文化・芸術

死者の書

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昨日、久しぶりに鎌倉へ。約半年ぶりだったろうか。
ホームから改札に向かう地下通路(旧通路)が、旧小田原駅や国府津駅の通路を思わせて懐かしい。
改札口でミク友にもなっている将軍太郎さんと待ち合わせ、生涯学習ホールへと向かった。
土曜とはいえ、午前9時半の若宮大路はまだ通る車も少なく、名の通り広々と感じさせた。

今回鎌倉へ来たのは、人形劇映画『死者の書』鑑賞のためである。
NHK人形劇『三国志』や『平家物語』等で良く知られる川本喜八郎氏の監督・脚本になる人形アニメーション映画で、原作は折口信夫著『死者の書』である。
http://www.kihachiro.com/
あらすじは上の公式サイトか、アマゾンなどで原作の紹介をご覧ありたい。
声の出演者も豪華ながら、人形の表情の豊かさ、時代考証が反映されたセット(人形スケールの)の豪華さ、衣装の美しさ、動きの細やかさに大変驚かされた。築地塀の版築工事の風景や、鳴弦と足踏みの悪霊祓いなど、歴史好きにも再現映像を観るように楽しめる。私が気に入ったのは、最後のシーンもさることながら、主人公の藤原南家郎女が大津皇子に導かれて二上山の当麻寺に出奔するシーンである。風雨の中を歩くひたむきな姿が風に吹きさられる髪や衣の動きなどで、本当によくできていた。表情に乏しいはずの人形でも色々と表現できるのだと、改めて思わせられた。ただ、幻に出てくる阿弥陀如来(大津皇子)の顔が、今観ている『平家物語』の平清盛や弁慶(たしか共に声は風間杜夫)の顔にちょっと似ているので、ちょっと肝心な所でにやけてしまった。

実のところ、私は川本氏の作品のファンだったわけでも、文楽好きだったわけでもない。
ただ、つい最近、CSの時代劇専門チャンネルで再放送が開始された『平家物語』を見始めたところ、その演出表現の見事さに感動し、放送以来今も毎話ビデオに録画するようになってしまった。それで、ネットで氏のことを検索したところ、最近『死者の書』という作品が完成し、各地で公開されているのを知った由である。題からして内容にも興味を感じ、上のサイトを見たところ、どうやら原作は「当麻曼荼羅縁起」をモデルにした作品ということで、二重に興味をそそられた。同縁起は、今年の3月に我が祖父が永眠した後、幾つか読んだ死後観(スピリチュアル)や仏教の本の一つであり、内容も記憶に新しかった。(私が読んだのは、中公の『当麻曼荼羅縁起・稚児観音縁起』だが、大型本ならではで絵巻が美しいし、解説も文章も平易に下されているので、まるで紙芝居のように楽しめた。同作品に限らず、この絵巻シリーズは大変気に入っている)

また、本編が始まる前の序章『ひさかたの天二上』も興味深い。本編の作品世界を補完というか分かりやすくする形の前説なのだが、当時の都から見て、日が昇る三輪山と日が沈む二上山へ投影された異界観などが美しい実写映像で説明がされていた。西陽の落ちる二上山は死者の郷であり、山越阿弥陀図の山は、ここではまさに二上山になっていた。
私は当麻寺どころか、奈良観光も未だろくにしたことが無いのであるが、陽の沈む山に異界や阿弥陀の世界を感じる心は分かっているように思う。私が現在住んでいる小田原郊外の農村地帯からは、夕方になると、季節にもよるが、箱根の山に陽が沈んでいく。その時の空の赤さと連山の黒い巨体のコントラストは、大変印象的である。そして、陽が沈みきる直前の空の赤や紫のグラデーションと、稜線から溢れる光彩からは、山越え阿弥陀を想像することもできる。
中世に箱根が亡者の山として地蔵信仰の場所となりえたのは、多分に火山性の荒涼とした自然環境に拠る所も多いが、おそらく山越阿弥陀のような景観をそこに視る人も居たのではないかと信じている。

つい横道に逸れてしまったが、序章・本編ともに久々の大作を観た思いがした。DVD化するならば、また是非じっくり観たい作品である。

今回の鎌倉上映を主催したのは、「鎌倉で映画と共に歩む会」。どうやら小規模な団体のようだが、このような機会を設けてくれた事に感謝したい。上映前の挨拶では、希望者はチケットを持参すれば夕方の回(上映はこの日のみ)でも鑑賞可能との旨お話され、なかなか嬉しい企画であったが、この後の史跡観光などで疲れてしまったので、買いそびれたパンフレットを購入しに寄るに止めたのであった。

ちなみに、岩波ホール発行の同パンフレット(写真)は、制作日記や豪華な寄稿記事のほか、作品シナリオも掲載されている。鑑賞の機会がある方には購入をお勧めする。

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懐かしき大松明

先の日記に書いたとおり、今日はBKを食べに座間キャンプに行くつもりでしたが、急遽取り止めにしました。
(こいこいさん、情報提供ありがとうございました)
実は午後の激しい雷雨のため、一時、小田原ー新松田間の小田急がストップ。ちょうどタイミングよく(?)小田原駅に居た私ですが、湿気の不快さと運行の再開を待つ面倒さに、帰って来てしまったのでした。
そして、家で先ほどまで『男はつらいよ』を観ていたところです。
BKは来年のさくら祭りの時に期待します。

さて、実は小田原でも今日はイベントがありました。
花火です。
小田原市の花火大会は10年くらい前からでしたか。恒例の御幸ヶ浜の浜辺から移って、酒匂川の河川敷で行なうようになっております。
しかしその後も、地元の企業などが主催に、独自の花火大会を浜辺で継続しております。その為、ひと夏に2度、市内で花火大会があるのですが、以前は年末だったり、文化の日だったりと定まらずでした。
で、最近ようやく定まったのかどうか。気にしていなかったので分かりませんが、ともかく今年は8月12日です。

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実はこの日、かつては「大松明(おおたいまつ)」という行事が御幸ヶ浜で行なわれていました。(写真は昔の観光チラシより)
幾つもの竹を束ねた、高さ約15m・直径1m(県観光協会資料による)の大松明に火を灯し、砂浜に立てるというもの。
これは、海難水死者の冥福祈願と魚介類の供養を目的とした行事で、砂浜では僧侶たちが経を読み、人々は松明の周りの砂浜に線香を立てるのです。
サンダル履きでいて、大松明の火に気を取られているうちに、ついうっかり線香を踏んでしまったり。
火傷の痛みも、今となっては夏の夜の懐かしい思い出です。

この行事は今世紀に入るか入らないかの頃を最後に、中止されたままとなっております。理由は保安上の都合ということですが、詳細は存じません。火の粉が住宅に飛ぶからか、それとも西湘バイパスに行くからなのか・・・。それとも、海岸浸食が進んで充分なスペース(砂浜)が確保できなくなったためかもしれません。
まあ、ともかく、この12日にあえて花火大会を持ってきたのは、主催者側にも大松明の復活を願う心があるのではないかと期待するのであります。


さて、花火の話題が出たのでもう一つネタを。
日本で最初の花火といえば、天正17年(1589)に伊達政宗が鑑賞したのが最初とか、慶長18年(1613)に英国王室使者が駿府の徳川家康に見せた(同行の中国人による)のが、記録上に見える始まりと言われているようです。
ですが、鉄砲の伝来に伴って、中国からの火薬輸入が頻繁に行なわれるようになっていますので、花火(後世の観賞用とは大きくかけ離れていますが)も戦国時代にはすでに伝えられていたのではないでしょうか。

公文書のような1級史料ではありませんが、江戸前期にまとめられたとされる軍記物『北条記』にも、そんな戦国時代の花火を伺わせる記述があります。
『北条史料集』(人物往来社)所収の『北条記』巻第五の八「佐竹対陣之事」では、天正13年(1585)4月下旬、小田原の北条氏政と常陸の佐竹義重の軍勢が、野州藤岡(現・栃木県藤岡町)で対陣したところ、足元が湿地で大した合戦にもならず、ついには100か日の長陣となり、結局、和議になったとあります。このとき、力持て余す若侍や兵たちは、陣場に馬場を作って乗馬をしたり、花火を敵陣に“焼き立て”たりなどして気を紛らわしたとか。
“打ち上げる”のではなく、焼き立てるとありますが、これなどは当時の花火の特徴をよく伝えているような気がします。
私も良く分かりませんが、初期の花火は、筒先から火の粉を噴水のように噴出すような種類だったようなのです。
今でも、大道芸人が口から花火を吐いたりする芸がありますが、あれと同じようなタイプ、もしくは現在の家庭用手持ち花火の原始的なタイプかもしれません。

この記述にあるような合戦が実際にあったかどうかは、私自身なんとも分かりませんが、史実と比較すると、この翌年、天正14年頃の戦況と似ているような気もします。

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お盆(13~16日)

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W杯も終って、なんだか腑抜けた状態です。
で、大したネタもなかったのですが、一応季節ネタにお盆を。
今年は新盆ということもあり、色々と祖母の家に準備の手伝いに行ってました。
墓石も今までに無いほど気合入れて、磨き清めてまいりました。炎天下でさすがにバテましたが、なんとなく気持ちがスッキリしますね。

その後、仏壇のお盆飾りを。
お盆飾りは地方それぞれに多少の違いがあると思いますが、小田原では、仏壇の扉上に青竹を載せ(ここまでは共通ですが)、その上に稲・栗・芋・柿・枝豆の葉をかけます。
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これを「あーぼー、へーぼー」と呼ぶのですが、意味は分かりません。もしかしたら祖父に聞けば分かったかもしれないのですが、祖父が存命ならそもそも準備を手伝うことも無く、好奇心も湧かなかったわけで・・・。でも、いずれも身が成る植物ってところに意味があるのかも、と思ってます。
(ちなみに、「小田原、お盆飾り」で検索したら去年の自分のブログくらいしかヒットしませんでした(笑))
あとは、ほうずきにワラ馬などと殆ど同じです。

でも、おがらで迎え火をするお宅も最近は少なくなりました。

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15・16日には叔父の子ども達(小6と小2)が来ていて、八王子の方の子ども達なので、海やプールに行きたがってました。
でも却下。
かわいそうだけど、お盆の時期は海に行くもんではないと聞きますし。16日は閻魔さんの縁日(つまりお休み)で、この日には地獄の亡者が解放されると言うんですよね。だから「引き込まれるよ」と。
それに、16日はお盆飾りを海に流す日で、あまり気味の良いものではないでしょう。ま、今は浜に穴掘ってお焚き上げしちゃってますが。

最近は、温暖化の影響なんかもあって、結構早めの海開きが増えてますけど、こういう風習的なことも知ってて悪くないと思います。怪談のネタにもなりますしね。

余談ですが、鎌倉なんかの浜は、海水浴場が繁盛している一方で、今でも8月盆の16日に閻魔参りが円応寺なんかでちゃんと行なわれています。
この辺が鎌倉らしいギャップと云えなくもない。(まあ別に鎌倉だけではないんだけど、しっかりとお寺の行事をやってるのも鎌倉ならではですから)
あと実は、鎌倉の浜は中世の公共墓域であったので、結構人骨が埋まっているのですよ。(約五千体ほどが今までに発掘されたと云われます)
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/430_3.html
由比ガ浜は極楽寺が支配していたこともあって、墓域的な性格も強かったのでしょうね。
でも、鎌倉時代も半ば以降になって、鎌倉の人口が増えてくると、こうした墓地の上にまで居住区画が広がっているようです。
今の海水浴場の砂浜の下はどうなってるか分かりませんが、ときどき、砂中に骨片や陶磁器片(骨壷など)といった、当時の葬事遺物が混じっていることがあるそうです。
これも、歴史ある鎌倉ならではの楽しみの一つでしょうかね。
怪談ネタにも事欠きそうにありません(笑)。

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世界考古学会議中間会議

先ほど下のサイトを見た。
http://wacosaka.jp/index.html

これは報道でも発表されたが、先日12日から15日の4日間、世界考古学会議(WAC)の中間会議が大阪で開催されたものである。各国からおよそ400人の参加登録、全体と通しては約1000人の意見交換がなされた。
テーマは「共生の考古学」として、異なる民族や文化などの地域や人々を交えた場合の、考古学的立場と共存はどう模索すべきかなどが話し合われた。
海外とくに複数の異民族が入れ替わった歴史を重ねる地域などにおいては、差別問題や埋蔵文化財に対する扱い方などでもトラブルが起こる事が少なくないようである。特に地域で長年、信仰のより所だった場所や忌避されてきた土地などでは、他所からの調査団に対して神経質に見られがちである。これが、少数民族や先住民族の場所だったりすると、現代のナショナリズム的な感情に結びつく危険さえもはらんでいる。
そうした問題に対しても、考古学者は「私は調査の担当だから。苦情は発掘本部にお願いします」ではなく、現場や会議の場で、積極的に解決にあたらなければならないと、スタンフォード大のイアン・ホダー氏は基調講演で述べられた。

日本ではそうした問題はなかなか聞かないが、それは情報が開示されにくいという事にもある。
それでも、最近でもないことはない。

現に最近の小田原城の三の丸整備事業のなかでも、「あの松を伐採してはならない」という意見があったと聞く。これが以前あった野鳥保護団体の意見とは別だとしたら、もしかしたら地域の古老のような方だったのかもしれない。どこでもあるような話ではあるが、小田原城でも「あの松を切ったらお家(藩)が滅びる」とか「城の修復をすると災害が起こる」などという話が伝わっていたように記憶する。それは多分、稲葉時代に小田原城の改修にあたって、北条氏康が植えた松の老樹を切り倒した後、小田原地震が起こったという話だったと思う。それで、残りは伐採しないで今も一本だけ生き残っている訳ではあるが(本丸動物園のゾウ舎の隣にある)、やはり大地震が心配される昨今、迷信であっても多少不安になってしまうのが人間であろう。
私の祖父も、昔かたぎの大工だったので普請や土木の移動などに関しては、暦や方角などにとても神経質である。だから気持ちは分かる。
後日、広報紙の後の方に数行「ご意見に対して」として、伐採の理由と工事の安全性が回答されていたが、もう少し親しみある対応ができなかったかと思う。他の文化財と比べて、小田原城は市民にとって故郷のシンボルでもあり誇りでもある。であるなら、単なる工事事業みたいな発表ではなく、駅や公共の場などに「ふるさとのシンボル小田原城を皆で生き返らせましょう!」みたいなポスターはるなどした方が、安心感ばかりか期待感も共有できるではないだろうか。

それでも、こういう観光地としての文化財はまだ情報が開示されている方である。
そのほかの史跡指定されていない埋蔵文化財などに関しては、特別何か大きな発見でもない限り、どこで何が調査されているのかも殆ど公表されない。一応、行政や委託業者の公式サイトや報告書などがあるので、オフィシャルには情報開示なされているのではあるが、実際には後日の記録発表であり、調査段階では近所の人もあまり知らなかったというのが現状である。
実は発掘調査の殆どは開発に伴う記録調査であり、いずれ一部損壊もしくは全壊されるものが多いのである。それでも、戦後の高度成長期には、開発最優先で相当数が調査もされずに破壊されたのであるから、進歩したといえるのではあるが、現状をよしとすべきではない。
日本では調査を発注する自治体の長が土建屋というのが確かに多いと思う。その監視下で働く教育委員会の職員や発掘業者は、やはり積極的に事業の延期や中止を求めることは辛い場合もあるのかもしれない。であるから、発掘中に声かければ快く見せてくれる人も多いし、埋め戻し前に「こんなの出たんですよ」と教えてくれる人も少なくない。(その一方で、開発事業に対する意見の対応や調査内容が発表前に漏れる事を過度に神経質になる人も全くいないわけではない。その辺は歴史ファンのマナーも共に考えていくべきである)
発掘調査の内容発表も、自治体によっては積極的に行なっていたり、データベースが公開されているところもある。初心者に分かりやすい説明の工夫をしているところもある。
だから、出来る範囲ではかなり頑張っていると思うのだが、やはり日陰の努力に見えてしまう。

話が大きくずれてしまったが、要は日本の考古学界のやや閉鎖的な姿勢を変えていく時が来ているということ。
WAC会長のクレア・スミス(豪・フリンダース大学準教授)は、日本の考古学界の成果と方法の優秀さを評価しているものの、その実態が海外に殆ど知られていない事を惜しんでいる。
日本という国柄は、国内の下からの声よりも海外からの声には反応しやすいところがあると思う。そういう点を生かして、国外に日本の考古学界の活動と文化財保護に関する情報を発信していくべきだ。海外からの視線が集まってくれば、日本の文化財保護意識の向上やトラストの発展にもつながるだろう。

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三信ビルの保存利用を求む

日比谷に三信ビル(さんしんびる)という昭和建築がある。
三井不動産(株)が所有するクラシックなビルだが、昨年この建物の解体が発表されて以来、保存を求める声が上がり続けている。
まずは以下の保存運動をしているサイトをご覧頂きたい。
http://www.citta-materia.org/sanshin.php

建築様式は何というのか自分にはイマイチ分からないのだが、昭和5年(1930)に建てられた事務所ビルである。角を取った曲線的スタイル、アール・デコ的な窓の形などから、当時の先端デザインを見る事が出来る。ちょっと見、アンタッチャブルやディック・トレイシーなんかで見るような建物ではある。しかしデザインなら、内装の方。吹き抜けのアーケードやエレベーターホールなどは、確かに一見の価値がありそうだ。

「・・ありそうだ」というのは、実は自分もまだ実物を見ていないから。場所的に目の前を通過したことはあるずだが、特に関心を払ってこなかった。建築の本などで内装の写真はよく目にしていたが、私の中でこの建物とは結びついていなかった。最近、このような運命に見舞われていると知って検索したところ、ようやくこのビルが例の写真のビルだと分かったのである。

率直に勿体無い。
確かにこのような一等地で不便な建物ではあろう。しかし、何でも打算的に考えるのも貧相な考えだ。
利益には結びついてないにせよ、皇居周辺や日比谷の落ち着いた景観形成には役立っているではないか。
上のサイトでも提言されているが、このアンティークを有効活用するアイデアはまだまだ考えられるはずだ。
署名を集めているようなので、私もサイト熟読の上、検討したいと思っている。

個人情報が色々と取りざたされる昨今、この場で当ブログ訪問者の方々に署名云々は言わないが、まずはこういう建物があって壊される可能性がある、ということを知っていただきたい。

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石垣山採石遺跡見学

10日ほど前だったか、もう少し前だったか。石垣山の北、関白沢沿いで、石垣用石材の採石遺跡が見つかったと連絡があった。以前から行なわれていた道路拡張工事だが、その道路の間近で、切り出した石を運ぶ道跡や廃棄された石(いわゆる残念石の類)などが露わになったのだという。残念ながら、すでに工事により一部が破壊されており、行政による遺構の一般公開や保存などは予定されていないとの事。
とまあ、そういうことなので、急遽、同遺跡の見学会が催されたのであった。

私はk氏をお誘いして参加。見学会は午後1時からである。
この辺りを歩くのは数年ぶりなので、私たちは先に風祭界隈をぶらぶらしてから集合場所へ行く事にした。
私はこの風祭の雰囲気がなかなか好きである。
木造のちいちゃくてレトロな駅。
旧東海道のおもかげと、そこから正面に見える富士山(ふじやま)。
路地裏や脇を流れる水路(ホタルが見える箇所もある)。
点在する石仏群(このあたりは古くから石工が住んでおり、伊豆系・甲州系・関東系の石仏文化が混在するポイントでもあるのです。あちこちに点在する石仏は味わい深いものが多い)
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そのほか旧傷痍軍人箱根療養所(現・国立療養所箱根病院)の洋風木造建築など、道沿いのどこか懐かしい光景は散歩していて飽きない。
今までこの旧道は、渋滞する国道1号線の伏線として車の往来も忙しかったが、今年になり小田原厚木道路と箱根新道が接続されたので、かなり改善されたのではないだろうか。

紹太寺大門跡を横目にもう2、3分ほど歩くと、入生田駅である。
ここで今日の見学会一行と合流した。
予想していたよりもかなり大所帯である。
例の如く高齢者が多いようだが、それでもこういう遺跡に興味と関心がある人が大勢いるというのは嬉しいものだ。
地球博物館横の道から早川沿いに進み、太閤橋を渡る。
この道も最近までなかったはずだが、いつのまにか立派な道が開通していた。
河川敷沿いには確か、くず鉄屋のような小集落があって、廃車がたくさん置いてあったのだが、それも綺麗さっぱりなくなっていた。
太閤橋は、石垣山北の「太閤沢」という涸れ沢が早川に合流する地点にかかっている。
そして、この沢沿いのミカン農道を拡張造成する工事が現在行なわれている。もしや、入生田から石橋方面に抜ける道を計画しているのかも。
まあ、それはそれで便利になるし、一夜城遺跡の観光客も少しは増えるかもしれない。だけど、それで歴史遺構がまた一つこの世から消えていくのは皮肉なものではある。

さて、採石遺跡というのは、この農道を登ったところである。
すでに道沿いには廃棄された石垣石が置かれて、簡単な説明板が設けられている(これは大分前からあったけど)。
その道が大きくカーブしようとするところに、石曳き道の跡が見つかったのであった。
石材を修羅で降ろした直線的な道で、ここから早川沿いに降ろして海岸方面に運んだのだろうと思われるが、道跡が良く残っている。旧農道はこれに併行するように出来ているから、この石曳き道も長らく使用されていたのではなかろうか。
すでに多くは、新旧の農道によって大消滅していたが、このカーブの内側と外側にはまだ僅かに残っている。
願わくはこの一部分だけでも、保存して説明板の一つでも設置していただきたいものである。
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また、この付近には切り出し途中で放棄された石や、運搬中に転落して放棄された石垣石が数多く点在する。
大名などが担当する帖場の境界を示す刻印なども明瞭に残っているが、それらの石は比較的縦のラインで並んでいるので、標示石として意図的に残されていたものかもしれない。

さて、せっかく一般向けの道路が開通するのなら、ついでにこうした遺物も大事にしてもらいたいものである。
ただ、お役所のセンスで変に整備しすぎると却って原風景を損なう恐れがあるので、ごく普通のハイキングコースと説明板を設置するだけで良いと思う。幸い、刻印石が点在するあたりは新道路とかぶらない場所だ。

ちなみにこれら採石遺跡は、豊臣秀吉築城の一夜城には、直接関わるものではない。
あの時代は基本的に自然石を効果的に積み上げた「野面積(のづらつみ)」石垣であって、現在の一夜城遺構からもノミ穴などは殆ど見られない。積み上げの為の加工などは多少あったとは思うが。
ただ、もともと石材が豊富な山であったのは事実である。現に、この山地の海側一帯は小松石や真鶴石に代表される高級石材の産地である。
ということで、切り出し石は江戸築城に際して用いられたものなのであった。
後世の「石垣山」という名称も、城跡のみならず、こうした大事業があったからこそ名付けられたのであろう。

見学会は数時間で終了したが、私とk氏は城址を見学してから山を下った。

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秋の文化財行事

先月あたりから文化財行事がいろいろ行なわれています。小田原市でも今週から始まりますが、そのほかに近隣のメジャーなところをピックアップしてみました。中世関連のものばかりですが、行楽の参考になれば幸いです。

○特別公開・展示など
◆早雲寺「寺宝と襖絵」特別公開
 
内容: 国重文の北条早雲像・氏綱像・氏康像を中心に、北条五代画像(土佐光起筆)、方丈襖絵などの特別公開。
場所:早雲寺(神奈川県足柄下郡箱根町湯本4―5)
交通:小田急線・箱根登山線 箱根湯本駅から徒歩15分、または駅から箱根登山バス畑宿経由元箱根港行き「早雲公園」下車
開催:11月4日(金)~6日(日) 9:00~16:00
拝観料:500円(茶室拝観は別途500円)

建長寺・円覚寺 宝物風入れ、(円覚寺)舎利殿公開
内容: 寺収蔵の文化財を、虫干しを兼ねて展示。円覚寺舎利殿(国宝)の正面外観の公開。今年は4日間の公開。
場所:建長寺(鎌倉市山ノ内8)、円覚寺(鎌倉市山ノ内409)
交通:JR横須賀線 北鎌倉駅より徒歩
開催:11月3日(木)~6日(日) 9:00~16:00
拝観料:ともに特別拝観料として500円(一般入場料、建長寺300円・円覚寺200円が別途必要)

臨済寺の一般公開 
内容: 今川氏の時代から知られ、徳川家康が幼少のとき文武を学んだ臨済寺(りんざいじ)の一般公開(毎年春秋の2日間のみ)。国重文の本堂、国名勝の庭園、県指定有形文化財の数々を公開。今川氏輝・義元・太原雪斎の像や今川・武田・徳川各氏の文書などもある。墓域には今川氏輝、雪斎、中村一氏の墓がある。
場所:臨済寺 (静岡市葵区大岩町7-1)
交通:JR東海道線 静岡駅から安東循環線水落町廻りバス15分・臨済寺前下車
開催:11月5日(土)・6日(日)10:00~16:00
拝観料:300円(志納金として)

宝金剛寺の一般公開
内容: 多くの文化財を所蔵する小田原市東部の古刹、宝金剛寺。戦国時代には「国府津の護摩堂」として北条氏の厚い保護を受けた寺の宝物などを公開。本尊の地蔵菩薩立像は藤原時代の作(県重文)。寺宝の銅造大日如来坐像(国重文)、不動明王および二童子立像(県重文)は鎌倉時代の優作。
場所:宝金剛寺(小田原市国府津2038)
交通:JR東海道線 国府津駅から徒歩、もしくは富士急バス下曽我駅行き「岡石橋」下車
開催:11月19日(土)・20日(日) 10:00~15:00
拝観無料(問い合わせ 小田原市教育委員会 生涯学習部 文化財課 電話0465-33-1717)

石神井城址主郭の特別公開
内容: 武蔵野三大湧水池の一つ、かつては石神井川源流だった三宝寺池。その南側台地の石神井城跡は、中世にこのあたりを支配していた豊島氏の城跡。太田道灌により1477年に落城したが、主郭と考えられる部分には、土塁や堀がよく残されている。現在は遺構保護のため、主郭への一般立ち入りは制限されている。
場所:都立石神井公園内(石神井台1丁目)
交通:西武池袋線 石神井公園駅下車 徒歩10分
開催:11月3日(木)~13日(日) 9:30~16:30

江川邸中庭の公開
内容: 毎年紅葉の時期に限定開催される、江川邸中庭の特別公開。
場所:江川邸(静岡県伊豆の国市韮山韮山1、電話055-940-2200)
交通:伊豆箱根鉄道 韮山駅より徒歩20分
開催:11月26(土)~12月4日(日)  9:30~15:30(開館は9:00から、水曜休館)
入場料:300円(一般料金で見学可)

かながわの遺跡展・巡回展「武家の古都・鎌倉-発掘された中世の世界」
内容: 今年度は鎌倉を中心としつつ、県内各地の資料と対比して、中世前期に焦点を当てた展示。
場所:①鎌倉生涯学習センター ②鎌倉芸術館 ③秦野市立桜土手古墳展示館
開催:①11月13日(日)まで ②11月16日(水)~27日(日)※24日(木)は休館 ③12月1日(日)~18日(日)※5日(月)・12日(月)は休館 (いずれも9:00~17:00の公開)
入場無料(問い合わせ(財)かながわ考古学財団資料活用課・電話045-252-8661)

江戸城を建てる ―重文甲良家の図面を読む
内容: 都立図書館・都公文書館・江戸東京博物館の3機関による共同開催で、昨年に続いて2回目。今回は、都立中央図書館が所蔵する国重文「江戸城造営関係資料(甲良家-こうらけ-伝来)」の修復完了を記念して、江戸城建築図面類を中心に展示。江戸幕府の大棟梁職を代々勤めた甲良家に伝わったもの。これらの図面類を縦糸に、錦絵や大型模型、江戸の町触、幕府目付の文書、明治初年の写真や公文書など、多彩な資料を横糸にして、江戸城を再現する。展示予定、「御本丸御玄関遠侍建地割五十分ノ一」「江戸御城御殿守横面之図」「江戸城大広間立体模型」(縮尺約1/40、昭和女子大学所蔵)など。
場所:東京都立中央図書館 4階 多目的ホール(東京都港区南麻布5-7-13 有栖川宮記念公園内、電話03-3442-8451)
交通:営団地下鉄日比谷線 広尾駅より徒歩8分
開催:11月19日(土)まで 10:00~17:00 ※11月10日(木)は休館日
※ 期間中、13・19日の15:30~16:00に係員による展示解説あり。入場無料

鉢形城歴史館 秋季企画展「戦国の装い ―伊澤コレクションを中心に―」
内容: 甲冑研究家で収集家でもある伊澤昭二氏のコレクションの一部と、寄居町内の平泉家に伝わる具足など17点の展示。北条鱗紋付きの黒漆塗十二間筋兜や、小田原北条家の備具足とされる黒漆塗二枚仏胴(古紙を幾重にも漆で塗り固めたもの)など。
場所:鉢形城歴史館(寄居町大字鉢形2496番地2、電話048-586-0315)
交通:JR八高線・秩父鉄道線・東武東上線寄居駅下車 徒歩約25分、もしくは東秩父村営バス寄居駅発・和紙の里行き「木持停留所」下車 徒歩5分
開催:11月23日(水)まで 9:30~16:30(月曜・祝日の翌日は休館)
入館料:200円

佐野市開市記念・第44回企画展「佐野の歩み―佐野地方の古代から中世へ―」
内容: 奈良時代の「安蘇郡の成立」から、平安時代の「佐野庄の成立」、そして鎌倉時代から戦国時代までの「佐野氏」とその一族の栄枯盛衰を概観し、佐野地方の古代から中世までの歴史を紹介する。おもな展示資料に「佐野昌綱画像」「佐野昌綱書状」「佐野(北条)氏忠朱印状」など。
場所:佐野市郷土博物館 企画展示室(佐野市大橋町2047、電話0283-22-5111)
交通:JR両毛線・東武佐野線 佐野駅下車徒歩20分
開催: 11月27日(日)まで 9:00~16:30(月曜・祝日休館)
入場料:210円

第33回特別展政令指定都市移行記念「黄金の谷の輝き~『安部の金山』の歴史と伝承~」
内容: 静岡の山間地域が「安部金山(あべのかなやま)」として輝いていた歴史を振り返り、金山の果たした歴史的意義を考える。主な展示資料として、古文書、絵図、砂金採り道具、金鉱石、など約200点
場所:静岡市立登呂博物館(静岡市登呂五丁目10-5、電話054-285-0476)
交通:JR静岡駅から登呂線バス20分・登呂遺跡下車
開催:11月30日(木)まで(開館9:00~16:30、毎月曜・祝日の翌日休み)
入場料:300円(特別展料金)

掛川考古展 「城」―高天神城・横須賀城・掛川城―
内容: 掛川市(今年4月に旧掛川市・旧大東町・旧大須賀町が合併)にある高天神城跡・横須賀城跡・掛川城跡、3つの城跡の沿革・特徴について、出土遺物や調査時の写真などを展示・紹介する。
場所:大日本報徳社淡山翁記念報徳図書館 2階 (掛川市掛川1176)
交通:JR東海道線 掛川駅から徒歩10分 
開催:11月13日(日)まで 10:00~16:00 会期中は7日が休館日
入場無料(問い合わせ:掛川市教育委員会 教育文化課 文化財係 電話0537-21-1158)

◆小展示「伊豆山出土の中世土器」と「奥州藤原氏の遺宝―中尊寺経の公開―」
内容: 伊豆山地区(古美道遺跡・寺山遺跡)から出土した資料のほか、伊豆山と関連が深い「史跡北条氏邸跡」(伊豆の国市)、「箱根神社境内」(箱根町)から出土した「伊豆の白色かわらけ」を展示。また、「しずおか文化財ウィーク」協賛事業として静岡県指定文化財「紺紙金銀字交書仏説無所希望経」を展示する。
場所:熱海市伊豆山郷土資料館(熱海市伊豆山708-2 伊豆山神社境内、電話0557-80-4252)
交通:JR東海道線 熱海駅より 伊豆山神社線バス約10分「伊豆山神社前」下車
開催:「伊豆山出土の中世土器」12月頃中頃まで 
    「奥州藤原氏の遺宝―中尊寺経の公開―」11月13日(日)まで 開館 9:00~16:00(15:30締切)月曜・祝日の翌日休館
入館料:150円
(問い合わせ:教育委員会事務局 生涯学習課 社会教育係 電話0557-86-6572)


○講演・発表会など
◆平成17年度小田原市遺跡調査発表会

内容: 大規模な障子堀が発掘され話題となった小田原城三の丸元蔵堀など、平成16年度に実施された発掘調査について、スライド等を使用して成果を発表する。
場所:市立かもめ図書館 視聴覚ホール(小田原市南鴨宮1-5-30、電話0465-49-7800)
交通:JR東海道線 鴨宮駅南口下車徒歩10分
開催:11月6日(日)10:30~16:45(開場10:00)
入場無料・予約不要(先着180名)
※ 併せて、かもめ図書館集会室で「最新出土品展2005」(11月13日迄 9:00~17:00)
内容:平成16年度に発掘調査された遺跡の出土遺物を速報として展示。
 (問い合わせ 小田原市教育委員会 生涯学習部 文化財課 電話0465-33-1717)

菊川城館遺跡群国指定記念シンポジウム・陶磁器から見る静岡県の中世社会 ~東でも西でもない~
内容: 2日間にわたり「静岡県産陶器からみた様相」「各地の中世遺跡の様相」をテーマに発表会を開催。
※ シンポジウム聴講の申し込みはすでに終了しましたが、横地氏城館遺跡群・元島遺跡・小川城跡・今川館・北条氏邸跡などの遺物(陶磁器類)展示が会期中行なわれます。事前にお問い合わせ下さい。
場所:菊川市中央公民館(菊川市下平川1647、電話0537-73-1130)
交通:JR東海道線菊川駅より御前崎方面静鉄バス「平田」下車 徒歩5分
開催:11月12日(土) 12:00~17:00、11月13日(日) 9:00~16:00
(詳細は、菊川市遺跡調査事務所・塚本和弘氏 電話0537-36-3694、FAX36-3727)

◆秦野市制50周年記念事業「歴史浪漫・波多野氏物語」関係行事
「東田原中丸遺跡の調査報告」ほかシンポジウムなど
内容: 東田原中丸遺跡で発見された中世の遺構と遺物について写真等により報告。また、同遺跡周辺の整備・活用構想についてなど。
場所:秦野市文化会館 小ホール(秦野市平沢82、電話0463-81-1211)
交通:小田急線秦野駅もしくは渋沢駅からバス・文化会館前下車
開催:11月19日(土)12:00~16:00
入場無料・申し込み不要
※併せて同館展示室にて、文化財資料展「波多野氏と実朝」(17日~23日、10:00~16:00)
内容: 波多野氏や源実朝にゆかりの錦絵、『保元物語』や『平治物語』などの書籍、系図や東田原中丸遺跡の発掘調査で出土した中国製磁器やかわらけ等を展示。
※大ホールでは「中世の食体験」(限定300食、19日 11:30~12:30のみ)を実施。
(プログラム詳細は秦野市教委・生涯学習課文化財班、電話0463-87-9581まで)

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北条義時の墓見つかる

鎌倉の「頼朝の墓」付近で鎌倉2代執権・北条義時の墓(法華堂)と思われる建物跡遺構が発見されたと、昨日のNHKニュースで放送された。当該地は『吾妻鏡』の記述に合致し、以前から義時の墓といわれる場所があったが、発掘調査による建物跡の発見は今回が初めてではないか。

今回の発掘調査では、建物基壇・縁礎石の一部・礎石抜き跡・雨落ち溝の石列などの遺構が確認され、建物は一辺8.4m(4間半?)四方の正方形(約70㎡)。この建物の存立年代は13世紀から14世紀初頭と想定されている。出土遺物は土器(亙片・祭具等)、青磁碗、香炉など数百点。遺物の中には15世紀まで下るものもあり、そのころまで小さな堂として存続していた可能性もあるという。遺骨は出ていない。

調査は今後も引き続き行なわれ、11月頃に報告書をまとめる予定との事。

NHKニュース>http://www.nhk.or.jp/news/2005/06/25/d20050624000157.html

朝日新聞神奈川欄>http://mytown.asahi.com/kanagawa/news01.asp?kiji=6959

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高句麗好太王碑、新たな墨本発見の話題

今日(6月23日)の朝日夕刊16面に「好太王碑 新たな墨本(ぼくほん)発見」の記事がでていた。同碑文は、倭国(日本)の朝鮮半島進出があったことを記す箇所があり、各国研究者の間ではそれが旧日本軍による碑文改ざんかどうかなどで論争のタネともなっていた。今回新たに発見されたのは昨年北京でオークション出品されたもので、中国の学者(中国社会科学院・徐建新教授)が今まで鑑定を行なっていたもの。鑑定では「現存するもので最古」と判断され、それまで最古とされてきた旧日本陸軍が中国から持ち出した墨本との書体や文面の一致が認められ、「改ざん説」が否定された形である。昨今の歴史認識共有が提議されるなか、タイミング良く出てきた発表でもあるが、近代史だけでなく古代史にもまた新たな議論が起こりそうである。

朝日のサイトにもまだアップされていないので、とりあえず紹介しておく。ちょうど最近、高句麗の歴史や史跡に興味を持っていただけに、個人的にヒットした記事だった。

好太王碑: 好太王は広開土王(クヮンゲトワン;374~412)とも呼ばれ、中国東北地方から朝鮮半島北部にかけてあった高句麗王朝19代王。この王の代に高句麗は契丹、百済、後燕などと闘い領土を広げ、次の王、長寿王(チャンスワン)の時に最大領土を誇った。好太王碑は長寿王が先王の偉業を記念して、鴨緑江岸(現・中国吉林省集安市)に建てたもの(碑文による)で、1880年頃に発見された。碑文には高句麗建国神話・王統譜・建碑の由来・好太王の功績・王陵維持の為の禁制が各面約1800文字によって刻まれている。その一部に、「辛卯年(391年)渡海してきた倭と戦った」などの記述があり、日本書紀の記述と合致することから、倭(日本)が当時朝鮮半島に進出していた事を裏付ける資料とされてきた。問題となったのは、この碑文の最古の墨本とされてきた「酒匂本」(現・東京国立博蔵)が、1882年頃に現地でスパイ活動をしていた旧陸軍大尉・酒匂景信によってもたらされたという点で、ここから同碑文内容は日本の大陸進出を正当化するために改ざんされたとする説が生まれた。

ちなみに好太王碑がある集安は高句麗第二の王都・国内城(クンネソン)があった場所で、現在でも高句麗の城跡や古墳群が残されている。これらの遺跡群は昨年、世界遺産にも登録され、年々観光客も増えているそうである。

また、俗情報ではあるが、韓国では今年10月からこの広開土王を主人公にしたドラマ『太王四神記』の制作が行なわれる予定で、広開土王はヨン様ことペ・ヨンジュンさんだという。さらに、百済30代王・武王を描く大河ドラマ『薯童謠』の撮影も同じく今秋から始まる予定だとのこと。

韓国の制作側は前評判を盛り上げるためにも、今年度後半あたりから古代史関連のドキュメンタリーなども企画するのではなかろうか。そんな流れに今回の碑文論争が取り上げられるそうな気もしないでもない。まあ、韓国での古代史ドラマ熱が上手く作用して、日本でも古代史ドラマや映画が制作されれば嬉しいのだが。NHKでは単発で『聖徳太子』『大化の改新』をやってるので、『額田王』とか『壬申の乱』か。『白村江の戦い』なんかも注目度だけは高得点取れそうだが・・。

そういえば、昔『日本誕生』なんて映画もあった・・・・。三船敏郎のスサノオにヤマトタケル、原節子のアマテラスと豪華なキャストだが、極めつけは左卜全のアメノミナカヌシだった(爆)。

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