カテゴリー「文化・芸術」の7件の記事

展観 「早雲寺 織物張文台および硯箱」、「飛騨の円空」展

下谷七福神めぐりをした後、何を考えたか、福神ついでに護国院の大黒さん、不忍池の弁天さん、五条天神さん(末社に七福神社がある)にも参拝。
鶯谷から三ノ輪まで歩き、そこから再び上野公園を半周してしまったのだから、結構歩きまわってしまったと思う。

で、東博の正門に着いたのが結局15時半過ぎ。
リニューアルオープンした東洋館を見るのは諦めて、まずは常設展示へ向かう。

この日(3月2日)、東博に来た本当の目的は、早雲寺寺宝の「織物張文台および硯箱」を観るため。
早雲寺の寺宝公開で見る事が出来るのは精巧なレプリカ作品で、実物は国重文で東博に収蔵されている。
といっても普段公開しているわけではなく、入れ替え展示で出してくれるのを待つだけなのだが、今まで知る限りでは殆ど出していなかったのではないか。
今回は、友人の宮下さん(感謝m(_ _)m)からメールで教えてもらい、貴重な機会に巡り合う事が出来たのであった。

文台は、本館一階、入って右奥突き当りの部屋に展示してあるらしい。
初めて出会う本物への期待が高まり、早足に。
今まで各種書籍で見知ってはいるが、それぞれ印刷の具合が異なるので、実物の織物の色がどんなであるのか知りたかった。

照明を落とした薄暗い角部屋である。
それは、螺鈿や漆蒔絵の手箱などと並び、慎ましやかにさえ見えた。
レプリカとはだいぶ違う色である。
(撮影禁止となっていたので)文章だけで表現するのは困難だが、早雲寺銀襴とも言われた文台に張られた唐草文様の織物は、経年変化で茶ばみ、かなり色褪せもしていた。
金襴・銀襴といった素材の特質もあるかと思うが、造形物に張った織物という点も保存が難しい理由の一つであろうかと思う。江戸期の早雲寺も安泰だったわけではない。
どの程度の劣化というべきか、素人の私には判断しかねるが、近くに並ぶ螺鈿箱のようなきらびやかさを今は感じる事は出来ないのが少々残念ではあった。

しかし、400年以上経た実物だけが持つ風格はある。
伝承のようにこの文台で北条氏政が歌を詠んでいたのかと想像するだに楽しい。
最近、江戸期小田原城の御城米曲輪跡の下層から、北条時代の礎石建造物や池水庭園らしき遺構が現れて話題になっているが、その辺りで、もしくは八幡山にあったという隠居所で、これを愛用していたのだろうか。
泉水の流音ささやく庭の見える書院、僧や若侍を相伴に控えさせ、この文台を傍らに座す景色を思い浮かべる。
見学者が少ないのを良い事に、そんな時空を超えた観覧を楽しませてもらった。


そして、特別展『飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡』へ。
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エントランスに下がる迫力のタペストリーだが、実は展示スペース1室の大変小規模な展示。
しかし、50体近い円空仏が居並ぶ様は壮観ではあった。
これが、ほとんど一つの寺院からの出展というのだから凄い。
閉館時間が近いのもあり、東博としては混雑というほどではなく、一つ一つじっくり見れたのは幸いだった。

こちらも当然撮影禁止なので、展示目録の中から、気に入ったもの、印象に残ったものを記しておく。

まずは、パンフ写真にもなった両面宿儺。
多くの人がそうだと思うが、円空仏といえば真っ先に想起する作品。
中学生の頃、祖父と飛騨高山旅行に行った時、この像を観たいと思ったが、拝観叶わなかった。
初めて見る実物は想像よりもややスマートで、恐いというより、ハンサムだと思った。
微笑した二面の明王や童子、もしくは将軍神のような姿だが、火炎後光は巻雲のようにも見えるし、下げ持つ斧はむしろ静けさを感じる。
両面宿儺は、日本書紀に登場する怪人で、朝廷に反逆したとして退治されてしまうのだが、千光寺の伝承では、救世観音の化身として人々に崇められていたという。
この像をして何らかの二面性を表しているのならば、飛騨という地域特性を察するに、山林資源をめぐる在地と中央との軋轢の中にあった首長もしくは祭祀長的な人物の姿、怒りや無念さが込められているのではないか。
像として造り出すからには、身近に伝わる救世観音の化身の神としての像を、この土地の人達は依頼したのではなかろうか。

展示室入口に立っていた、素玄寺の不動明王立像。
背も高く、入口で見学客を迎えるに堂々たる存在感を放っていた。

千光寺の不動三尊像。
一本の木を三つに割って造られた不動尊と両童子。
同じく、錦山神社の稲荷三尊。
円空仏には時々こういう作があるようだが、造形の面白さだけでなく、木に神仏を観じていたからこそではないか。

千光寺の宇賀神や歓喜天はごくシンプルだった。

そうかと思えば、出口近くにあった清峰寺の千手観音像は、一つ一つが違う方向を向いた手が動的で、丸みを帯びた姿は粗削りな不動尊と対照的。
優しげな微笑が印象的で、この前で暫し動かなくなる見学客も。
これは、ちょうど展示ケースの高さが絶妙だったと思う。

時代は違うが、これらを観て思ったのは、伊勢原の日向薬師や横浜の弘明寺観音。
平安時代のこの地域の一例ではあるが、“鉈彫り”という表面を仕上げない独特の作風は、材になっている霊木の質感を残すためであるとも考えられている。

円空仏にも同じように、古風な木霊を感じさせるところが多分にある。と思った。
霊木への尊崇というよりも、もっと近しい親しみのような感じではあるけれど。

そういう点では、展示室中央にあった、千光寺の金剛力士像はちょっと恐かった。
地に根を張ったままの木に仏を彫刻する、いわゆる生木仏(いきぼとけ)である。
大きな鼻に顔面の力が集中したような、目の周りのしわ。
釣り上がった口元は、笑っているようにも見え、十一面観音の暴悪面のよう。
この手の像は、殆どが、程なく立ち枯れてしまうのだが、私にはこの憤怒相が木の怒りに見えて仕方なかった。
すでに地から切り離されて長い年月を経ているが、細かなヒビや割れがさらに迫力を増していた。


このような展示で、なかなか楽しめたのだが、写真が一つも無いのは楽しくないので、最後にこちら。
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東博所蔵の円空仏。如来立像。
特別展に合わせた常設室のセレクトであった。撮影可。

ところで、手塚治虫『火の鳥・鳳凰編』に出る我王(がおう)のモデルは、もしかしたら円空なのかな?

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今日は所用あって小田原ラスカに行っていたのですが、上の階でちょうど相模人形芝居・下中座の公演が行われていたので観てきました。
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正確な題名は忘れましたが、坂田金時の百足退治の話と、母を探す娘遍路の話。

下中座は江戸時代から伝承されている無形文化財の芸能ですが、公演を観たのは初めてでした。
楽しいひと時でした。

公演後に人形を近くで見せてもらいましたが、よく出来ていますね。
複雑な人形の操作で自然な演技をするには、熟達が必要なのでしょう。
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この娘巡礼の人形からは歴史を感じます。
昔は完全な白装束だったのかというと、必ずしもそうではないのでしょうね。
(戦前の遍路や富士講の写真でもそうだったし)
首から下げているのは、「納め札」です。
今では印刷された紙札ですが、当時は自分の名を記した(刻んだ)木札だったのですよね。
それを各霊場寺院の柱などに打ち付けて廻ったのが、巡礼の証しとしての「札所打ち」でした。


市内外でも折々に公演の機会があるようなので、今度はしっかりと演目を下調べして観てみたいと思いました。
でも、こういうのは村のお宮の舞台で見たりする方が風流だろうなあ。

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見仏・鎌倉国宝館 特別展『鎌倉の精華』

そして、再び逗子駅に戻って鎌倉へ。
今日は四度も逗子駅に来ております。

鎌倉駅を降りると人が沢山。
紅葉にはまだですが、さすが観光地。
人ごみを避けて、八幡宮境内の鎌倉国宝館へ。

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境内では「庭園展示会」なるコンペティションが行われていました。
以前、テレ東の『TVチャンピオン』で庭園造りの選手権がありましたが、そんな感じだったのでしょうか。
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各作品とも限られたスペースに見事な意匠を発揮していました。


さて、国宝館です。
こちらでは、開館80周年記念として、特別展『鎌倉の精華』が開催されています。
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kokuhoukan/index.htm

80周年ということで、開館当初の展示を一部再現したり、今までの展示で出展された鎌倉時代の名品を一堂に並べて展示するという豪華企画です。
展示期間は、前中後と三期に分けられ、一部入れ替えがなされます。

その展示品リストは国宝館のサイトで見て頂くとして、印象に残ったものを幾つか。

まず、宝城坊の丈六薬師。
(有名な平安期鉈彫り像の方ではなく、鎌倉期のものです)
開館当初、伊勢原の日向薬師から出展されたそうですが、その数年後、祀っていた村で病が流行。
仏像を移動した祟りと恐れた、村の返還要求を受けて返還された過去があるそうで。
当時の騒ぎを伝える新聞記事も添えられ、大変興味深いものでした。
その薬師如来像、男性的な厳めしい表情で丈六の高さだけに、存在感があります。

何か感じるものがあるのか、ご婦人が一人、じっと前に佇んでおられました。手を合わせていたようです。
国宝館は内部が寺院建築を模しており、今の博物館然としていません。何か通じるものがあるお像には、そのように拝したくなる気持ちも分かります。


市内渡内の慈眼寺から出展の十一面観音像は量感ある作品。
後の戦国時代に、玉縄北条氏の新八郎(北条氏繁三男の直重、氏成)が母(北条氏康娘)と連名で、修復寄進したものだと思います。

慈眼寺は以前に玉縄オフで訪問した折、ご本尊を拝観できませんでした。ようやく、お目にかかれたわけです。


戸塚区、證菩提寺の阿弥陀三尊。石橋山の戦いで討死にした佐奈田与一義忠の供養に建立されたお寺で、阿弥陀如来像が平安末期。後に加えられた脇侍が鎌倉初期の作。
佐奈田与一関連として、また県内の有名仏像の一つとしても、一度は見たかった作品でした。


和田義盛ゆかりの伝説がある、横須賀市、清雲寺の毘沙門天像。
兜が取り外しできるのが面白いです。
シコロの広い兜の形状も、大鎧を意識したように見えました。


小田原市の宝金剛寺からは青不動像と銅造大日如来。
こちらも、宝物館開館当初の陳列品だったそうです。
寺の宝物館でも以前拝観しましたが、照明が違うためか雰囲気違って見えます。


そして、五島美術館の愛染明王像。
展示内最大の迫力かもしれません(笑)。
もとは八幡宮寺の愛染堂本尊だったそうです。
できるなら、護摩堂の薫煙ごしにお会いしたいくらいの憤怒相。


大船、常楽寺の文殊菩薩像も。
これは、普段は初天神の時くらいしか拝観できないので、嬉しい展示でした。


気になるのは、極楽寺からの十大弟子像。
釈迦如来坐像が金沢文庫に展示されてましたが、そうなると今の極楽寺の宝物館はかなり寂しい展示になっているのではないでしょうか。
まあ、私が心配する事ではないのですが。


絵画では、建長寺の蘭渓道隆像が国宝とピカ一ですが、保護の暗照明のためか、印刷物より見にくかった気がしました。

中国風の仏教画はどちらかというと余り好みではないのですが、牧谿様の猿猴図や、円覚寺の白衣観音図(こちらも伝・牧谿筆)はゆったりして好きな作品です。

建長寺と円覚寺の展示品は、11月3~5日の宝物風入れ公開の為か、中期の展示では外されるものが多そうです。
逆に、この時期に両寺と国宝館展示を見に行けば、1日でかなりの作品が見れるでしょうね。


書跡・工芸は、地味な展示になりやすいですが、円覚寺境内絵図などは、門前の石垣とか民家の並びなども見えて面白いです。

やぐらや寺院から出土の骨蔵器も多様です。
西方寺跡出土の銅製五輪塔や宝塔などは当時の石塔の形状も現れていて、お墓ウオッチャーな私にとってはかなり興味深いものでした。


とまあ、一時間半ほど拝観。
その後、若宮八幡宮に参拝して、今回の怒涛の見仏を終了しました。

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死者の書

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昨日、久しぶりに鎌倉へ。約半年ぶりだったろうか。
ホームから改札に向かう地下通路(旧通路)が、旧小田原駅や国府津駅の通路を思わせて懐かしい。
改札口でミク友にもなっている将軍太郎さんと待ち合わせ、生涯学習ホールへと向かった。
土曜とはいえ、午前9時半の若宮大路はまだ通る車も少なく、名の通り広々と感じさせた。

今回鎌倉へ来たのは、人形劇映画『死者の書』鑑賞のためである。
NHK人形劇『三国志』や『平家物語』等で良く知られる川本喜八郎氏の監督・脚本になる人形アニメーション映画で、原作は折口信夫著『死者の書』である。
http://www.kihachiro.com/
あらすじは上の公式サイトか、アマゾンなどで原作の紹介をご覧ありたい。
声の出演者も豪華ながら、人形の表情の豊かさ、時代考証が反映されたセット(人形スケールの)の豪華さ、衣装の美しさ、動きの細やかさに大変驚かされた。築地塀の版築工事の風景や、鳴弦と足踏みの悪霊祓いなど、歴史好きにも再現映像を観るように楽しめる。私が気に入ったのは、最後のシーンもさることながら、主人公の藤原南家郎女が大津皇子に導かれて二上山の当麻寺に出奔するシーンである。風雨の中を歩くひたむきな姿が風に吹きさられる髪や衣の動きなどで、本当によくできていた。表情に乏しいはずの人形でも色々と表現できるのだと、改めて思わせられた。ただ、幻に出てくる阿弥陀如来(大津皇子)の顔が、今観ている『平家物語』の平清盛や弁慶(たしか共に声は風間杜夫)の顔にちょっと似ているので、ちょっと肝心な所でにやけてしまった。

実のところ、私は川本氏の作品のファンだったわけでも、文楽好きだったわけでもない。
ただ、つい最近、CSの時代劇専門チャンネルで再放送が開始された『平家物語』を見始めたところ、その演出表現の見事さに感動し、放送以来今も毎話ビデオに録画するようになってしまった。それで、ネットで氏のことを検索したところ、最近『死者の書』という作品が完成し、各地で公開されているのを知った由である。題からして内容にも興味を感じ、上のサイトを見たところ、どうやら原作は「当麻曼荼羅縁起」をモデルにした作品ということで、二重に興味をそそられた。同縁起は、今年の3月に我が祖父が永眠した後、幾つか読んだ死後観(スピリチュアル)や仏教の本の一つであり、内容も記憶に新しかった。(私が読んだのは、中公の『当麻曼荼羅縁起・稚児観音縁起』だが、大型本ならではで絵巻が美しいし、解説も文章も平易に下されているので、まるで紙芝居のように楽しめた。同作品に限らず、この絵巻シリーズは大変気に入っている)

また、本編が始まる前の序章『ひさかたの天二上』も興味深い。本編の作品世界を補完というか分かりやすくする形の前説なのだが、当時の都から見て、日が昇る三輪山と日が沈む二上山へ投影された異界観などが美しい実写映像で説明がされていた。西陽の落ちる二上山は死者の郷であり、山越阿弥陀図の山は、ここではまさに二上山になっていた。
私は当麻寺どころか、奈良観光も未だろくにしたことが無いのであるが、陽の沈む山に異界や阿弥陀の世界を感じる心は分かっているように思う。私が現在住んでいる小田原郊外の農村地帯からは、夕方になると、季節にもよるが、箱根の山に陽が沈んでいく。その時の空の赤さと連山の黒い巨体のコントラストは、大変印象的である。そして、陽が沈みきる直前の空の赤や紫のグラデーションと、稜線から溢れる光彩からは、山越え阿弥陀を想像することもできる。
中世に箱根が亡者の山として地蔵信仰の場所となりえたのは、多分に火山性の荒涼とした自然環境に拠る所も多いが、おそらく山越阿弥陀のような景観をそこに視る人も居たのではないかと信じている。

つい横道に逸れてしまったが、序章・本編ともに久々の大作を観た思いがした。DVD化するならば、また是非じっくり観たい作品である。

今回の鎌倉上映を主催したのは、「鎌倉で映画と共に歩む会」。どうやら小規模な団体のようだが、このような機会を設けてくれた事に感謝したい。上映前の挨拶では、希望者はチケットを持参すれば夕方の回(上映はこの日のみ)でも鑑賞可能との旨お話され、なかなか嬉しい企画であったが、この後の史跡観光などで疲れてしまったので、買いそびれたパンフレットを購入しに寄るに止めたのであった。

ちなみに、岩波ホール発行の同パンフレット(写真)は、制作日記や豪華な寄稿記事のほか、作品シナリオも掲載されている。鑑賞の機会がある方には購入をお勧めする。

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蕗谷虹児展見学

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先日偶々、かもめ図書館に本を借りに行ったら、告知ポスターで「蕗谷虹児展」が山北町で開催されていることを知りました。よく見れば9日が最終日。
ということで行ってきました。
折りしも山北駅周辺は桜祭りの最中で、珍しく賑やか。
ここの桜は御殿場線の線路沿いに植えられた桜並木でメインで、渡線橋の上には、電車と桜をセットに撮影しようと鉄道ファンやアマチュア写真家が待ち構えていました。
今春、東海道線から退役した湘南電車(緑とオレンジ2色のやつ)も御殿場線ではまだ健在。来年の今頃は鉄道ファンの写真家が増えるかも。(別に私ゃファンとかではないけど、あの車両が消えたのは少しさびしいね)

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蕗谷虹児展は農協・山北支店の建物で行なわれていました。
蕗谷虹児氏は新潟県新発田市の生まれ。竹久夢二を継ぐ抒情画家(作家)の一人として、主に婦人誌の押絵画家として活躍した方。都内で活躍していたが、戦時中に山北に疎開し、戦後暫く住んでいました。
今でも当時のアトリエ兼住宅の建物が個人宅内に残されています。
在住の間、山北高校の校歌や校章のデザインなども手がけていますが、現在、町内外近郊に残る絵画作品は数点のみのようです。
展示の紹介で、虹児氏子息の蕗谷龍生氏が語るところによれば、作品の多くは押絵という性格上、原画よりも印刷物としてのみ残されているものが少なくないのだとか。
今回の展示は、写真資料コピーや借りてきた作品数点を展示する小規模なものでした。
ですが個人蔵の作品などは初めて観るもので、楽しませて頂きました。こういう展示を観たのは数年前に弥生美術館に行って以来のような気がします。
いつか新発田市の蕗谷虹児記念館も訪れたいもの。

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せっかくなので旧アトリエを眺めに寄り道して、疎開当初に寄寓した種徳寺にも足を運んでみました。
駅前商店街は、昭和のレトロな雰囲気が残っていて、それを眺めるのも楽しい。山北町ではこういう雰囲気や、蕗谷虹児関係資料を「町おこし」に生かそうと試行錯誤しているようですが、期待したいもの。

商店街ではツバメがあちこちの店先に巣を架けていました。

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世界考古学会議中間会議

先ほど下のサイトを見た。
http://wacosaka.jp/index.html

これは報道でも発表されたが、先日12日から15日の4日間、世界考古学会議(WAC)の中間会議が大阪で開催されたものである。各国からおよそ400人の参加登録、全体と通しては約1000人の意見交換がなされた。
テーマは「共生の考古学」として、異なる民族や文化などの地域や人々を交えた場合の、考古学的立場と共存はどう模索すべきかなどが話し合われた。
海外とくに複数の異民族が入れ替わった歴史を重ねる地域などにおいては、差別問題や埋蔵文化財に対する扱い方などでもトラブルが起こる事が少なくないようである。特に地域で長年、信仰のより所だった場所や忌避されてきた土地などでは、他所からの調査団に対して神経質に見られがちである。これが、少数民族や先住民族の場所だったりすると、現代のナショナリズム的な感情に結びつく危険さえもはらんでいる。
そうした問題に対しても、考古学者は「私は調査の担当だから。苦情は発掘本部にお願いします」ではなく、現場や会議の場で、積極的に解決にあたらなければならないと、スタンフォード大のイアン・ホダー氏は基調講演で述べられた。

日本ではそうした問題はなかなか聞かないが、それは情報が開示されにくいという事にもある。
それでも、最近でもないことはない。

現に最近の小田原城の三の丸整備事業のなかでも、「あの松を伐採してはならない」という意見があったと聞く。これが以前あった野鳥保護団体の意見とは別だとしたら、もしかしたら地域の古老のような方だったのかもしれない。どこでもあるような話ではあるが、小田原城でも「あの松を切ったらお家(藩)が滅びる」とか「城の修復をすると災害が起こる」などという話が伝わっていたように記憶する。それは多分、稲葉時代に小田原城の改修にあたって、北条氏康が植えた松の老樹を切り倒した後、小田原地震が起こったという話だったと思う。それで、残りは伐採しないで今も一本だけ生き残っている訳ではあるが(本丸動物園のゾウ舎の隣にある)、やはり大地震が心配される昨今、迷信であっても多少不安になってしまうのが人間であろう。
私の祖父も、昔かたぎの大工だったので普請や土木の移動などに関しては、暦や方角などにとても神経質である。だから気持ちは分かる。
後日、広報紙の後の方に数行「ご意見に対して」として、伐採の理由と工事の安全性が回答されていたが、もう少し親しみある対応ができなかったかと思う。他の文化財と比べて、小田原城は市民にとって故郷のシンボルでもあり誇りでもある。であるなら、単なる工事事業みたいな発表ではなく、駅や公共の場などに「ふるさとのシンボル小田原城を皆で生き返らせましょう!」みたいなポスターはるなどした方が、安心感ばかりか期待感も共有できるではないだろうか。

それでも、こういう観光地としての文化財はまだ情報が開示されている方である。
そのほかの史跡指定されていない埋蔵文化財などに関しては、特別何か大きな発見でもない限り、どこで何が調査されているのかも殆ど公表されない。一応、行政や委託業者の公式サイトや報告書などがあるので、オフィシャルには情報開示なされているのではあるが、実際には後日の記録発表であり、調査段階では近所の人もあまり知らなかったというのが現状である。
実は発掘調査の殆どは開発に伴う記録調査であり、いずれ一部損壊もしくは全壊されるものが多いのである。それでも、戦後の高度成長期には、開発最優先で相当数が調査もされずに破壊されたのであるから、進歩したといえるのではあるが、現状をよしとすべきではない。
日本では調査を発注する自治体の長が土建屋というのが確かに多いと思う。その監視下で働く教育委員会の職員や発掘業者は、やはり積極的に事業の延期や中止を求めることは辛い場合もあるのかもしれない。であるから、発掘中に声かければ快く見せてくれる人も多いし、埋め戻し前に「こんなの出たんですよ」と教えてくれる人も少なくない。(その一方で、開発事業に対する意見の対応や調査内容が発表前に漏れる事を過度に神経質になる人も全くいないわけではない。その辺は歴史ファンのマナーも共に考えていくべきである)
発掘調査の内容発表も、自治体によっては積極的に行なっていたり、データベースが公開されているところもある。初心者に分かりやすい説明の工夫をしているところもある。
だから、出来る範囲ではかなり頑張っていると思うのだが、やはり日陰の努力に見えてしまう。

話が大きくずれてしまったが、要は日本の考古学界のやや閉鎖的な姿勢を変えていく時が来ているということ。
WAC会長のクレア・スミス(豪・フリンダース大学準教授)は、日本の考古学界の成果と方法の優秀さを評価しているものの、その実態が海外に殆ど知られていない事を惜しんでいる。
日本という国柄は、国内の下からの声よりも海外からの声には反応しやすいところがあると思う。そういう点を生かして、国外に日本の考古学界の活動と文化財保護に関する情報を発信していくべきだ。海外からの視線が集まってくれば、日本の文化財保護意識の向上やトラストの発展にもつながるだろう。

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三信ビルの保存利用を求む

日比谷に三信ビル(さんしんびる)という昭和建築がある。
三井不動産(株)が所有するクラシックなビルだが、昨年この建物の解体が発表されて以来、保存を求める声が上がり続けている。
まずは以下の保存運動をしているサイトをご覧頂きたい。
http://www.citta-materia.org/sanshin.php

建築様式は何というのか自分にはイマイチ分からないのだが、昭和5年(1930)に建てられた事務所ビルである。角を取った曲線的スタイル、アール・デコ的な窓の形などから、当時の先端デザインを見る事が出来る。ちょっと見、アンタッチャブルやディック・トレイシーなんかで見るような建物ではある。しかしデザインなら、内装の方。吹き抜けのアーケードやエレベーターホールなどは、確かに一見の価値がありそうだ。

「・・ありそうだ」というのは、実は自分もまだ実物を見ていないから。場所的に目の前を通過したことはあるずだが、特に関心を払ってこなかった。建築の本などで内装の写真はよく目にしていたが、私の中でこの建物とは結びついていなかった。最近、このような運命に見舞われていると知って検索したところ、ようやくこのビルが例の写真のビルだと分かったのである。

率直に勿体無い。
確かにこのような一等地で不便な建物ではあろう。しかし、何でも打算的に考えるのも貧相な考えだ。
利益には結びついてないにせよ、皇居周辺や日比谷の落ち着いた景観形成には役立っているではないか。
上のサイトでも提言されているが、このアンティークを有効活用するアイデアはまだまだ考えられるはずだ。
署名を集めているようなので、私もサイト熟読の上、検討したいと思っている。

個人情報が色々と取りざたされる昨今、この場で当ブログ訪問者の方々に署名云々は言わないが、まずはこういう建物があって壊される可能性がある、ということを知っていただきたい。

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