カテゴリー「ニュース」の15件の記事

道了尊のお御輿、ロマンスカーで新宿へ

下の記事にもありますが、昭和5年以来の大イベント。
【大雄山最乗寺が80年ぶり首都圏御開帳、30日から都内など行脚】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101029-00000031-kana-l14


檀家が無いお寺だから、どこかのみこし会に依頼してるみたい。東京まで出開帳して練り歩くんだから気合はいってるだろうな。
でも初日のこの雨、天狗さんだけに雨は瑞祥だろうけど、寺も担ぎ手もちょっと可哀そうだ。あそこの歩道、苔で滑りやすし。
一緒に行列する稚児たち、風邪引かないといいけど。

この道了尊は、南足柄市にある大雄山最乗寺(曹洞宗)の守護尊とされる垂迹神で、お姿は飯縄権現や秋葉権現に似ています。違うのは翼が無いのと、剣ではなく杖を持っているところかな。
もとは、寺の開山であった了庵慧明禅師の入寂に殉じて火定(つまり自ら焼身する即身成仏)した“妙覚道了”という山伏を祀ったものです。
のちに寺の鎮護神となり、また諸願成就の祈祷対象にもなった、天狗信仰の一種であります。
江戸時代には“小田原の道了尊”として富士山参りや大山参りとセットで広く親しまれました。

江戸への出開帳は江戸時代に2回、明治と昭和初期に各1度。
今回は開山・了庵慧明禅師が亡くなって600年目にあたる大遠忌としての出開帳です。

普段は宝物館(見学可)に収まっている豪華御輿にご真体(寺なので)入りの厨子を納めて、今日山を下ります。
明日は特別貸し切りの大雄山線で小田原へ。10時半頃、駅から御輿巡行し、小田原城址公園と「ういろう」本店でご祈祷。
11月1日は小田急ロマンスカーに乗せて東京の別院へ(5日まで)。3日は両国国技館で大祈祷。
6日は箱根強羅別院で、7日に巡幸行列を連ねて大雄山駅から帰山。とのこと。

この間、連日担げる様な人はきょう日いるのだろうか?
それこそ天狗のような気もする(笑)

私は明日の小田原巡幸だけ見てくるつもりです。
でも、御輿がロマンスカーに乗ってるところも見たいな。
下北沢の別院とかは通過みたいですが、車内でご祈祷してたりして(笑)

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ウミガメの卵 その後

一昨日、江ノ島水族館の方々と市で産卵地を掘ってみたところ、70程の卵が孵っていた事が分かったそうです。
孵らなかった卵は、猛暑の影響が考えられるとの事。

ともかく、今年は卵が孵って良かった、良かった。

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2年ぶりのウミガメ産卵だそうです

今朝ほど、小田原市東町の海岸でウミガメの卵が発見されました。
近所の人が散歩中に見つけたそうです。
足跡や卵の形から、絶滅危惧種に指定されているアカウミガメの可能性が高いということ。

2年前も市内では産卵が確認されましたが、無精卵だったために孵化しませんでした。
今回は無事にかえって欲しいものです。

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1007060014/

カメが上陸してくる光景、一度見てみたいなあ。

松原神社でカメの無事孵化をお祈りしようかな。
ついでに氏康の故事みたく幸運が小田原に舞い込んでくれれば良いけど(笑)

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二階堂は基壇まで

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1005050021/

発掘調査後は長らく立ち入り禁止の野っ原状態であった、鎌倉市二階堂の永福寺跡。
言わずもがな、地名のもとになったお寺の跡である。
ようやく、今年度から復元が始まるとは聞いていたが、着手されるのは庭園と建物基壇のみ。
地名のもとになった伽藍は再建されないようだ。
楽しみだけど、少し残念でもある。

称名寺庭園の二番煎じみたいになるのだろうか。
とはいえ、鎌倉で浄土式庭園が見れるというのは、素直に嬉しい。
(八幡宮の池も浄土式庭園の思想を受け継いでいるのではあるが)

庭は、畠山重忠が大石を1人で運んだ話などが特に有名。
そんな手順まで再現するサービスはないだろうけど(笑)
完成の頃には、蹴鞠や歌のイベントでも行うのだろうか。


でも、やっぱり見てみたい。実物大の二階堂。
建物だけ推定再建して、室内は鎌倉市の考古資料館とでもしたら面白いと思うのだが。
ここだけでも結構な遺物が出ているはず。

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再生?

クローン技術利用も!? 倒壊の鶴岡八幡宮大銀杏の「再生」検討
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100311/trd1003112240010-n1.htm

クローンと言うと少し気味悪く感じるけど、天然記念物の植物なんかはすでに各地でDNAサンプルが複数保存されるなどしてるみたいですね。
小田原の長興山しだれ桜もサンプルからすでに苗木が幾つも育てられていますし。
同じ環境に植え直すのであれば、適応しやすいのかもしれません。

とはいえ、ご神木たるには、やはりあの巨樹でなきゃなとも思うわけではありますが。
天人五衰の悩みではありますな。

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ウメ子永眠

小田原城址公園を長年見守ってきたウメ子(インドゾウ、メス、推定63歳後だったかな…)が、今朝、象舎で横たわっているのが飼育員によって発見され、死亡が確認された、との事。


昭和25年にタイから(一時、上野動物園を経て)子象(推定3歳)で小田原に来て以来、実に半世紀に渡って、あの狭い飼育所にて過ごされてこられた。
幼児の頃から親しんできた城址公園のアイドルであったが、可哀想でもあり、特に近年は他の動物逹もほとんどが居なくなって、文化財としての小田原城址の環境が少しづつ整えられていくのに従い、より寂しい景色にも感じられていた。


最後に見たのは二ヶ月ほど前だったか。ウメ子!と呼ぶと、鼻を丸く挙げてくれる愛嬌は相変わらずだったが、今思うと、疲れ気味なのが目立っていたような気がする。

もう会えないかと思うと、やはり寂しいが、ようやくあの狭い柵の外に出られる事を祝福しつつ、より良い新たな生を得て欲しいと心から祈りたい。
ウメ子さん、小田原城主のお役目お疲れ様でした!今までありがとう。 合掌。

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強風で小田原城の老松折れる

小田原城址公園内で二番目に古いとされてきた老松が、今日、強風によって枝が折れてしまいました。

http://www.news24.jp/articles/2009/07/10/07139379.html#

高さ約10mの所から分かれていた太い枝が(というより幹に近い太さですが)、折れて地面に落下。
幸いケガ人はいなかったものの、根元に転がる老齢の太枝は無残な姿をさらしています。

最初聞いた時は、本丸にある城内最高齢の“巨松”(おおまつ 樹齢400年以上と見なされ、北条氏康手植えの七本松のうち最後の一本といわれる)かと思いました。


実際に破損したのは、二の丸側の馬屋曲輪にある、上の方で幹が幾枝にも分かれた老松の方。
こちらも樹齢300年以上と見なされています。
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(写真は昨年。真ん中の松)


さて、小田原城の馬屋曲輪で松と言えば、通な人は“住吉の松”を連想されるかと思います。
江戸時代の城絵図(文久図や宮内庁蔵の図など)にも記載されている大木で、銅門側との間にある「住吉堀」や「住吉橋」の名称もこの松に因むものと思われます。
住吉の名のもとは、北条氏政がその松の下で和歌を詠んだという事に因るらしいのですが、まあ伝承でして定かな事ではありません。

今回枝が折れた老松、「もしかしたら、これが住吉の松かもね」なんて話も前からあったのです。
樹齢300年では氏政の時代に届きませんが、植樹が愛称を継承することも良くある話です。
私としては、複数の城絵図見ても場所も規模も違うように思うのですが。

今年度からの馬屋曲輪における修景整備では、この松は伐採対象から外れていたと思いますが、このようなタイミングでポッキリ折れると、ちょっと気になってしまいます。
今後の作業中に枝が頭上に落下などということが無いように、十分気を付けてやってもらいたいものです。


それから、同じくして銅門の土塀の破損が発表されました。
http://www2.city.odawara.kanagawa.jp/press/detail.do?enterpriseNo=20090174
写真で見ると、白漆喰がおよそ一間分ほどの長さにわたって剥落してしまった感じです。
復元してから約10年ですが、こちらも幾つかヒビが見えて来ました。
破損の拡大を防ぐよう尽力して頂きたいと思います。

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北条幻庵屋敷跡の堀?

24日付各新聞の地域版などでも紹介されたが、小田原市久野の個人宅新築工事に伴う発掘調査で空堀が発見され、陶磁器などの出土遺物から16世紀のもの、すなわち小田原北条時代の遺構である事が確認された。

場所は、久野小学校に隣接する住宅地。
(下の地図では久野小プールの南、小道を隔てた角地が発掘現場)
http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&ll=35.272291,139.136943&spn=0.00097,0.002001&z=19
小田原北条氏一族・久野北条家初代の北条幻庵宗哲(早雲末子とされる)が屋敷を構えたと伝わる場所で、発掘現場の東100mには幻庵屋敷の一部とされる土塁や池庭、幻庵御霊屋(伝幻庵墳墓の覆屋)などがある。

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確認された堀は上幅7.2m、深さ3.5m。
法面は荒れているがシャープな斜度は趣をよく残している。
堀は平底のいわゆる箱堀で、底部両端には深さ・幅ともに50㎝ほどの側溝を伴う。
排水路なのか用途は不明。
同軸上にある畑地も“堀跡”と伝わっており、ある程度の直線的な堀が埋蔵されているのはほぼ間違いないと思われる。

この時代の居館といえば、土塁と堀で四周を囲った方形居館が想定されるが、永禄2年の「北条氏所領役帳」に記載される最高の貫高を誇る北条幻庵である。
付属する曲輪や家臣屋敷を含めてかなり広い範囲に展開していたはずである。
伝承地名は、今回堀が見つかった場所や幻庵御霊屋や庭園跡・土塁残欠がある辺りを含む「中屋敷」を中心に、「七軒屋敷」「太鼓屋敷」「丹波屋敷」「物見」などがある。

場所は、箱根外輪山を越える街道に沿った緩やかな斜面。
今回出土した堀の場所は御霊屋や池庭跡よりも高位に存在するから、同じ曲輪に属するものではないかもしれない。

また、江戸時代の小田原藩主・稲葉氏の時代にここに屋敷を構えた家臣がいるので、池庭跡や土塁はその時代のものの可能性も捨て切れない(『新編相模国風土記稿』)。
保育園入口近くの土塁と云われている土盛りは、塚のようにも見える(久野は古墳遺跡が多い土地である)。

この堀が方形居館の堀なら、一辺約100mが平均的なサイズとして、居館は現在の久野小学校辺りから東泉院参道付近にかけてあったのかもしれない。
いずれにせよ、今の段階で幻庵屋敷の具体像を想定するのはまだ難しい状況だろう。

出土したかわらけがどんなものだったかが気になる。
北条氏系の拠点城郭では、北条一族や重要人物が儀式の在地武士との差別化を図ったものと想定される、京系かわらけ(小田原に職人が居たと考えられている)の出土が一つの特徴でもあるが、今回出土のかわらけ片の類型はまだ発表されていない。
もし、そのようなものであれば、出土した空堀は居館主要部に隣接もしくは近い場所の可能性が高くなるだろう。

本遺跡に関しての報告は来年度の発表会(毎年10~12月頃に開催される)になるとの事。
遺構は今日より埋め戻される。
覆土が軟弱で崩壊の危険があるため、一般公開は行われなかった。

一般公開しなかったのはもったいない気もするが、実際足場が悪そうであったので仕方ないだろう。
私は報道の翌日現地(フェンス越しに)見学したが、すでに一部の覆土が崩れて堀底はほとんど隠れてしまっていた。

それでも、幻庵屋敷(の可能性がある)の生の姿に触れられたのは大きな興奮と収穫だった。


新聞記事は神奈川新聞および朝日・毎日の地方記事で見られる。(以下該当ページ)
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryivapr0904647/
http://mytown.asahi.com/kanagawa/news.php?k_id=15000000904240003
http://mainichi.jp/area/kanagawa/news/20090424ddlk14040221000c.html

また、市の発表記事ではクリアな現場写真が添えられている。
すでにトップからのリンクは削除されているので早めにご参照されたし。
http://www2.city.odawara.kanagawa.jp/press/detail.do?enterpriseNo=20090028

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クローン桜

わが地元でもついにクローンの話題が出ることになった(笑)。

「かながわの名木100選」に選ばれ、「長興山のシダレザクラ」で親しまれている、長興山紹太寺(小田原市入生田)の老枝垂れ桜(アズマヒガン 樹齢約330年)のクローン増殖が成功したそうである。
手がけたのは住友林業で、3年後に一番花が開花する見こみ。

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この桜、紹太寺を菩提寺として創建した小田原藩主・稲葉正則の頃(17世紀後半)に植えられたもので、もとは稲葉家墓地入口の階段下あたりにあったらしい。現在でもその地には、この枝垂れ桜の名前「瓔珞桜」と刻まれた石が立っている。
今の場所に移されたのは、ある程度育ってからのようだ。
今回増殖が成功したこのクローンも、順調に成長すれば将来は現在のものと同じ大きさにまで育つ可能性が高いという。

住友林業によるサクラのクローン増殖成功は、京都・醍醐寺の太閤ザクラ(樹齢150年)が最初で、今回が二例目。
クローンなだけに、培養さえすれば同種のものが何本でも育成できる。
今後もこうした例は増えていくことと思うが、少々寂しくもある。
どうせ増やすなら、マツタケとかできないものだろうか…(汗)。

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祝・開門式

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かねてより復元工事が行われていた史跡・小田原城の馬出門。
大手筋の三の丸から二の丸の間に位置する馬屋曲輪の入口に当たる門です。

このほど仕上げも無事終わり、3月29日日曜日に開門式が行われました。
連日の冷えのせいで桜の開花には少々早くなってしまいましたが、観光客やこの日を待ち遠しくしていた市民ら大勢の人々に見守られ、華々しい式典となりました。

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式典には市長はじめ市行政や文化庁、そして史跡小田原城調査・整備委員会委員長の小和田哲男静岡大学教授が参列。
同教授による馬出門の役割、また今回の整備により新たに大手ルートが整備された意義などが紹介され、来賓代表によるテープカットがなされました。

その後、手作り甲冑隊のほら貝の音と共に開門。
関係者、一般見学者と続いて、無垢な白漆喰が鮮やかな門を次々に通り抜けました。

馬出門内は枡形(ますがた)と言って、勢溜りと防御を兼ねた四角い密閉空間になっています。
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馬屋曲輪へ入るには、馬出門を入り左に直角に折れ、もう一つの門・内冠木門をくぐらなければ入れません。
江戸時代以降の日本の城で多用された門のスタイルです。
門の形式は、馬出門・内冠木門ともに高麗門(こうらいもん)。控柱にも屋根があるのが特徴です。

小田原城の馬出門は、絵図によれば江戸初期から同地にあったことが分かっています。
現在の姿(今回復元された姿)になったのは寛文12年(1672)に改修された後。この状態で幕末を迎えました。

水堀の向こうには平成9年に復元された銅門(あかがねもん)が見えます。
そして、その背後の小丘の上に本丸の常盤木門(ときわぎもん)と天守閣(ともに復興)の姿が松の木の間からわずかに。
この角度からのアングルは平成17年からの復元工事が始まってから久しく見れなかった事もあり、見学者は門越しに見る銅門や本丸の景色を楽しんでいました。

今年の北條五代祭りは、この門の完成を記念して、〈二の丸広場~銅門~馬屋曲輪~馬出門~お堀端通り〉のルートで武者行列が行われるとの事です。
このコースのパレードは、銅門が復元された平成9年から数年ほど実施されていましたが、ここ最近はまた二の丸広場から学橋(まなびばし)を渡ってお堀端通りへと進むコースで行われていました。


開門式でお会いした人々で、話題は早くも、馬出門や馬屋曲輪から本丸への展望に移りました。
本丸の樹木が育ちすぎて天守閣が見えないのですよね。それを今後、適選伐採していかねばと。

公園が史跡だけでなく、市民や観光客の憩いの場所だという事も分ります。
ですが、植物の根が伸びすぎると石垣への負担になりますし、城遺構の姿を後世に正しく伝えていくのも大切な事です。
今回の馬出門整備にあたっても幾つかの樹木を伐採しなければならず、少なからぬ反対がありました。
本丸周辺でもそういう声が出るとは予想していますが、小田原駅や八幡山から見えても、大手筋にはほとんど遮蔽されている現状はそのままにはできないと思います。
でも一度、水堀の隅櫓や馬出門を手前に、天守閣が背後にそびえる重層的な光景を多くの人が見れば納得してもらえるはず。

さらに先の話になりますが、この景観を国道1号線から見えるような街づくりをしていくのも大切です。
小田原は、城址公園のすぐ近くを国道が走っているにもかかわらず、中小のビルが建って天守閣がほとんど見えません。
箱根駅伝の中継でも、わざわざランナーと城を同一フレームに映すためにヘリを飛ばしています。
おかげで「ういろう」の店舗が城かと間違われると言うジョークもあるくらい。

箱根や湯河原方面に向かう車も、この国道を通ります。
歴史に大して興味がない人でも、車窓から天守の姿が見えれば、ここが城下町だと分ってもらえるでしょうし、ついでに立ち寄る人も増えるかもしれません。

そのようなプロセスを築いてゆく為にも、本丸樹木の間伐は早期実現が望まれます。
先月も間伐は幾らか行われましたので、市のほうでもその点は認識しているものと思われます。

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