかな姫様風の人々が四人ばかりこちらに歩いて来られる。そして、この中にK氏ご友人もおられた。私もご挨拶させていただき、同行のご家族衆に僅かながら小田原土産を手渡させていただく。先々より小田原北条家ご贔屓の方とK氏より伺っていたので、老舗のういろうが良いかとも思ったが、とりあえず正栄堂の最中「虎朱印」を持参した。しかし、ご一同5人であったのに対し、3つほどの最中しか持って行かなかったので、少々申し訳ない気もした。

ご友人らと別れ、表門を通りいよいよ主城郭内へ。城と博物館のセット入場券もあったが、各郭を歩くと博物館まで拝観する時間は無さそうなので、今回は止めておいた。大変残念ではあるが、また次回を期待したい。

18115_1641
表門から登城していく「表坂」は樹々に覆われてやや薄暗い。それを上り詰めたところに高石垣と、左右に二階櫓を配した天秤櫓が建っている。というより立ちはだかって居る感じといえようか。天秤櫓の門からは、我々が表坂で左手に接していた鐘の丸へと橋(廊下橋)が架かっている。すなわち、今歩いてきた道は堀道(堀底道)なのであった。尾根の反対側にある大手門からの道もここで合流していたようで、この門の防御にどれだけ重点が置かれていたかが察せられた。
また彦根城の石垣や建築物の多くは、他の廃城から転用したものが多いとされているが、この天秤櫓は長浜城から移築されたと云われている。土台の石垣の積み方が左右で異なるのは、一方のみ後世に改修されたためである。

鐘の丸へ上がり、廊下橋へ。この橋は、戦時の際にはいつでも落とせたものではあったろうが、旧観は覆屋を備えた橋であった。
そういえばこの橋には、ちょっとした昔話がある。
慶長11年(1606)、彦根城の築城が一段落した祝宴の折、この橋を通っていた結城秀康(徳川家康次男)が吐血する事件があった。一説には、後の彦根二代藩主の井伊直孝が毒をもったと云われているが、真相は不明である。が、その翌年に秀康は34歳で死去。死因は梅毒と伝えられているが、同年には弟の松平忠吉(家康四男)も死去しており、その辺りが徳川秀忠(家康三男)側近による謀殺であるとか、徳川政権の将来を憂いた父家康の意によるものという説の根拠になっているようではある。ともあれ、この秀康の吐血痕だけが橋の羽目板に残った。そして後年、幾つかの不幸が秀康の祟りと結び付けられ、不吉なものとして羽目板ならびに覆屋なども取り払ってしまったということである。
この話だけを信じると、幕府の忠誠の為には謀事も厭わずという恐ろしげな井伊直孝のイメージが浮かぶかもしれないので、小田原ネタもかぶせてもう一つ余談を。
我らが小田原・大久保藩二代の大久保忠隣公が謀反の嫌疑で所領を没収され、配流の身が預けられていたのも、彦根藩領であった。その折、預かっているという立場もあったろうが、多くの幕臣らが大御所・家康の怒りを恐れて忠隣公無実の訴訟取り次ぎを渋る中、冤罪を訴えて赦免を請うてくれたのが井伊直孝と成瀬正成であった。
その運動も功を奏し、もともと秀忠の覚えも大きかった忠隣であるから、家康没後に無罪の内意を得たが、それでは先君の政道に失点を残しかねないとして忠隣は辞退。佐和山の麓にある井伊家菩提寺・竜譚寺門前に居を移し、仏門に帰依した余生を送ったとされる。遺骨は小田原大久寺もしくは京都本禅寺に改葬されたようだが、位牌のみが同寺に今も残っている。

18115_1841
さて、大変説明臭くなってきたのでこの辺りで少々急ぎまわりを。
天秤櫓の門をくぐって、太鼓丸。やや小さな枡形あり。次に太鼓門。この櫓門は佐和山城からの転用と目されている由。そして本丸。大津城天守を移築したという天守で、破風や花頭窓などが特徴的で秀麗。ただし、下層は下見板張りで突上げ戸、石垣を雨水から守る水切り板が巡らしてあったり、さらには塗込めの漆喰裏には戦時の為の鉄砲狭間が設けられているらしい(天守内は時間的都合により立入らず)。慶長年間の城らしいといえばそれまでだが、見る角度によってはそのような無骨さは微塵も感じさせない(そういえば、現在時代劇専門チャンネルで再放送中の『葵・徳川三代』では大津城の合戦に現・彦根天守が合成もしくはCG処理で登場していた)。西の丸の三重櫓もまた小谷城天守を移築したと伝えているが、これは概ね否定された模様。いずれにせよ移築といえども、外観までがそっくりもとのままということはまずないだろう。
本丸着見台からの展望はすこぶる良く、眼下には城内御殿を模した博物館の全容や佐和口門、二の丸庭園の玄宮園などが見下ろされ、さきほど表門からはるかに望んだ本丸石垣はここであったかと気がついた。また北側は旧三の丸域から琵琶湖方面まで見渡せ、やや午後の霞に遮られてはいたが絶景であった。

西の丸から観音台へと堀を渡り、山を下って黒門跡へ。途中、茂の中に埋もれるような竪堀を見る。さすがに堆積土でかなり浅くなってはいたが、石垣が良く残る。
黒門は表門と同じく櫓門は残されていないが、こちらは小規模な門跡で枡形も備えていなかったようだ。門の左右の塁壁の様子もまた表門同様に変化している。北の山崎郭へと連なる側は概ね総石垣で、水面付近のみ犬走り状に土塁となっている。ただし、石垣の傾斜はかなり垂直に近い。南側は逆に水の接する下層部のみの腰巻石垣で土塁の斜度もかなり緩か。このまま先ほどの表門の方に連なるのだろう。二の丸に面した表門と黒門の間の塁壁は、堀の水面下を除いて土塁造りとなっている。また同区域は縄張りの屈曲や櫓台も少ない。反面、庭園のある二の丸域は外側の縄張りに屈曲が多用されており、防御的な設計意図が明確である。その辺り、江戸城山里曲輪や吹上曲輪などの様相と似た趣があった。

この辺りでK氏は私に先行して二の丸庭園の方へ。私は幾つか付近の写真を撮ってから後を追った。が、どちらへ行かれたものか見当たらず。玄宮園入口のお爺さんにK氏の面体を聞くも良く分からぬと云われ、まずは楽々園を巡る。こちらは建築物の一部が修築中であったが、御殿や枯山水は立派見事なもので、個人的にはこの後に観た玄宮園よりも好みであった。ともかく、こちらにはK氏は見当たらないので、戻って玄宮園へ。
18115_2201
玄宮園は池泉回遊式の広大な大名庭園で、池には茶亭が臨み背後には天守そびえる城山が借景に控えて奥行きのある庭園世界を構成している。また、池は琵琶湖を模して築山、配石などで近江八景を現しているとのことである。そして、K氏はその中に居た。ただ、庭園を鑑賞されていたのではなく、ご友人一行の装束姿を激写していたのだけれど。とはいえ納得。艶やかな装束で写真を撮るならやはり累々たる石垣をバックにするよりも、美しい庭園の方が良く似合っておられた。

後はもう駐車場へ戻るだけと思い、私は再び別れて暫し庭園の景を楽しんだ。個人的には、趣味の合う友人同士で旅行に行っても、現地ではなるべく一人の時間を楽しみたい方なのだ。これはどうだこうだと、現地で歴史を論議するのも好きなのだけれど。

再び堀端沿いを表門の方へと歩いて行く。日曜日ではあるが、下校する高校生たちの自転車とよくすれ違った。別にどうということはない景色だが、城や町屋といった旧観と制服姿の学生というのは何となくノスタルジーを感じる。西伊豆の港町で見かけた自転車学生も良い絵であった。
傍らを見ると束帯姿の井伊直弼像が。そういえば横浜の掃部山公園にも似たような井伊直弼像が立っている。県立図書館に行くときなどたまに見かけたが、横浜の像の由来は以下のサイトなどご覧あれ。
http://www.natsuzora.com/may/park/kamonyama.html

最後にK氏とご友人一行様に私も加えていただき、佐和口門の内外を見て駐車場へ。同門の多聞櫓は、南側のみ重文指定であるが、江戸中期の火災後に再建されたもの。創建当初は櫓門であったらしい。
その後、K氏ご友人お着替までの暫時、その御母堂君と御姉君とお話交えさせて頂いた。
旅先で、普段接点の無い遠方の方と話をするのはまた楽しいことである。

帰路は再び長らく車中の人となり、漸く駿州富士川SAに到着したのが夜11時近かったか。ここの駿河うどんは安価ながらも実に美味であった。麺にこし有り、汁に濃いダシ。具は桜えびとワカメ、青ねぎのみで350円也。
ここまで来れば相州境もあとわずか。足柄・丹沢の黒き峰々を通り抜け、小田原の拙宅に到着したのは、もう日も改まろうとする頃であった。
思えば大変充実した日帰り旅行。K氏殿には、今回のお誘いと長時間に渡る運転および現地ガイド等々大変お世話になったと今にしても思う。ありがとうございました。
(彦根城もまたじっくり観に行きたいですね。一日くらいかけて城下町や佐和山周辺など行きましょう!)

| | コメント (0)

近江に行って参りました(その3)安土城

日帰り旅行だったのに、やたらと時間がかかってる近江レポ。
またも本などだらだら読んでまして書き渋ってたわけであります。もちろん、安土城に関する本です。
良く分かっていない割に最も人気のある城跡だけあり、関連書籍もさまざまかと思ったのですが、意外に地元の図書館にも良書がありました。滋賀県のサンライズ出版の本で、『安土城・信長の夢~安土城発掘調査の成果~』と『図説・安土城を掘る~発掘調査15年の軌跡~』(ともに滋賀県安土城郭調査研究所編著)で、ともに二年前の発行。前者はどうやら読売新聞の地域ページに連載されていたコラムをまとめたもので、後者は題の通りその図説といったところ。発掘当事者の執筆だけあり、調査において明らかになった点と今後の目標などが細かに紹介されており、かつ平易な文章。他の同時代遺跡などと比較しながら、若干の推定にも触れているのが読み手をワクワクさせました。
このような本を読んでから行けば、もっとしっかり観てきたと思う今頃。でも、実はそんなにゆっくりも見ていられなかったのです。

小谷城の遺構に興奮した私のせいで、気がつけばもう11時頃。
あぁいかん、すっかり時間を喰ってしまった。
K氏はこの後、安土城跡に連れて行ってくれるつもりで、自身も楽しみにしていた様子。ちょっと申し訳ないことをしてしまった・・・。
小谷からは、湖岸沿いの国道8号線を一路南へ。安土町へ。
途中、秀吉が築城した長浜城跡の公園を横目に通り過ぎた。
綺麗な望楼型天守が復原されていたが、実際の遺構はあまり目に見える形では残されていないよう。
それでも、ここは旧城下町に伝統的景観を残していたりまた復原していたりと、なかなか景観には気を遣っている。各地の町おこしの参考にと視察に来る人も少なくないと聞く。
そういえば、この町は先の小谷城下の町人達が移り住んだところである。次回また浅井氏関係の遺跡を訪ねる折は、小谷城と長浜をセットに観たい。

琵琶湖を右手に見ながら暫く南へ走ると、もう彦根城下もすぐである。だが、これは最後のお楽しみということで、まず今は安土であった。
しかし、この後が少々長く感じた。というか私は寝てしまったのである。暁前から運転しているK氏には再び申し訳なく、何度も睡魔に抗ったのだが、だめだった。それよりも、寝て静かになったと思った私が突然咆哮を上げるので、その方がK氏にとっては煩わしかったようだ。

そんなこんなで、気がつけば周りは再び田園風景。それを囲むように幾つかの緑山が親子亀のように連なっている。
周囲に城跡らしい山を認める度に、あれかこれかと思いを巡らす。しかし、安土城跡は意外に突然目の前に現れた。そう、今の安土山は琵琶湖と入江に囲まれた水郷の城跡ではなく、埋め立てられた陸田にそびえる城山なのである。

思いのほか駐車の数が多い。
大手道ほかの整備が進んでいるとは聞いていたが・・・。
さすが織田信長の安土城。
そして、城跡にして拝観料を取るしたたかさも、またさすがであった(笑)。まあ今秋から有料になったばかりのようだが。
(そういえば、信長も正月に安土城に招待した武士たちから本丸御殿などの見学料を徴収したんでしたっけ)
今回で名度目かの訪問になるK氏は少々不満気の模様であった。
城跡の模様は以下のウェブアルバムをご覧に頂きたい。
http://lumixclub.jp/photo/Lci?mode=guest&album=EIOMWWDIT007iNQY7gsG
パスワードは再び「om20061105」です。

入場券をもらうと目の前はもう、大手道の石段。
広く真っ直ぐ上る石段は、城と云うより山寺の参道という感じ。そのためか、何となく城跡を歩いている気がしなかったのも事実。
しかし、道の両側には伝・羽柴秀吉邸跡や伝・前田利家邸跡などの平坦面が道に沿っていて、その玄関門はいずれも枡形を備えた城門らしい構造。道に沿った屋敷はいずれも土塀を立てて、それには狭間が開いていたというから、見ようによってはかなり圧迫感があったろう。
18115_1111
その坂を一息登りつめると、今度は七曲りというジグザグの登り坂。こういう「七曲り」道というのは城跡でたまに目にするが、安土のそれは幅が広いのが特徴か。
この上に伝・織田信忠邸跡。ここから黒金門まで上るのが現在の拝観路だが、どうやら大手道はこのあたりから本丸の南下を通って、二の丸を通過せずに直接本丸南虎口に至っていたらしい。が、残念ながら、現在はまだ整備が進んでおらず公開されてはいない。
18115_1221
とはいえ、黒金門からのルートは見応えがある。折れを多用した縄張りや、巨大な石が積まれた黒金門石垣がそれである。
この辺りで、ようやく城と寺の違いがはっきりしてくるのではなかろうか。
黒金門を入って二の丸に至ると、信長を祀った信長廟があった。二の丸の半面ほどを石垣で囲って、その中に石垣で組んだ墓碑のようなものが立っている。これは秀吉によって建立されたものと云われる。が、正直ちょっとモダンなデザインのように感じるのは私だけではないと思う。
廟所の山門にはあちこちに落書きが彫られており悲しかった。

その二の丸は、廟所があるためまだ本格的な発掘調査が行なわれていないようだが、ここには庭園があったのではないかとも考えられているよう。
そして、不等辺な形の天守石垣もまた、ここの魅力の一つ。
どんな天守建築が建っていたのか、それぞれが想像をめぐらして楽しむ場所となっている。
この頃は復原イラストが盛んだが、描かれるたびに大きく異なってしまうのも安土城くらいなのではなかろうか。

最後に再び黒金門から信忠邸跡を経て、摠見寺跡へ。
これは安土城創建当時からあった先祖の菩提寺。臨済宗寺院だが、近隣の社寺から建築物を移築したため、本堂が密教形式であったりもしたらしい。幕末の火災で三重塔と山門を除いて焼失、今も大手道沿いの伝・徳川家康邸跡地に仮本堂が立ったままになっている。
その摠見寺跡地の石垣もなかなか見事。そもそも城内に同時期に建てられたのだから、城の一部ともいえなくもない。
だが、摠見寺は安土廃城後も存続し、淀殿や徳川幕府による修築の援助がなされたため、現在の石垣がどこまで原形のものかはまだ明らかではないのかもしれない。
18115_1431
それでも、庫裏跡付近から望む西の湖(琵琶湖の入り江)の景色は絶景であった。この庫裏跡などは信長時代は能舞台であったかもしれないとの推定もあり、興味は尽きないところではある。ただ、三重塔は重文指定ながらも傷みが目だつ。

と、ここまで見て急ぎ足で大手道を下った。
彦根城でK氏のご友人にお会いするとの事。余韻は車中に持っていくことにした。

小谷もそうだったが、安土もまた全てを見るには時間が少なすぎる。また再び時間をかけて観に来たい。その折は、安土町の考古博物館のみならず、隣の観音寺城跡や安土の城下町が移った近江八幡なども訪れたい。

同じく織田信長に興味のあるTK7殿とも、時間があれば来たいところである。その折は坂本城跡なども良いかもしれない。

| | コメント (0)

近江に行って参りました(その2)小谷城

さて、小谷城です。
栄えある浅井長政の城として、またその妻小谷の方(お市の方)との悲劇の城として、なかなか世に知られた山城であります。遺構も素晴らしいものですから、地元の自治体はじめ、地域の城郭趣味の方々のサイトでも色々と紹介がなされているようです。

ですから、ここで私が城の概要をツラツラと述べるのは止めておきます。浅井氏が戦国大名になるまでの話も興味深いですが、これも省略。そうでないと、この後の城ネタでも書かなきゃいけなくなるのです(これが真意)。

ということで、小谷城。
ウェブアルバムにもアップしたので、これでも読むのが面倒な方はこちらをどうぞ。スライドショーがお勧めです。
http://lumixclub.jp/photo/Lci?mode=guest&album=EGNMWUEIR007hNQ17gsG
(パスワードはom20061105)

まず清水谷に行ったのですが、大手道跡はハイキングコースなので、尾根の反対側から林道で山上まで一息に。
朝早いためか、途中、キツネやリスが道路を横切って行きました。
林道の終わりに小さな駐車スペースがあり、そこから歩くと程なく小谷城の主な遺構群でした。主な曲輪(くるわ)には、名称や由来を示す石碑もしくは立札が立っています。

二つのハイキングコース(大手道と旧登城道らしい)が合流する「番所跡」を過ぎて、「御茶屋跡」「御馬屋跡」「桜馬場」を大手道の左横矢に見て進みます。この辺りは大手正面ということもあるのでしょうが、戦国時代らしい攻撃的な構造が良く分かり、なかなか楽しいところ。基本的には連郭式なのですが、清水谷側の斜面には帯曲輪が断続的に見え隠れしています。
桜馬場には、浅井家と家臣団の供養碑がありました。
昔からのものではないですが、この上にある本丸大広間へ上る前に手を合わせて挨拶としました。
18115_0401
この脇に黒金門(くろがねもん)跡(※写真)があって、いよいよ本丸域。門跡は崩壊していますが、大きな石垣石が残っていて往時の重厚さを想像させます。

本丸大広間は約3000平方メートル。今は、桜の名所。
発掘調査では礎石が240余り出土して、大型建築物があったと推定されているようです。また、ここの井戸跡からは、茶器や陶磁器片、古銭などが見つかっています。
本丸の奥には、「鐘ヶ丸」という高台(櫓台)があって、現地の案内板ではこちらが本丸と紹介されていました。実際は、この高台と広間がセットで本丸なのでしょう。
ここには天守櫓が立っていたとも云われています。鐘楼を兼ねた遠見櫓のようなものだったのでしょうか。
ちなみに、彦根城西の丸三重櫓は小谷城天守を移築したものという伝説がありますが、これは近年の調査でほぼ否定されています。
また、小谷城落城に際しては本丸が炎上したとよく語られてきましたが、調査では火災痕は見つからなかったとか。

18115_0791
本丸の裏には大きな掘切があって、そこから再び「中丸」「京極丸」「小丸」「山王丸」と段々に山上に続いていきます。
いずれも特徴的な曲輪ですが、山王丸の石垣(※写真)は大変良く残っていて感動モノでした。関東の城ばかり見ていると、石垣のある西国の城はほんと新鮮に見えます。
この山王丸が小谷城主要部のピークです。
ここからさらに、寺院跡の「六坊」を経て、小谷山最高峰の大嶽(おおずく)へと至ります。
ですが、今回の私たちはここで引き返すことにしました。

帰路に、本丸西側の「御局屋敷跡」と、桜馬場付近から東にある「赤尾屋敷跡」に寄りました。
前者は、小谷の方(お市の方)に関係あるかは全く不明なものの、若き彼女が夫の浅井長政と別れて城を退去した悲話を、何らかの形で残そうとしたものでしょうか。実際は狭長な帯曲輪でした。それでも、石碑の横には志納入れがあり、彼女を慕う想いの場所になっているようでした。
18115_0861
後者は、赤尾美作守(清綱)の屋敷跡と伝わる場所で、奥には「浅井長政自刃の地」の碑(※写真)が立っていました。
天正元年(1574)8月、織田軍に城を半ば占拠され隠居の父・久政が自害した翌28日、長政は妻に子達を連れて城を退去するように命じ、自刃した(享年29)、その場所と伝えられています。こちらにも志納入れがあり、傍らにはまだ新しい花が添えられていました。

なんだか、行きに帰りに手を合わせることになってしまいましたが、それはそれで良い訪問であったのかも。
陥落後の小谷城は、手柄第一とされた木下(羽柴)秀吉に与えられたものの、交通の便が悪いとの理由で二年後今浜(長浜)に城を移し、小谷城は廃城となりました。

清水谷にあった寺院も、その南に賑わっていたという城下町も、殆どが長浜城下に移ってしまい、今の小谷周辺は、ただのどかな田んぼが広がるばかりです。

時間の都合で、全てを回ることはできませんでしたが、また来る理由ができました。

| | コメント (0)

近江に行って参りました(その1)

先週の半ばだったかな。
突然、友人K氏から
「5日、彦根城に行きませんか?車で」
とお電話いただきました。

私もちょうどお休みになっていたので、特に断る理由もなかったのですが、懸念だったのが旅費。二人で高速道路だと、往復のガソリン代と道路通行料のワリカンは割安感が無いのですよね。今月後半には色々予定を控えているので、ちょっと出費は抑えようとしていた折りの連絡ではありました。

ですが、
「こちらからお誘いしてるので、お気持ちで良いですよ」
とのこと。
私もセコく
「う~ん、じゃあ5000円とかでもいいですか?」
と、冗談半分本気半分で(でも実際、万券の出費は辛かったのです)聞くと、
「良いですよ」
と快諾!気前が良すぎる!
悪いなとは思いつつ、そりゃ、行きたいですよ!国宝・彦根城。なんてったって5000円。なんてったって最近マジでマンネリな日常でしたし。

・・ということで、行ってまいりました(街かどテレビ)。


1_4
小田原出発は払暁前の午前3時半。
この時間はさすがにチト寒いので、セーター着用。
大井松田から東名に乗り、一路近江へ。
折りしも今宵は満月。掛川を過ぎたあたりでは、右手の三角山の上に煌々と輝く詩景。
丸子は吐月峰よりの月見もかくありましょうか。
さらに、沈む月を追うように西へ。
(写真は三方ヶ原あたりにて。ぶれてますが、右の赤い球が月です)
小田原から約4時間の往路でしたが、K氏の70~80年代音楽集(アニメ主題歌やら歌謡曲やら)と、私の持参したカセット(サザンやピチカート5もあれば軍歌も・・)など聞きながら、色々と無駄口たたいていると、長くは感じませんでした。
日の出を迎えたのは、名古屋を過ぎた本郷のあたりだったかな。米原で高速を降りました。

彦根は午後ということで、その前に幾つか史跡探訪をしましょうということに。
私は、六波羅探題の北条仲時の墓がある蓮華寺に行きたいと思いましたが、まだこの時間では開門していないと思い、K氏お勧めの小谷城へ行くことに決定。高速を降りてしまったので、多少遠回りになったかもしれませんが、早朝だったのでかなりスムーズに行けました。

18115_0071
途中、進む右手に写真のような綺麗なコスモス畑が。
背後の小山も秀麗でしたので、車を止めてもらい暫し眺めました。
犬の散歩をしているおばさんとすれ違う。
「おはようございます」
今日の第一滋賀県人と遭遇。
ふと足元を見ると、「埋塚遺跡」との標柱が立っています。
これを頼りに後ほど調べましたら、米原市顔戸(ごうと)のようで、背後の山は日撫山のようです。
その麓には、日撫神社があり、なかなか興味深い由緒の神社のよう。顔戸も神戸と同じ意味なのかも。
http://www.pref.shiga.jp/minwa/42/42-03.html
そういえば、この辺りは古代豪族・息長氏の割拠したというところ。道路沿いにも時おり、前方後円墳や円墳のようなマウンドが見られました。

18115_0191
小谷城跡に着いたのは8時前くらいだったかな。
途中、鉄砲鍛冶で名高い国友や、古戦場の姉川などを通過しました。
写真は、最初に見学した清水谷。
奥の山が大嶽城跡。浅井亮政(長政祖父)が最初に築いた小谷城は、ここだったそうです。城主館もこの谷の奥にあったとか。
その右手の尾根が小谷城の本城域がある山。左手の尾根にも少数ながら遺構が点在しているとのこと。

手前の広場には変な門がありますが、小谷城大手門と書いてありました。小谷城が使用されていた時は、この辺りが大手門だったという標示なのか、はたまた何かイベントでもやるのやら。
ともかく、広い城域を持つ壮大な山城という気がしてきました。
それにしても、小谷城の名はこの谷(谷津)の城という意味なのでしょうかね。
今回私は怠惰に気分転換をしたかったので、実際ナンにも前勉強せず来てしまいました。まあ、彦根城以外はどこ行くかも決まってなかったんですけど。

| | コメント (0)

久々の小田原城

18917_0211_1
と言っても、城跡見物に行ったのでなく、城址公園内にある市立図書館に用があっただけなのだが。
それでも、久々に来ると様子が変わってきている。
以前、ツキノワグマの檻があった天守台の北東隅あたりは、きれいに檻が撤去されて、軽食用のテーブルや椅子が置かれていた。きれいになったのは結構だが、唯一の天守台真下の遺構を歩ける小道が通行不可になってしまった(まあ、以前から通行すると小うるさかったのだが)。
それと、馬出門枡形(旧警察署の堀向かい)石垣の復原整備に伴う、隅櫓脇の橋が撤去されたこと。まあ、これはもう大分前に外されたのだが、今日初めて視認した次第。

インドゾウの梅子は元気だった。
ちょうど昼食時で、笹の葉を足と鼻で器用に折って食べていた。
もうかなりの高齢のはずだが、達者でいてもらいたい。
あの檻は可愛そうだけど。

18917_0021
写真は、その梅子の檻の脇、クロマツの古木(伝・北条氏康手植え七本松の最後の生き残り)の根本の彼岸花。

18917_0132
南石垣(関東大震災で崩壊している)の合間に咲いている彼岸花。
実は、小田原城址公園内で江戸時代の石垣積みオリジナルが残っているのは、厳密に言うとここだけ。らしい。地すべりを起こしてはいるが。
あとは震災後、戦後などに修復されたもの。それも、文化庁指導が厳しくなって、当時の工法や再現をしっかりと行なったのは、平成に再建された銅門(あかがねもん)と、現在整備作業中の馬出門のみ。
それでも、何とか鑑賞に堪えているのは、やはりコンクリ復興とはいえ、天守閣があるからか・・・。

旧式化した現在の市民会館が取り壊されると、国道1号線のほぼ真正面に天守閣が見えるようになるだろう。
これは江戸前期の壮大な都市再生プランの一つなのだから、天守が外観のみでも復興されている今、使わない手はないだろう。国道沿いにビルが建って、道行く人がどこからも天守が望めないというのは、今どき勿体無いし、景観条例を今後適活用して頂きたいものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

9月9日午後(4)

犬縣橋を渡って、金沢街道のやや向かいに杉本寺の入口が有る。
841
芙蓉が咲き始めた参道を登り、茅葺の仁王門をくぐると、見事に苔に覆われた石段がある。安全のため通行止めになって20年ほど経つらしいが、苔が生えていなくとも、石段の摩滅の程たるや尋常ではない。これは鎌倉の石材の脆さにもあろうが、やはり参拝信者が絶えず上り下りした証である。
坂東三十三観音霊場の打ち始めとして、また鎌倉開府以前どころか、最古の寺としても良く知られている。
それだけに、由緒などは今ここで一々記すのも面倒なので、省略する。日記らしく感想に止めたい。

以前から門前を通過することは何度もあったが、これまで来なかったのは、いつかその観音霊場巡りを私もやろうと思っていたからで、それまでとっておこうとしたのである。だが、現在巡礼中の「関東三十六不動霊場」もまだ半分に満たない体たらくだし、このままではいつになるか全く見当もつかないので、とりあえず観光から入ってみることにした。

1041
本堂は撮影禁止だが、本尊まで拝観することができる。寺伝によれば鎌倉時代以降は長く秘仏であったようなので、今これを遠目ながらも拝観できるのは嬉しい。本尊は、三体のうち二体が平安仏である。それに禅寺の多い鎌倉において、密教寺院独特の暗い内陣に入るのはまた違った体験ではある。参拝客が入れる箇所にも、前立の十一面観音立像や毘沙門天像、地蔵像、不動像などがあり、すぐ近くで見る事が出来る。
ただ、やはり、観光拝観のというだけでなく、今でも札所として信仰の場であるから、仏像を拝む事が出来る訳で、軽々しく観察できるような雰囲気ではない。無論、宗教施設はどこでもそれなりの気構えで臨むのが最低限の礼儀である。

堂内の授与書には巡礼用品や守り札など販売しているが、その中で気になったのは、絵文字の般若心経であった。これは、昔、文字を読めない庶民のために、絵で綴った力作ものなのだが、今見ると、子どものなぞなぞ本のようで面白い。例えば、「摩訶般若波羅蜜多(まかはんやはらみた)」は、「逆さの釜(マカ)・般若の面(ハンニャ)・お腹(ハラ)・(米がら飛ばしの)箕(ミ)・(田んぼの)田(タ)」であった。一枚500円也。

堂横には沢山の五輪塔が集められている。中世期の寺における供養墓碑だと思うが、それだけ古くからの信仰が今に伝えられているのを感じさせる。延元二年(南朝暦1337・北朝建武四年)に南朝の北畠顕家が鎌倉を攻めたとき、足利方の将、斯波家長がこの観音堂で自害したと伝えられ、五輪塔もそれを供養するものとも云われるが、全てではないような気がする。よく見ると、塔の形状や石材も異なるものがあり、わずかに鎌倉末期っぽい古いようなものも混ざっている、ように見えた。
また、本堂裏や近くの崖法面には「やぐら」が開口している。骨蔵器の据え穴があるのもある。
裏山の杉本城跡には行けないが、この五輪塔の後ろ辺りの崖から、後方尾根が望める。
また、十二所方面の尾根が屏風状に広がっているのも、独特の景色に思えた。

ここで参拝を終えたのが4時近く。拝観券販売所のご婦人と暫く立ち話などして、バスで鎌倉駅に戻った。

その後、鎌倉駅周辺で土産の和菓子などを買い求め、大船駅まで戻り、新駅構内のSoup Stock Tokyoで軽食。解散となった。(終わり)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

9月9日午後(3)

暑かったので杉本寺まではバスで行こうかとも思った。
だが、ちょうどそんな話をしていた時、目の前を金沢八景行きのバスが通過してしまった。
まあ、とくに歩いていっても大してある訳でもなし。また、だらだらと歩を進めた。
金沢街道は車が煩い。関所橋を過ぎ、大御堂橋の交差点を右へ。ちなみにこの関所橋の名は小田原北条時代の関取場に由来する。道脇の旧石碑にも刻んであるが、荏柄天神の社頭修繕費として通行銭を取っていたらしい。社寺造営費として関銭を徴収し、手数料(と称したかは存ぜぬが)をピンハネするのは昔からよくあろう。それだけ、当時は一定の通行量があった道ということでもある。
信号から曲がるとすぐにその、大御堂橋があり滑川を渡る。
川向こうに文覚上人屋敷跡碑があるが、それに因んでこの辺りでは座禅川と呼ぶとか。
それと逆の道に行って、すぐ右の住宅地の奥に「勝長寿院跡」が設けられている。
611
かつて源頼朝が父・義朝と郎党・鎌田正清を供養するために建立した寺院・勝長寿院があったところで、地名の大御堂谷もこの寺院からきている。今でこそ旧跡地にある礎石にしか寺を偲ぶことができないが、かつては北条政子の居もあり、源実朝の五仏堂、頼朝長女・大姫菩提の南山小御堂があった。そして政子も死後、ここに墳墓が設けられている。つまり頼朝一家(なんだか侠客のようだが)のプライベートな色彩の濃い氏寺地であった。
そういえば、確か静御前もここで舞を披露している。大姫がここで参篭していて、その明けに披露したというもので、共に念い人を殺された悲劇の女性として、その時どんな交流があったか思いを馳せる女性もあろうか。
永福寺跡に比べれば、発掘調査は遅々として進んでいない観があるが、それでも幾つかの礎石が集められ、近年、追善の五輪塔などが建てられたのは嬉しいものである。

761
寺跡からもとの小道にもどり、また川沿いに進んでいく。
暫く行った辻に「上杉朝宗及氏憲邸址」旧跡碑がある。上杉禅秀の乱で有名な犬縣上杉氏憲(道号禅秀)の屋敷があった谷戸で、上杉四家の一つ犬縣の名は、この地の犬縣ヶ谷に拠る。
とはいえ、今は旧跡碑のほかは、滑川に掛かる犬縣橋の名前にしか目にすることはできない。

ともあれ、この辻から川の対岸の山すそを見ると、もう杉本寺の茅葺屋根が正面にある。背後の山が杉本城跡であろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

9月9日午後(2)

ちょうど時間は正午。まずは空腹を満たそうと休憩所へ。
今日は本宮まで昇らず、若宮八幡で参拝を済ませて休憩所へ入った。その若宮だが、丁度婚儀が催行されていて、巫女舞を見ることができた。八幡宮の挙式はここ若宮と舞殿で行なわれているらしく、舞殿での式はたまに見る機会が有る。ただ、現在舞殿は修復工事中のため、若宮のみで催行されているようであった。とはいえ、私などは吹きさらしの舞殿などより、国重文建築の若宮での方がよっぽど格式あって良いと思う。ただ、式のために最近若宮の東側に控室が新設されたので、折角の江戸初期の壁画などが気軽に見れなくなったのが多少残念ではある。
つい建物や巫女の神楽舞に見とれてつい最前列に行ってしまい、業者のビデオにも映ってしまった。立ち位置からして、編集でカットするのも面倒だと思われる。新婚夫婦の記念ビデオには良く分からない二人組が堂々と映ってしまっている事だろうが、ともに多幸を祝いたい。
休憩所では大した食品は販売していない。キオスクで売っている菓子パンやおむすびのほか、幾つかのレンジ食品があるだけである。だが、観光中心地でここほど安くのんびりできる場所は鎌倉ではなかなか無いと思う。情緒も何も無い所ではあるが。

食事を済ませ、国宝館へ。
511
途中、白旗神社(写真)に詣でる。祭神は源頼朝公と三代実朝公で、源氏の白旗にちなむ社名ではあるが、黒い社殿が特徴的である。
まだ修造なったばかりで、各部の塗装や飾物が荘厳。八幡宮の朱の社殿とまた対照的で、武の緊張感のようなものも感じさせる。正面からは向拝で見えにくいが、社殿扁額には源頼朝を表す「武衛殿」とある。

271
今さらながらだが、これからの鶴岡八幡宮は近年でも最も華麗な姿を見せることになる。修理整備事業で本殿や白旗神社は美しくなったし、手水舎(写真)も気づかぬうちに鮮やかに塗りなおされている(昨年11月までに行なわれたようである)。今の舞殿は年内いっぱい掛かってしまいそうだが、これが終ると、参道の諸建築は大変鮮やかに甦ることだろう。老銀杏が破損したのは残念だったが、これも怪我人や建物に被害が無かった分、幸運であったと思う。
421
願わくば、重文の若宮の壁画類(写真)の修復もと思わずにいられないが、こちらは重文なだけに充分な準備と調査が必要なのであろう。

国宝館へ。
今は常設展であるが、入って右側の仏像展示などは大きく変わることは無いように思う。それでも、実のところ、鎌倉で鎌倉時代の建築はほぼ残存しないし、考古学的な成果もあまり観光客の目に触れる機会が少ない。そういう意味においては、国宝館は鎌倉時代の実物を目にすることが出来る貴重な場所である。外来の私が言うまでも無いのだが。
ちなみに常設展示で私が好きなのは、九品寺の石造薬師坐像と仏日庵の地蔵菩薩立像。辻の薬師も良いと思うのだけど、踏切前の薬師堂内にあるレプリカの方が何となく、堂内で見るからか、遠目に見るからか、それともライトアップが上手いからか、雰囲気がある、気がする。
ここで先ほどの「当麻曼荼羅図」(光明寺蔵)をじっくり観た。
当麻曼荼羅で知られ、これは鎌倉時代の写しの一つなのだけれど、実際は当麻寺以前からある図で「観経変相図」という。浄土三部経の一つ「観無量寿経」の内容に拠る構成なのだけれど、今は映画の余韻を大事にしつつ、藤原南家郎女が感得したという世界を我々も観察した。ここで、同じく光明寺の「当麻曼荼羅縁起絵巻」(国宝)も拝観できればなお印象が強く残ったと思うが、今回の展示では無かった。
参考までに、光明寺と国宝館の該当ページを紹介。
http://park16.wakwak.com/~komyo-ji/html/takaramono.html

http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kokuhoukan/k-taima.html

この後、光明寺へ行くのも良いと思ったが、場所も逆なので、杉本寺にでも行こう、ということになった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

9月9日午後(1)

『死者の書』を観た後、私たちは鶴岡八幡宮に行くことにした。境内の国宝館にある「当麻曼荼羅」を鑑賞するためである。材木座の光明寺寺宝の「当麻曼荼羅図」は、鎌倉時代の優良な写画として有名であり、この映画を観た後にちょうど良いと思ったのである。もちろん、事前に展示してあるかどうか確認はしておいた。

寒い程だった上映ホールから、外に出ると一気にムワッとした熱気を感じた。今日も日差しが強い。
041
若宮大路をそのまま上るのも面白くないので、新星堂の脇から小道に入り、宇都宮辻子から旧大仏邸の方へ抜ける小路をだらだら歩いた。道沿いは、旧幕府跡地が連続するところで、宇都宮幕府跡付近では発掘調査が行なわれていた。鎌倉青年会による主に戦前までに建立された史跡碑は、80個以上有るとのことだが、これらを訪ねながら歩くのもまた楽しい。我が小田原市もどうせ旧町名碑などを作るなら、この板碑型が一番風雅な気がするのだが、今や高価で難しいかもしれない。
091
若宮幕府跡の碑があるあたりは、大仏次郎邸跡でたまに公開などされているが、今ではその一角で「大仏茶房」なる小洒落た茶店が営業されている。いつも通り過ぎるばかりなのだが、今日も生憎立ち寄るような面子でも雰囲気でもない(笑)。まあ、もう少し涼しくうら寂しい時期にふらっと来るとしよう。
それにしても、この辺りの通りは板塀や曲がった小路がよく残されていて小気味良い。先の旧石碑が立つ辻などは、背後の家も下見板張の一戸建てで松が立っているのも、よく整った空間といえる。
そのまま道なりに進むと、もう金沢街道は目の前で、道路向うに八幡宮の東土塁がある。この土手沿いの道も静かで良い。いつも気になるのは角の稲荷神社で、「鉄の井」側の角にも小さいながら稲荷社が立っている。つまり、八幡宮の境内の南東と南西の両隅に稲荷社があるのだが、単なる地主神なのだろうか?
161
道を突き当たると、左に八幡宮の東参道で右に畠山重忠邸跡の石碑が立つ。すでに来週の例大祭の流鏑馬馬場が準備されていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

13日文の続き

とりあえず、以下はミクより転載。

本邦最初の花火。
戦国時代のようなシビアな時代に本当に、貴重な火薬を娯楽に使用したのかどうかも考えてしまうのですが、戦国後期には国内各地で人工的に焔硝(えんしょう)を製造する技術が発展したらしいので、可能性としては無くもないなと。

で、先に書いた「噴出すような」花火ですが、何となく同じように感じるのが、忍者の火術で使用されたとされる「取火(とりび)」です。
これは、火薬を詰めた銅筒の先に小さな穴を開けて、そこに点火用の火薬を入れたもの(紙に包んで穴にねじ込むのだと思います)。
で、それの後に竹束などで取っ手を付けて、討ち入りの時などに敵の正面にかざすというもののようです。
イメージとしては、コンビニで売ってるような家庭用手持ち花火の大型版とでも云えましょうか。
ただ、これは建物に討ち入るような時は効果あっても、戦場のような広い場所では、却って敵の矢玉の目標になりかねませんね(笑)。

それより、もっと実用的で尚且つ娯楽にもなったものと云えば、狼煙(のろし)火だと思います。
これは、燃す植物や混ぜ物によって、煙の色を変えたりしたりと、やはり戦国期に進化したようですが、仰られるようなロケット花火のようなものも実用化されていました。
これの姿を、発展させながらも、比較的良く伝えているのが、龍勢(流星)だと考えています。
近辺では、埼玉の秩父市や静岡の岡部などで伝統祭事として行なわれています。特に前者は、北条時代に焔硝の生産を行なっていた地域ですので、その技術が村の催事として伝わっていたのかも。

龍勢の詳細が、秩父市吉田町の観光協会HPに載っております
http://www.ryusei.biz/festival/ryu01.html

こちらは岡部町
http://www.town.okabe.shizuoka.jp/kankou/m_ryuusei.asp

また、ちょっと気になったので、Wikiでも検索してみましたら、三河花火というのがありますね。
ここの、手持ち花火や羊羹(ようかん)花火なんてのが、「焼き立てる」ような花火とか、「取火」に近いかも。
筒構造の安定性や、火薬の規模はとても進歩してるようですが、こうした形の初歩的な火術だったような気がしてきました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

懐かしき大松明

先の日記に書いたとおり、今日はBKを食べに座間キャンプに行くつもりでしたが、急遽取り止めにしました。
(こいこいさん、情報提供ありがとうございました)
実は午後の激しい雷雨のため、一時、小田原ー新松田間の小田急がストップ。ちょうどタイミングよく(?)小田原駅に居た私ですが、湿気の不快さと運行の再開を待つ面倒さに、帰って来てしまったのでした。
そして、家で先ほどまで『男はつらいよ』を観ていたところです。
BKは来年のさくら祭りの時に期待します。

さて、実は小田原でも今日はイベントがありました。
花火です。
小田原市の花火大会は10年くらい前からでしたか。恒例の御幸ヶ浜の浜辺から移って、酒匂川の河川敷で行なうようになっております。
しかしその後も、地元の企業などが主催に、独自の花火大会を浜辺で継続しております。その為、ひと夏に2度、市内で花火大会があるのですが、以前は年末だったり、文化の日だったりと定まらずでした。
で、最近ようやく定まったのかどうか。気にしていなかったので分かりませんが、ともかく今年は8月12日です。

01_5
実はこの日、かつては「大松明(おおたいまつ)」という行事が御幸ヶ浜で行なわれていました。(写真は昔の観光チラシより)
幾つもの竹を束ねた、高さ約15m・直径1m(県観光協会資料による)の大松明に火を灯し、砂浜に立てるというもの。
これは、海難水死者の冥福祈願と魚介類の供養を目的とした行事で、砂浜では僧侶たちが経を読み、人々は松明の周りの砂浜に線香を立てるのです。
サンダル履きでいて、大松明の火に気を取られているうちに、ついうっかり線香を踏んでしまったり。
火傷の痛みも、今となっては夏の夜の懐かしい思い出です。

この行事は今世紀に入るか入らないかの頃を最後に、中止されたままとなっております。理由は保安上の都合ということですが、詳細は存じません。火の粉が住宅に飛ぶからか、それとも西湘バイパスに行くからなのか・・・。それとも、海岸浸食が進んで充分なスペース(砂浜)が確保できなくなったためかもしれません。
まあ、ともかく、この12日にあえて花火大会を持ってきたのは、主催者側にも大松明の復活を願う心があるのではないかと期待するのであります。


さて、花火の話題が出たのでもう一つネタを。
日本で最初の花火といえば、天正17年(1589)に伊達政宗が鑑賞したのが最初とか、慶長18年(1613)に英国王室使者が駿府の徳川家康に見せた(同行の中国人による)のが、記録上に見える始まりと言われているようです。
ですが、鉄砲の伝来に伴って、中国からの火薬輸入が頻繁に行なわれるようになっていますので、花火(後世の観賞用とは大きくかけ離れていますが)も戦国時代にはすでに伝えられていたのではないでしょうか。

公文書のような1級史料ではありませんが、江戸前期にまとめられたとされる軍記物『北条記』にも、そんな戦国時代の花火を伺わせる記述があります。
『北条史料集』(人物往来社)所収の『北条記』巻第五の八「佐竹対陣之事」では、天正13年(1585)4月下旬、小田原の北条氏政と常陸の佐竹義重の軍勢が、野州藤岡(現・栃木県藤岡町)で対陣したところ、足元が湿地で大した合戦にもならず、ついには100か日の長陣となり、結局、和議になったとあります。このとき、力持て余す若侍や兵たちは、陣場に馬場を作って乗馬をしたり、花火を敵陣に“焼き立て”たりなどして気を紛らわしたとか。
“打ち上げる”のではなく、焼き立てるとありますが、これなどは当時の花火の特徴をよく伝えているような気がします。
私も良く分かりませんが、初期の花火は、筒先から火の粉を噴水のように噴出すような種類だったようなのです。
今でも、大道芸人が口から花火を吐いたりする芸がありますが、あれと同じようなタイプ、もしくは現在の家庭用手持ち花火の原始的なタイプかもしれません。

この記述にあるような合戦が実際にあったかどうかは、私自身なんとも分かりませんが、史実と比較すると、この翌年、天正14年頃の戦況と似ているような気もします。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

お盆(13~16日)

02_1
W杯も終って、なんだか腑抜けた状態です。
で、大したネタもなかったのですが、一応季節ネタにお盆を。
今年は新盆ということもあり、色々と祖母の家に準備の手伝いに行ってました。
墓石も今までに無いほど気合入れて、磨き清めてまいりました。炎天下でさすがにバテましたが、なんとなく気持ちがスッキリしますね。

その後、仏壇のお盆飾りを。
お盆飾りは地方それぞれに多少の違いがあると思いますが、小田原では、仏壇の扉上に青竹を載せ(ここまでは共通ですが)、その上に稲・栗・芋・柿・枝豆の葉をかけます。
01_6
これを「あーぼー、へーぼー」と呼ぶのですが、意味は分かりません。もしかしたら祖父に聞けば分かったかもしれないのですが、祖父が存命ならそもそも準備を手伝うことも無く、好奇心も湧かなかったわけで・・・。でも、いずれも身が成る植物ってところに意味があるのかも、と思ってます。
(ちなみに、「小田原、お盆飾り」で検索したら去年の自分のブログくらいしかヒットしませんでした(笑))
あとは、ほうずきにワラ馬などと殆ど同じです。

でも、おがらで迎え火をするお宅も最近は少なくなりました。

03
15・16日には叔父の子ども達(小6と小2)が来ていて、八王子の方の子ども達なので、海やプールに行きたがってました。
でも却下。
かわいそうだけど、お盆の時期は海に行くもんではないと聞きますし。16日は閻魔さんの縁日(つまりお休み)で、この日には地獄の亡者が解放されると言うんですよね。だから「引き込まれるよ」と。
それに、16日はお盆飾りを海に流す日で、あまり気味の良いものではないでしょう。ま、今は浜に穴掘ってお焚き上げしちゃってますが。

最近は、温暖化の影響なんかもあって、結構早めの海開きが増えてますけど、こういう風習的なことも知ってて悪くないと思います。怪談のネタにもなりますしね。

余談ですが、鎌倉なんかの浜は、海水浴場が繁盛している一方で、今でも8月盆の16日に閻魔参りが円応寺なんかでちゃんと行なわれています。
この辺が鎌倉らしいギャップと云えなくもない。(まあ別に鎌倉だけではないんだけど、しっかりとお寺の行事をやってるのも鎌倉ならではですから)
あと実は、鎌倉の浜は中世の公共墓域であったので、結構人骨が埋まっているのですよ。(約五千体ほどが今までに発掘されたと云われます)
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/430_3.html
由比ガ浜は極楽寺が支配していたこともあって、墓域的な性格も強かったのでしょうね。
でも、鎌倉時代も半ば以降になって、鎌倉の人口が増えてくると、こうした墓地の上にまで居住区画が広がっているようです。
今の海水浴場の砂浜の下はどうなってるか分かりませんが、ときどき、砂中に骨片や陶磁器片(骨壷など)といった、当時の葬事遺物が混じっていることがあるそうです。
これも、歴史ある鎌倉ならではの楽しみの一つでしょうかね。
怪談ネタにも事欠きそうにありません(笑)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

史跡めぐり 愛甲から高座北あたり

1_3
以前、お誘いを受けていた史跡めぐりの都合がついたので参加させてもらった。
天気は上々。
朝、小田急・愛甲石田駅で待ち合わせして、以下のような順序で史跡・旧跡を車で訪問した。

8:00小田急・愛甲石田駅~厚木市・円光寺(伝愛甲三郎季隆墓塔あり)~伊勢原市・円光院(三浦党石田氏城址)~厚木市・岡津古久城山~厚木市・七沢城址(扇谷上杉氏城跡)~実蒔原古戦場(1488年山内上杉顕定と扇谷上杉定正の合戦場)~伊勢原市・日向薬師(本堂・本尊とも国重文)~鎧塚古墳(古墳後期円墳群)~伊勢原市・洞昌院(伝扇谷上杉氏持仏堂・太田道灌墓(荼毘塚か)~伊勢原市・字御伊勢森(伝・扇谷上杉氏館跡)~伊勢原市・高部屋神社(伝糟屋有季館跡)~伊勢原市・大慈寺(太田道灌菩提寺・道灌画像蔵)・道灌墓(追善墓か)~海老名市・有鹿神社(海老名総鎮守・延喜式神名帳記載の古社)・有鹿天神(海老名氏館跡より移設)~海老名市・海老名氏霊堂(海老名氏菩提寺跡)~海老名市・相模国分寺跡(史跡公園)~海老名市・上浜田館跡(浜田歴史公園)~綾瀬市・城山公園(早川城址)~横浜市泉区・岡津城および陣屋跡(写真)~大和市・深見城跡~18:50頃小田急・鶴間駅

普段自分の場合は、地区をしぼって終日じっくりと史跡探訪などをするのだが、こういうツアーは大勢で訪問して楽しく、また知的な刺激となった。

1_2
ちなみに最初の訪問地、円光寺は一時有名になった水晶観の霊能僧・織●無道住職の寺であった(笑)。
中国城郭のような山門に葵紋(写真)。なんだかすごい迫力だが、寺・墓地ともに普通の寺であった。
本堂裏に伝愛甲三郎の墓石(宝篋印塔)があり、江戸時代からすでに疑問視されてはいるものの、塔身に五智如来像が刻まれた優作(と思う)。

1_1
写真の消防車は、七沢城址に向かう途中にあった厚木消防署玉川分署の「ガンちゃん号」(火事無願太郎)。
ベース社は戦前の日産車のようである(以前、NHKの番組で当時の天然色CM映画の一部が紹介されていた)。
小田原消防本部にもエンスーな旧車消防車がレストアされていたが、やはり官給品は物持ちがいいのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

虎御石

さて、前スレの続きというか、虎御石について。

0

この石を寺宝として蔵する延台寺の伝えるところによれば、虎御前の両親が弁財天に子宝を祈ったところ霊夢を観、枕元にこの石を授かったとされています。それに日々祈りを捧げた甲斐あって授かったのが、後に虎御前となる美しい娘子でした。
その後は、彼女の守り本尊として信仰し、虎御前の成長とともに大きくなったとされています。
あるとき虎御前のもとを訪ねた曽我十郎が、仇敵の工藤祐経の刺客に闇討ちされましたが、その時この石が身代わりに矢と刀を受け止めてくれた、というのがこの石の主な霊験譚。その由緒から、この石のご利益は、「子宝安産、身代わり厄除け」となり、それに曽我兄弟の仇討本懐を加えて、「大願成就・家運隆盛」にもなっているようです。

01_3
で、その時の刀と矢による傷というのが、石に刻まれているのですが、まあ実のところは明らかに陰陽石(男女の生殖器をかたどったもの)。もっと昔からの信仰対象であったのかもしれません。伝承の一つには、虎御前が亡き恋人(十郎)を偲んで祈ったようなこともありますが、これは洒落に近い話でしょう。
江戸後期(天保12年:1841)の地誌『新編相模国風土記稿』によれば、古くは大磯宿の西端、鴫立沢あたりにあって、“美男なら軽々と持ち上がり、醜男ならびくともしない、色好みの石”などとして、江戸前期には往来の名物になっていたようです。前スレの錦絵もそれを描いたもの。

この当時、庶民にとって、大磯といえば「曽我物語」の虎御前。広重の「東海道伍拾三次」でも大磯宿は「虎ヶ雨」が題になっていることでも良く分かります。宿で働く遊女や飯盛女にとっても、もしかしたらステータスを感じさせていた存在かもしれません。
この陰陽石自体は、どこからもたらされたのかは分かりませんが、宿の西外れ近くにあったことを考えると、古いスタイルの道祖神だったのかも。それが、いつからか力石(よく神社にある力比べの石)になっちゃって、それに虎御前人気が後から付属してきた、というのが実際に近いような気がします。
もしくは、この石の形状に(旅客が?)洒落心を感じて、遊女・虎御前ゆかりの石ということになったのかも。

それが、大磯宿の中ほどにある日蓮宗寺院・延台寺(の番神堂)に納められたのは、前述の『風土記稿』によれば「(調査当時の)二十年ほど前」とのこと。
前スレの錦絵でも分かるように、当時は大磯名物として人気のあった虎御石をなぜご神体のようにしてしまったのか。有名になりすぎて、盗難や破損を心配したのか。
それとも、地域の有力者か誰かが「虎御石さまを、力石代わりに遊ぶなんていかん!」と一声上げたのか。
まあ、本来が陰陽石ですから、ご神体にかえしたのなら分かる気がしますが、盗難の可能性は低かったのでは。
大磯にあるからこそ、名物たりえた訳ですから。
ご神体に返すのだとしても、ちゃんと据えてお祀りすれば済むことだし。

もしかしたら、寺の維持費の捻出などを目的としてたりして・・・。などと穿って考えてみたけど、謎は謎。
でも、こういうローカルな歴史に小さなミステリーを感じて思索するのは、面白い。

01_4
延台寺山内(境内)には、宿で亡くなった遊女の墓や、虎御前の両親が祈ったという虎池弁才天(池は埋立てられ、社が管理していたこの寺に移された)などがある。
山門から正面の曽我堂内には、虎御石ほか曽我物語関係の寺宝がともに安置されている。
曽我堂も虎御石も、年に一度の「虎御前まつり」の日(5月第三日曜)のみとのこと。
ローカルで小さな祭事だが、手作りの大絵馬や曽我堂のなかを拝観するだけでも楽しめる。

ちなみに、ご開帳のときの虎御石は、撫でたり触れたりして参拝はできるが、昔のように持ち上げようなどとは思わないように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大磯再訪

なんかまた暫く書かなかったなあ。
日記と同じく、やっぱ習慣づかなくなると筆不精になるね、ネットといえども。

01_2
そんなんで突然のネタ登場なんですが、このところ、大磯に続けて出かけて調べものなどしています。
きっかけは、5月21日に父方祖父の墓参り(去年で7回忌)に行ったとき。
この日、ちょうど東海道・旧大磯宿の旧跡やら、宿場内の延台寺の祭事「虎御石まつり」などを見る機会がありました。後者はいわゆる「曽我もの」で名高い、虎御前(曽我十郎の愛妾)伝説に因むもので、大磯宿の名物でもあったものです。
大磯という町は小さいながらも、エリアごとに特色があってなかなか面白い。
駅周辺の大磯地区は、旧大磯宿。
その西の小磯地区は、明治から戦前・戦後までの財界人らの別荘が多く建てられ、現存するものも少なくない。なんとなく戦前の古き良き湘南を止めているのだ。
また、やや郊外の高麗地区や国府新宿地区なども、それぞれ古代から中世にかけて興味深い社寺の歴史がある。

まあ、それだけではないのだけれど、21日に観光協会のお知らせで、翌週日曜の28日には旧安田財閥の総裁、安田善次郎の別荘“楽寿庵”(現在、安田不動産大磯寮)が一般公開されると知ったので、また行ってみたわけ。

021
当日は、楽寿庵の建物内は残念ながら公開されなかったが、庭園や安田翁の供養のために建立された持仏堂や経蔵などのほか、国重要美術品の石造十三重塔などの観覧を楽しんだ。
その後は例によって、あてもなく路傍の石碑や社寺を見ながらブラブラ旧街道沿いに歩き、気がついたら平塚まで来てしまった。

で、もう一度大磯に戻って、小さな中世山城遺構などを観察。
ちょっとだけ見るつもりが、予想以上に遺構があったため、どんどん草むらの奥へ(笑)。
一応、簡単な見取り図程度をメモする成果はあった。
ここは小さな城址だが、詳細は殆ど知られていない。というか伝えられていない。
だが、立地と曲輪(くるわ)の構成などを色々調べていくと、なんとなく実態は見えてくるものである。
詳細に関しては、もしかすると他の媒体で書く可能性もあるので、ここではこれまで。

そのほか旧道で出会ったお年寄りの話など、傍から見たら単なる思い出話に過ぎないものにも、幾つか得るものあり。この点、大磯町教委では、すでに何度か民俗・伝承など聞き取り調査の報告書類も出ているので、それらと併せて検討することで、とても勉強になりそう。

01_1
ところで、江戸時代の東海道は2001年の江戸開府400年を境に、中高年らに人気のあるウォーキングコースとななってきている。
時おり見つける路傍の石標や広重の「東海道伍拾三次」に描かれた場所、良く知る地名の由来などに出合ったりするのは、年寄りでなくてもなかなか新鮮ではある。
実は私もとりあえず、日本橋から箱根くらいまでは歩いてみようかと考えているのだが、他人と同じではつまらない。そこで、戦国時代の東海道でも通って行こうかなとも考えている。でも、そうなると江戸発ではなく、鎌倉発とか、武蔵府中発とかになってしまう・・・。ということで、徳川氏入国以前の江戸城~小田原城間の官道(つまり北条氏による伝馬道)にしようかとも考え中。

ちなみに写真は上から、「大磯・愛宕神社の参道」「旧安田邸庭園」「錦絵に描かれた大磯と虎御石」。
最後の、この虎御石については別枠でまた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新たな小田原城障子堀

Odawarajosyoujibori01
昨日の各新聞(県西版など)で報道されましたが、小田原市栄町1丁目の住宅予定地で新たな障子堀が出土しました。実は祖父が緊急入院した3月半ばから調査しているのに気がつき、折々観察していたのですが、途中から明らかに障子らしいのが見え出したので気になっていました。
場所は、小田原郵便局の裏あたり。
今でも近世三の丸の北東隅櫓石垣が残っていますが、ちょうどその南隣のスペースです。
確認範囲内の出土堀は、近世三の丸の堀と併行しているようですがかなり内側の位置です。また、土塁上に木の根が2株ほど。そして、北側の堀底に障子が立っているように見えました。(写真はともに4月8日撮影)
Odawarajosyoujibori02
結局、13日の紙面発表で概要が明らかにされました。それによると・・
「堀は幅4.35m以上、深さ4.15m以上。障子はは高さ1.6m前後で二箇所確認。切り株は杉で6本分。堀の形態、出土遺物(漆椀等)から北条氏による作築と推測。」
今後、分析など成され、来年秋「平成19年小田原市遺跡調査発表会」で結果が発表されるとのこと。
また今回の障子堀出土は、小田原城で31番目の発掘だそう。
それら何れもが、後に埋蔵もしくは破壊されて陽の目を見ていないのは残念ではあります。
お隣の山中城が障子堀で高評価されてるのは小田原でもよく認知されています。でも、今まで一つも保存整備活用が成されないのは一体どういうわけなのでしょう。民間建設に伴う調査とはいえ、小田原市議会および市長は、ここまで発掘例が頻繁になってきたら、遺構保存のための条例なり得策を強力に講ずるべきでは?それとも、近世二の丸域内と大外郭の山地部のみ保存整備すれば他は必要ないと考えてるのでしょうかね?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

沼津へ(2)大泉寺・浮島ヶ原

さて、興国寺城の次の訪問地です。
時間はちょうどお昼でしたが、せっかく久々に沼津まで出てきたのですから、食事はコンビニ弁当で軽く済ませて、他の史跡などを観に行こうということに。
事前のチェックでこの近くに、阿野全成ゆかりの大泉寺があるのを知っていたので、まずそこに向かいました。

01
大泉寺は興国寺城と同じく根方街道沿いにある寺で、城址より1㎞ほど西へ向かったところです。
寺は、阿野全成(あのぜんじょう)とその子・時元の墓がある寺として知られていますが、寺域そのものが阿野氏館跡と云われています。
山門は道路から奥まったところにありますが、道沿いに「阿野全成碑」が立っているのですぐ分かります。

阿野全成は、源義朝と常盤御前との間に生まれた子(幼名・今若丸)で、源頼朝の異母弟で義経の同腹兄であります。平治の乱で源義朝が敗れると、常盤の子達もそれぞれ寺に預けられ、今若丸は京都醍醐寺に送られ、のちに全成と名乗りました。僧とはいえ、成長につれ逞しくなり「醍醐の悪禅師」と呼ばれるようになります。
源頼朝が挙兵(治承4年・1180)すると、全成は修行を装って、いち早く京都から参陣。
後にその功績によって駿河・阿野庄を与えられ、この地に館を建て、阿野姓を名乗りました。その当時の居館に付属していた持仏堂が、現在の大泉寺となったとされています。
阿野全成は北条政子の妹(阿波局)を妻とし、頼朝政権においては地位が安定していたものの、二代将軍に頼家が即位すると、阿波局が実朝(のち三代将軍)の乳母だったこともあり、頼家派と対立。建仁3年(1203)、謀反の罪で常陸に流された末、下野で八田知家に殺害されてしまいました。

子の時元(降元)も三代・源実朝が殺害された直後、北条氏に対して兵を挙げますが、敗北して時元は自害。
一族も多くが滅ぼされ、所領も没収されてしまいました。
ちなみに、後世、後醍醐天皇の寵愛を受けた阿野廉子(あのれんし)はこの阿野氏の一族のようです。

01
境内はそれほど広くありませんが、周囲の土地より高地にあって、道路側や西側などには館跡らしい面影があります。
どういう理由かは分かりませんが、本堂の前にはタイ風の釈迦如来像が置かれ、キンキラキンに輝いていました。
01
阿野全成父子の墓所は、本堂の左後方の歴代山主(住職)墓所にあります。
墓塔はオリジナルなものではなく、後世に、複数の五輪塔や宝篋印塔の部分を積み合わせたものです。それでも、父・全成の墓塔を時元より高く積んであったりと、父子の墓の趣を出しています。

ここを参拝・見学した後、目と鼻の先にあったコンビニで昼食を買い、車中食。

次に、北条氏政と武田勝頼が幾度か合戦を交えた「千本松原」へ。
ここは、景勝地・千本浜公園として沼津の代表的な景色の一つでもあります。

しかし、国道1号線に合流する途中、道の傍らに湿地公園のようなものを発見。
今は、干拓&埋立てされて見るべくも無くなった「浮島ヶ原・浮島沼」を偲べそうだと思ったので、運転するKさんに無理を行って寄ってもらいました。途中、変な道を通ってしまったので、車に小さな引っかき傷がついてしまい大変申しわけない事をしてしまいました。

「千本松原」も「浮島ヶ原」もともに鎌倉時代の紀行文『東関紀行』で歌に詠まれたり、歌川広重の浮世絵などでも紹介され、その景勝を愛でられています。
田子の浦もそうですが、開発で和歌の景色が失われていく中、少しでも景色を偲べそうな場所は、観れる機会があるときに立ち寄って、せめて心の内に景色を留めておきたいものです。

01
さて、到着した湿地公園ですが、「アクアプラザ遊水地」という名前の小公園でした。
アクアプラザというのは、一昨年完成した沼津市のし尿処理施設らしいのですが、その隣の遊水地を浮島沼の旧観を再現したビオトープとして整備したということです。
人口のものとはいえ、葦草高く繁茂する沼地からは富士山が見えて、サギ達がエサをついばむ景色は、浮世絵の浮島沼を思わせます。ただ、もう少し規模を大きくして欲しいものではありますが。

toukaidou_hara
~『東関紀行』より浮島ヶ原の描写~
富士の嶺の風にたゞよふ白雲を天つ少女の袖かとぞ見る
浮島が原は、何處(いづこ)よりもまさりて見ゆ。北は富士の麓にて、西東へ遥々と長き沼あり、布を引けるが如し。山の緑影を浸して、空も水もひとつなり。蘆刈小舟所々に棹さして、羣れたる鳥多くさわぎたり。南は海の面遠く見わたされて、雲の波煙の波、いと深き眺めなり。すべて孤島の眼に遮るなし。(中略)
此の原昔は海の上に浮びて、蓬莱の三つの島〔蓬莱、方丈、瀛州(えいしゅう)の三神山をいふ〕の如くにありけるによりて、浮島となん名づけたりと聞くにも、自ら神仙の棲處(すみか)にもやあらむ、いとゞ奧ゆかしく見ゆ。
影ひたす沼の入江に富士の嶺(ね)の 煙も雲も浮島が原


| | コメント (0) | トラックバック (0)

沼津へ(1)興国寺城跡

今回の沼津行きは、同市根小屋にある興国寺城跡の発掘調査現地見学会に赴くためでした。
藤沢のK氏と共に参加してきました。

0101
同城は、小田原の人間もしくは戦国大名の後北条氏を知る人にとっては、「北条早雲旗挙げの城」として名高いですが、国境の城としても変転多い歴史を持っているところです。
はじめ今川重臣・伊勢新九郎(北条早雲)が、この地にあった興国寺という寺院を改造して城砦とし、ここを拠点に伊豆侵攻を成しました。その後、今川・北条・武田・徳川の各戦国大名が領主となる度に、国境防備の城として修築強化が成されたと考えられています。
天正18年(1590)に豊臣秀吉が天下一統を果たし、徳川氏が関東に移封されると、豊臣系大名の中村一氏が駿府城に入り、その家臣の河毛重次が城主となります。そして、関ヶ原の合戦後、慶長6年(1601)に再び徳川氏に帰して、家康家臣の天野康景1万石が入城しました。
しかしその後、康景は改易されてしまい、慶長12年(1607)に廃城となっています。

1001
そのような城であります。
城は、愛鷹山から南下する尾根末端の舌状台地を直交に掘切り、独立させた城。
尾根の北から、北曲輪・本丸・二の丸・三の丸が、堀と土塁で仕切られ連続する、いわゆる連郭式城郭ですね。

城地は、東西南は湿地(「浮島沼」)でして、南の湿地との間には、根方街道(海岸線の東海道に併行する道で、山側にあるので根方道と呼ぶ)が東西に走っています。また城の正面で、この根方街道と東海道を結ぶ「竹田道」が交差していて、天然の要害であると共に交通の要衛でもありました。
今では湿地は干拓されて畑地になっていますが、高低差はそのままですし、水を逃がす水路があちこちに流れているので雰囲気はつかめます。

現在見られる遺構は、基本的に廃城時のものですが、最近まで茶畑など畑地利用がされていたため、耕作などによって平坦部の遺構はかなり消失しているようです。
最南端で根方街道に接していた三の丸は、現在、根方街道(県道22号三島富士線)が内部を貫通して両側が住宅地化していますが、国史跡として同地の行政による買取も進んでいるようです。
最北端と思われる部分は、東海道新幹線によって消滅してしまいました。戦後の米軍による航空写真からある程度の地形読み取りが可能ですが、江戸時代の城絵図によれば、同地には戦国大名・武田氏の城郭に顕著な「丸馬出」があったようです。

0501
本年度発掘調査の成果として行なわれた現地説明会は、本丸とその南東部にある「石火矢台」と呼ばれる一角、それから、その南に接する空堀の遺構でした。

見学会は午前10時からと聞いていたので、8時過ぎに小田原を出発しました。
時間に余裕を持って出たつもりで、最初は「三島大社にお参りしてから行こうか」なんて言ってたんですが、ようやく城址に近づいた県道22号線では、道路工事などを行なっていたりで、結局ギリギリセーフ。不慣れな土地でやはり余裕ぶっこくのは危険です(笑)。

説明はもう少し人数が集まってからのようでしたので、それまでの間、トレー展示されている出土遺物や空堀を見学しました。遺物は、古瀬戸の皿や天目茶碗などの陶片、かわらけ、古銭、土錘(どぼう)、包弾など。それぞれ特に説明書きなどは添付されていませんでしたが、慶長期を中心としたものでしょうね。包弾は空堀から出土のようですが、これは戦闘遺物なのか。それとも誤って堀に落ちたものなんでしょうかね。土錘は網漁に使用する漁具なので、この土地の性格を示す興味深いものだと思いますが、時代はいつのものなんでしょう。

0201
空堀は、深さ3mと小規模な感じですが、対面する石火矢台側土塁の頂部との高低差は約11m。土塁の崩落を考えると、実際はもう少しあったんでしょうね。堀幅は上端約13m、下端約2m。堀の法面がやけに不整形だったんですが、配布資料によれば、「南側法面には犬走り状の平坦地を伴う」とあります。当時の堀底の整備や掘り下げの時の足場なのか、それとも、堀をなだらかに埋め立てるために、南法面を切り崩したとか・・・。どうなんだろ。ちなみに、堀は東の沼地まで切れておらず、土塁下で止まっているようです。この部分には石がまとまって落ちていました。

0301
担当者による説明は本丸と石火矢台で行なわれました。
今回の発掘で明らかになった本丸の概要は、以前から存在が確認されていた排水溝の全容です。
本丸の北から南に一直線に敷かれた石敷きの排水溝が、はっきりと残っていました。
それより東側にも石敷きの遺構があって、こちらは3回ほど規則的な長さで直角に曲がっていきます。
どうやら、居館と考えられる建築物の一部のようで、説明者によれば玄関の遺構ではないかということです。
説明では触れられませんでしたが、その敷石の向きに併行するように、丸柱ピットが2つやや南東に向かって1間幅で並んでいました。何かしらの建物もしくは、柱列がこの方向に立っていたようではあります。地形図で見ると、この面は南東方向に緩傾斜していますので、建物の向きもそれを踏襲してるのかも。
礎石類は検出されなかったようです。後世の土地利用によるものでしょうが、仕方がありません。
また、この調査区の南で本丸土塁の南側の痕跡である、土留め石と土塁基礎部の遺構が確認されていました。
ここの土塁はきっとこの南側の堀の埋め立てに崩されたんでしょうが、基礎の石など一部はしっかり土塁に沿って残っていました。

0401
石火矢台は、本丸の東南隅にやや張出した一角ですが、こちらでは郭の縁辺部で土塁が確認され、また内側にもう一つの小規模な土塁が設けられていたことが明らかになりました。このあたり、どうやら本丸の搦め手口が設けられていたようです。そういえば、この東の湿地の辺りに「伝東船付場」という地名が残っています。川舟などを付けて、直接城内に入れるようになっていたのかもしれません。
ちなみに「石火矢」というのは、文字の通り、石球もしくは鉄球を砲弾に打つ火砲の事です。この興国寺城の石火矢台がいつごろに由来するのかは分かりませんが、少なくとも戦国時代ではないでしょうね。

0601
説明会の後、静岡古城研究会のM氏と私が所属する会のY氏に出会い、しばし城談義。
0701
そして、私と同行のKさんは初めての城址でしたので、本丸北の伝・天守台と大空堀、北曲輪から三の丸堀まで、ぐるりと一周して見学していきました。

0801
北曲輪からは富士山が愛鷹山の裾から覗き見るように頭を出していて、綺麗だけれど面白みのある光景でした。
0901
また、つい最近までガソリンスタンドが建っていた三の丸も、公有地化でサラ地になったおかげで富士の展望が利くようになりました。これも素晴らしい事です。
この城址の全域が史跡公園となった時は、城址と富士の1セットがお決まりの景色になることでしょうね。


| | コメント (0) | トラックバック (0)