カテゴリー「弁才天」の3件の記事

井之頭池弁財天ご開帳

今年は巳年ということで、各地の弁財天や厳島神社の特別行事が行われているようですね。
多くは、4月もしくは旧暦4月の初巳もしくは13日に斎行されるようです。

昨日は、東京は三鷹市の井之頭池弁財天が12年に一度のご開帳ということで、参拝してきました。

お像は恐らく近世以降のお作でしょうが、現在も崇敬本尊となっているお像は“生きている”という点が最も重要なのであります。
私は今回が初参拝。
以前、こちらの絵馬をお土産に頂いて以来、気になっていたので、ちょうど良い機会となりました。

吉祥寺駅で降りるのは何年ぶりだろう。
前進座劇場で山中貞雄特集を観に行った時以来かも。だったらもう15年以上経っている。
いや、7年前にお付き合いでジブリ美術館に行った事があったか。
前進座に行った日の事は本降りの雨だった事まで覚えているけど、ジブリ美術家行った時の事は記憶に薄い。
て事は、やはり、完全にお付き合いで面倒だったんでしょうなあ(笑)


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天気は上々。良い参拝日和でした。

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七井橋の碑。
かつては、七井池と呼ばれていた程、湧水豊かな場所だったんですね。

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12年に一度という事もあってか、すでに長蛇の行列。
と言っても、入堂まで30分ほどでしたが。

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白木美しい開帳塔婆。
本尊から繋がる五色の紐で結縁参拝。
お堂前の狛犬は特徴的な顔をしてました。

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中へは、お堂をぐるりと回り、ちょうど本尊お厨子の真後ろ辺りから。
黒漆塗りのお厨子で、昭和4年に浅草の職人作による新調とありました。

堂内は撮影禁止。
開扉されたお厨子には、八臂弁天さん。丸くて白肌のお顔に細目で柔和な表情をしておられました。
厨子左には三面大黒天。右には毘沙門天。
天台寺院でよく観る組み合わせですが、この崖上にある別当・大盛寺もやはり天台宗でした。
寺伝では源経基の創建にまで遡るとなっていますが、現在の弁天堂に直結する確かな由来としては、江戸時代に神田上水の水源地として認知されてからなのでしょう。

本堂外陣には、右に十一面観音。左に不動尊や客仏らしき小さな仏像群が。
そのうち一つは、お顔は一面で憤怒相、手は多臂で右手一つが長い鉾を持つ、足は半跏。
今となっては記憶があいまいですが、あれが明王部ではなく天部なら、大自在天かもしれないので、少々気になったのでした。
次回普通の時か定例縁日の折にでも聞いてみたいと思います。

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宇賀神の石像。
もとは大盛寺黒門近くに立つ標石だったようですが、移転の末、上部の宇賀神像だけが弁天堂境内に遷されたようです。
蓮台も付いてるし、標石にしては勿体ないくらいの立派なお像。
神田上水の水源神として崇められていた往時のほどを偲ばせるものがありますね。

参拝後、ご朱印と開帳記念の御影札を頂いてきました。
また、こちらオリジナルの経本もあって、コンパクトで良さそうだったのですが、聞き忘れてしまいました。

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公園をぶらり。
新緑の合間に陽が射すこの時期、花見の盛りも過ぎ、のんびり散策できて最高でした。

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徳川家康が茶水として愛飲したと伝わる「お茶の水」。
こんこんとしていますが、実は昔ほどの湧水はなく、現在は水道で流しているようです。

今は弁天池さまというよりも緑地公園の趣きですが、かつての水源を大切に思う心は残っていると感じました。
現在の都民の水道水は、利根・荒川水系と多摩川水系が殆どのようですが、ここも大切に守っていって欲しいですね。と言っている私は全然関係ない者なのですが。

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以前、おみやげに頂いた絵馬。
持物といい梵字といい、まさに宇賀弁財天らしい絵柄で気に入っています。

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御真影札と散華。
平成25年ご開帳記念とありますが、古くから授与していたような木版画(の印刷)。
ここでの弁天像は二臂。当時のご本尊かお前立像でしょうか。
散華はご朱印頂いた折に挟んで頂きました。
五色の色違いのほか、弁財天のソ字と宇賀神のウ字がありました。
こちらもなによりの記念で有り難いです。


※追記:5月1日、弁天堂と池を挟んだ対岸にあった稲荷社が不審火で焼けてしまったようです。上のお札にも載っている「親之井稲荷」さんがそれです。
弁天さんとの関係、社名の由来などは分かりませんが、親と書くからには地主神か、人手による整備される前の水神さんとしての祠でしょうか。
ともかく、弁天さまのお札に併記されてるからには共に信仰されているのだと思います。
小さな祠でしたが、私がお参りした日も、地元の方らしい親子連れが、「こっちもお参りしていくんだよ」と手を合わせていました。
吉祥寺の事件といい、なんだか物騒で心配ですね。
お社の早い復興と、地域の安全をお祈り申し上げます。
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(写真はご開帳の折のものです)

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2013下谷七福神めぐり(5)弁財天

下谷七福神の寺社は、今まで何度か参拝しているところが殆どだが、この弁天院だけは、今回が初訪問。
加えて、由緒がなかなか興味深かったので、今回の七福神巡りでは一番楽しみにしていた所であった。

法昌寺からは徒歩15分ほど。
大通りはあまり好きではないのだが、初めての地なので迷わぬよう、昭和通りを北上し、東京トヨペットを過ぎて二つ目の角から裏道へ。小さな事務所ビルが立ち並ぶ通りを進むと、五叉路の一角に小さな公園があって、そこに弁天堂が立っていた。境内の一角が公園に供されていると言うべきなのかもしれないが。

朝日弁財天。寺号は、朝日山弁天院(曹洞宗)。
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両脇の銀杏が黄葉する頃は趣きもまた違っている事だろう。

この朝日弁財天は、上野不忍池の弁財天と姉妹弁天とされている。

上野の東叡山寛永寺が江戸の比叡山、清水観音堂が江戸の清水寺と見立てて建立されたように、不忍池の弁天堂もまた琵琶湖の竹生島弁財天になぞらえて中之島を造りお堂が建てられたのは良く知られている。
その中之島造成を担当したのが、常陸下館藩主の水谷勝隆だったのだが、彼は江戸の下屋敷内にも池と中島を設けて弁財天を勧請し屋敷神として信仰していた。それをもって、上野の東方にあたるこの弁財天に朝日を冠したのだという。

ちなみに、水谷勝隆は後に備中松山藩主に転ぜられ、以後三代に渡り松山藩主を務めている。天守をはじめ国重文となっている備中松山城の現在の姿が整えられたのは、勝隆の子・勝宗が藩主の時代であった。
三代勝美には継子無く、藩は断絶するが、旗本となっていた一族が名跡と知行を継いでいる。

下屋敷の地は面積約2万坪あり、そこに2千4百坪の広さの池と約50坪の琵琶形の中島が設けられていた。
明治の初めに水谷氏が土地を手放して以降も、池の景観は残され、長い木橋が架けられた島には松柏の大樹が鬱蒼としていたという。周囲には瀟洒な別荘などが建てられ人気の場所だったようだ。


そのように愛された池も、大正12年の関東大震災の後、東京市の要請によって、近隣区等からの焼土を処分する埋立地となってしまった。現在では、この小さな池と石橋が往時を偲ぶよすがとなっている。
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突き出したパイプから池に流れる水は湧水なのだろうか?
池には金魚が泳ぎ、意外と綺麗そうな水だった。

池を渡る反り橋。小さな橋だが、これが有るか無いかで、弁天堂らしい佇まいが大分変わると思う。
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弁天堂の中。
ガラス越しの遠目にだが、開扉した厨子に八臂弁財天像が見えた。何度も罹災した弁天さまなので、お像は比較的新しいのかもしれない。あくまで遠目に見た感じだが。
弁財天の神徳は、芸道・富有・結縁。
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本尊はこの弁財天のほかに、釈迦如来像が並び祀られている。
こちらは、昭和28年の宗教法人法の施行に伴い、曹洞宗の朝日山弁天院と号した時に本尊として祀ったものらしい。

隣に立つ弁天会館の貼り紙。
弁天院は近隣住民の管理による無住寺で、正月以外は、平日の午前中のみ参拝客の対応をしているようだ。
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ご朱印はこれらのお寺でも受けられるが、書置きやご尊体なら、この貼り紙横のボックスにしまってある。

代金は、ボックスに準備してあるプラ袋に入れて、賽銭箱に捧げるよう書いてある。
私は、ご尊体(400円)と由緒書(10円)を頂いたが、説明をよく読む前だったので、直にに代金を賽銭箱に入れてしまった。まあ、賽銭箱は毎日チェックするだろうから、分かってくれると思うが。
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残念だったのは、絵馬が無い事だろうか。
下谷七福神のうち、絵馬が無いのはここだけだった。
地域で共同護持のお寺なので、オリジナル授与品などを制作するのが難しいのかもしれない。


次に恵比寿神さんの飛び不動尊へは、公園前の道からまっすぐ国際通りの方へ出て行けばよかったのだが、途中で軽食した後方角を間違えてしまい、鷲神社の前に出てしまった。
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酉の市でお馴染だが、門前に年中立てられている飾り熊手が、今日は七福神の宝船に見える(笑)
こちらは「浅草名所七福神」の一つで、寿老人を担当している。
せっかくなのでお参りさせて頂いた。

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拝殿前には大きなお多福(おかめさん)面が。
額の「開運」の二文字もあって、おめでたい。

拝殿内なので撮っていないが、こちらで寿老人のお像を拝む事ができた。
下谷七福神では、今回最初に参拝した元三島神社が寿老人(寿老神)担当だが、正月をとっくに過ぎていたので拝観できなかったのだった。
で、何だかありがとうございます、と思って手を合わせていたら、賽銭箱前の祝詞が記してある板がパタリと倒れてちょっとビックリ。まあ、風が強かったのだけど。

正月以外に下谷七福神巡りをされる方は、鷲神社にも寄ってみると良いかもしれない。ほんの少し寄り道するだけで、七福神ご神像の拝観がコンプリートできるのだから。

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虎御石

さて、前スレの続きというか、虎御石について。

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この石を寺宝として蔵する延台寺の伝えるところによれば、虎御前の両親が弁財天に子宝を祈ったところ霊夢を観、枕元にこの石を授かったとされています。それに日々祈りを捧げた甲斐あって授かったのが、後に虎御前となる美しい娘子でした。
その後は、彼女の守り本尊として信仰し、虎御前の成長とともに大きくなったとされています。
あるとき虎御前のもとを訪ねた曽我十郎が、仇敵の工藤祐経の刺客に闇討ちされましたが、その時この石が身代わりに矢と刀を受け止めてくれた、というのがこの石の主な霊験譚。その由緒から、この石のご利益は、「子宝安産、身代わり厄除け」となり、それに曽我兄弟の仇討本懐を加えて、「大願成就・家運隆盛」にもなっているようです。

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で、その時の刀と矢による傷というのが、石に刻まれているのですが、まあ実のところは明らかに陰陽石(男女の生殖器をかたどったもの)。もっと昔からの信仰対象であったのかもしれません。伝承の一つには、虎御前が亡き恋人(十郎)を偲んで祈ったようなこともありますが、これは洒落に近い話でしょう。
江戸後期(天保12年:1841)の地誌『新編相模国風土記稿』によれば、古くは大磯宿の西端、鴫立沢あたりにあって、“美男なら軽々と持ち上がり、醜男ならびくともしない、色好みの石”などとして、江戸前期には往来の名物になっていたようです。前スレの錦絵もそれを描いたもの。

この当時、庶民にとって、大磯といえば「曽我物語」の虎御前。広重の「東海道伍拾三次」でも大磯宿は「虎ヶ雨」が題になっていることでも良く分かります。宿で働く遊女や飯盛女にとっても、もしかしたらステータスを感じさせていた存在かもしれません。
この陰陽石自体は、どこからもたらされたのかは分かりませんが、宿の西外れ近くにあったことを考えると、古いスタイルの道祖神だったのかも。それが、いつからか力石(よく神社にある力比べの石)になっちゃって、それに虎御前人気が後から付属してきた、というのが実際に近いような気がします。
もしくは、この石の形状に(旅客が?)洒落心を感じて、遊女・虎御前ゆかりの石ということになったのかも。

それが、大磯宿の中ほどにある日蓮宗寺院・延台寺(の番神堂)に納められたのは、前述の『風土記稿』によれば「(調査当時の)二十年ほど前」とのこと。
前スレの錦絵でも分かるように、当時は大磯名物として人気のあった虎御石をなぜご神体のようにしてしまったのか。有名になりすぎて、盗難や破損を心配したのか。
それとも、地域の有力者か誰かが「虎御石さまを、力石代わりに遊ぶなんていかん!」と一声上げたのか。
まあ、本来が陰陽石ですから、ご神体にかえしたのなら分かる気がしますが、盗難の可能性は低かったのでは。
大磯にあるからこそ、名物たりえた訳ですから。
ご神体に返すのだとしても、ちゃんと据えてお祀りすれば済むことだし。

もしかしたら、寺の維持費の捻出などを目的としてたりして・・・。などと穿って考えてみたけど、謎は謎。
でも、こういうローカルな歴史に小さなミステリーを感じて思索するのは、面白い。

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延台寺山内(境内)には、宿で亡くなった遊女の墓や、虎御前の両親が祈ったという虎池弁才天(池は埋立てられ、社が管理していたこの寺に移された)などがある。
山門から正面の曽我堂内には、虎御石ほか曽我物語関係の寺宝がともに安置されている。
曽我堂も虎御石も、年に一度の「虎御前まつり」の日(5月第三日曜)のみとのこと。
ローカルで小さな祭事だが、手作りの大絵馬や曽我堂のなかを拝観するだけでも楽しめる。

ちなみに、ご開帳のときの虎御石は、撫でたり触れたりして参拝はできるが、昔のように持ち上げようなどとは思わないように。

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