カテゴリー「歴史」の18件の記事

2013下谷七福神めぐり(1)寿老神

ニュースでは昨日関東各地で春一番と報道されていたが、今日の風の方が季節風らしい強さがあった気がする。
まあ、一番でも二番でも良いが、春風吹きすさぶ今日、ようやく今年の七福神巡りを果たす事が出来た。

お参りしてきたのは下谷の七福神。
所用時間は、今まで巡ったなかでも最短コースの1時間半ほど。と言っても、いつもの如く色々道草して2時間弱かかってしまったが。
上野・浅草間の根岸・下谷・竜泉・三ノ輪、ちょうど旧東京市下谷区にある寺社で構成されているが、それを以って名称としたのかは定かでない。
“恐れ入谷の鬼子母神”で知られる真源寺以外はあまり有名ではないローカル寺社だが、それぞれ個性があり、由緒も興味深い。オリジナル授与品も豊富なので、毎年巡って集める楽しみもありそうだ。
歴史好きな方は、上野山から日光街道を経て吉原土手へ歩く気分でぶらりしてみたら色々昔の景色が想像できて楽しいだろう。正岡子規や樋口一葉ゆかりの場所も点在するので、併せて歌碑めぐりしてみるのも面白いと思う。

大通りは車の往来が煩いが、ほとんどの寺社は脇の旧道沿いにあるので意外と静か。正月の頃は車も少ないだろうし、気軽に徒歩で回れる楽しいコースだ。

山手線鶯谷駅北口で下車。改札口で七福神めぐりのマップがもらえる。
ここから徒歩1・2分の直近に寿老人担当の元三島神社がある。というか、ホームからすでに見えている。
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北口周辺は鶯谷の夜の顔ともいえるラブホテル街だが、神社はまさにそのど真ん中。まさか、女郎にかけて寿老人ということは無いだろうが(笑)。
まあ、若かりし頃にサバゲやってた私にとっては、鶯谷駅から連想するのは、中古軍装品店の笠俊商店であったりするのだが。


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鳥居を潜ると、真新しい狛犬が目立つ。
台座には、明治時代の狛犬が2年前の東日本大震災で損壊したと記されていた。
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境内はよく掃き清められている。高台に建てられた社殿は陽が当たって明るく、気持が良い神社だ。
これが平場の神社だったら、ラブホビル群の日陰に沈んでしまい、ジメッとした境内になってしまったかもしれない。

社殿は、コンクリートの神明造り。
社叢(しゃそう=神社の森)は少ないが、梅や桜の樹が植えられていて、ささやかな花見も楽しめそうだ。
地元の人や駅利用者にとっては、ラブホ街は単なる通過地なのだろう。私が授与所で案内を乞うている間にも、親子連れの参拝客がさっと参拝して行った。
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祭神は、大山祇命・伊佐那岐命。
ここの三島明神は、伊豆一宮ではなく伊予一宮の大山祇神社からの勧請。
神奈川県内で三島神社というと、伊豆の三嶋大社から勧請したというものが多いので、てっきりここは江戸時代に伊予ゆかりのお屋敷でもあったのかと思いきや、鎌倉時代の御家人河野氏ゆかりの神社であった。
元寇の時に水軍の将として活躍した河野通有は、妻が江戸重長の娘であった縁で上野山に館があり、その邸内社として勧請されたのが発祥であるとのこと。

江戸時代になって徳川将軍家菩提寺の寛永寺造営が計画されると、三島社は上野山から降ろされる。その後、代替地を再び収公されるなどして二遷したのが、現在の浅草寿四丁目の本社三島神社なのだという。しかし、旧来の氏子にとって浅草は遠方なので、ここ根岸にあった熊野神社にも合祀される事となった。すでに詳細は不明のようだが、そういう経緯あっての“元”三島神社らしい。伊佐那岐命が祀られているのは、熊野神社の祭神なのであった。(では、その熊野神社の由来はどうなのか、とも思うのだが不明。同族の一遍上人ゆかりだったりしたら興味深いのだが…)

境内には、正岡子規の句碑「木槿(むくげ)咲て絵師の家問ふ三嶋前」が建立されている。
この近くに住んでいた正岡子規も、故郷伊予の水軍ゆかりの神社に親しみを感じていたのではないだろうか。
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ちなみにここの寿老人さんは、“寿老神”と神社らしい表記がなされ、延命長寿の神さまになっている。
大山祇神社の武勇よりも、熊野神の医薬神的な神徳が反映されているのかもしれない。
(下谷七福神は、元三島神社以外は寺院)

七福神の授与品では、寿老神の尊体(400円)、それを乗せる宝船(600円)、絵馬とお守り(各500円)がある。
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七福神巡りの絵馬というと、笹に下げるミニ絵馬のようなものが多いが、下谷七福神のは皆普通サイズ。ご朱印ではなく、絵馬を揃えてみるのも楽しいかもしれない。

駅でもらえるマップにも書いてあるが、宝船はここ元三島神社でしか頂けないので注意。
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また、松の木が描かれた能舞台のような飾り台は絵馬台(600円)といって、こちらは布袋尊担当の寿永寺で授与している。

授与所では、弁財天担当の弁天院は普段無人なので今日全部揃えるのは無理かもしれないよと教えてくれたが、それも一つの縁と考えてとりあえず巡拝してみる事にした。

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宝金剛寺のお地蔵さん

日柄もよいので、お昼がてら、小田原市国府津の宝金剛寺へ寄って参りました。
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国府津山・宝金剛寺があるのは、小田原市東部、国府津丘陵を背にした閑静な里。
下の写真では、丘陵尾根が少しくびれた箇所の麓あたり。
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縁起によれば、天長6年(829)、弘法大師十大弟子の一人、杲隣大徳(ごうりんだいとく)による開山とされています。その墓(中央が供養墓)。
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当初は、地青寺と称していましたが、弘治2年(1556)に後奈良天皇の勅令により宝金剛寺と改められました。

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戦国期には後北条氏の祈願所の一つとして栄え、足利晴氏や北条氏康の病気平癒祈祷がされたと伝わっています。所蔵される北条氏文書には、山林保護といった通例の寺社文のほか、寺の梅や松の木を小田原城の庭園に所望するものなどが残されています。
江戸期にも幕府の保護を受け、近世まで相州屈指の真言宗寺院として規模と寺格を誇っていました。

寺宝も多く、文化財の所蔵は県西部で最多のお寺の一つです。
仏像・仏画・古文書類は、それぞれは当時の地域における最先端宗教文化を今に伝える貴重なものです。
最近では、近世初期(桃山~江戸初期)の西洋童子像(セミナリオ等の日本人絵師により描かれたと思われる)が公開され、サントリー美術館に期間展示もされました。

建築物は残念ながら、ほとんどが近代以降のものですが、江戸末期に建てられた庫裏は昨年、国登録有形文化財に指定されています。

ご本尊・寺宝などの一部は、宝金剛寺HPで見る事が出来ます。
http://www.hohkongohji.jp/jihou/index.html
普段は非公開ですが、大日如来像や不動尊像だけなら、事前の問い合わせ(要志納)で拝観させてくれるかもしれません。鎌倉国宝館へ出張展示されることも時々あります。

さて、前置きが長くなりましたが、今日のメインはご本尊のお地蔵さん。
(下は県の生涯学習システムのサイト)
http://www.planet.pref.kanagawa.jp/app/search/cul/info?REG_ID=CULB01A-0003210&sort=&page=9&CATEGORY=cul
本尊の地蔵菩薩像は、平安時代・藤原後期の作と推定されています。像高49.3㎝。

その光背の上部には、蓮弁形のくぼみがあり、銅造の小さな如意輪観音像(像高8.7㎝)が納められています。
http://www.planet.pref.kanagawa.jp/app/search/cul/info?REG_ID=CULB01A-0003547&andor=and&sort=&page=1&word=%E5%A6%82%E6%84%8F%E8%BC%AA%E8%A6%B3%E9%9F%B3&CATEGORY=cul&range=50
背後に小さな如意輪さんが浮かぶお地蔵さんです。
光背は江戸期の後補ですが、如意輪観音像はやはり藤原後期と推定されており、恐らく地蔵さんと同時期に制作されたもののようです。

このお地蔵さんは、俗に「帯とけ地蔵」と呼ばれ、地域では今も安産守護の仏さまとして信仰を集めています。
寺伝では、平重盛が妹徳子の安産を祈り、このお地蔵さんのお腹に帯を結んだと伝わっていますが、台座の納入銘札には、重盛が各国に一体づつ建立させた内の一つと記されています。
真偽は分かりませんが、他県に同様の伝承がないものか気になるところであります。

如意輪観音は、俗信では女性守護の観音とされていますので、地蔵尊と共に安産信仰されることはよくあったのでしょう。ただ、セットになった像というのは珍しいのではないでしょうか。あくまで個人的見解ではありますが。

こちら普段は秘仏で厨子の扉の中。
(過去に何度か文化財公開の機会に拝観させて頂いた事はあります)
ということで、今日は、ご尊顔を直に拝む事叶いませんでした。が、代わりに「めぐり地蔵」というのを拝ませて頂きました。これは、高さ40センチくらいの小厨子に納められたお地蔵さんで、妊婦の居る家に貸し出しされた本尊ご分身。かつてこの地域の家々で巡回されたので、めぐり地蔵さんと言うそうです。
こういう民間信仰における持ち回りの仏像があるのは知識では知っていましたが、実物を見たのは初めてでした。ご住職のお話では、山向こうの橘地域ではまだこうした習慣が残っているとのこと。

それにしても、県内では北条政子の安産祈願を伝える寺社は幾つかあるのですが、平徳子の安産祈願のお寺というのはやはり珍しいかと思います。
徳子や安徳帝の関係となると、つい水天宮を連想するのですが、水天宮の安産神信仰が流行るのはもっと後世の気がしますし。

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山内は、黄紅葉鮮やか。やや霞空ながら富士も望めました。

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本堂前にはしだれ桜もありますが、個人的には梅の花の頃がお勧めです。

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忠犬・たまの墓

開成町での歴史展示会のつづきを一つ。

絵図のほかに興味を抱いたのが、こちら「老犬・多摩の墓」実寸模型。
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実物は、南足柄市の大松寺にある明治時代の墓碑。

裏面に由緒があり、その現代文が前に展示されていました。
その内容はこういうものでした。

明治11年、多摩郡の人が犬を連れて富士登山の帰路、大雄山最乗寺に参詣した。
しかし、犬が疲労して動けなくなってしまい、寺に預かってもらったという。
犬は寺の世話のかいあって元気になり、良い番犬を務めるようになった。
その後、無事主人のもとへ連れて帰されたが、再度お礼に主人が大雄山に参ると、住職から犬を褒められ、もし犬に子供があればもらい受けて飼いたいと申し出があった。
翌年3月、子犬は人に背負われ(主人か使用人かは不明)、馬に揺られてやってきた。
子犬は寺の衆に可愛がられ、中でもよく面倒を見ていた橘氏に懐くようになった。
同年、橘和尚が隠居するとその家に移り住み、よく番犬を務めたという。
しかし、明治21年11月、犬は病にかかってしまう。
和尚は獣医に見せて診察を乞うものの、今度は本人が病に倒れて帰らぬ人となってしまった。
犬は看病のかいなく、11月25日、主人の後を追うように亡くなったという。
犬は、忠犬ぶりを讃えられ、信忠と法名を授けられた。

「こんな事があったんですねー」
と展示の横にいた人に言うと、
「渋谷のハチ公よりも昔の話なんだよね」

犬と人との関わり合いの歴史の話も、全国から集めたら膨大な数になるんでしょうね。

南足柄市のたまの墓、そのうち訪問してみたいと思います。

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手挽き蕎麦と椎の木森

ようやく雨が上がりだした今日の昼、秦野に蕎麦を食べに行ってきた。

丹沢山塊の足元である秦野盆地は良質な湧水に恵まれ、美味しい蕎麦屋が多いのだそうな。
そういえば、以前山登りの後に寄った何気ない蕎麦屋も、予想外に美味しかった記憶がある。

今回は、母が先月に行ったという店を薦められたので、小ドライブがてら寄ってみた。

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『手打ちそば くりはら』。
http://www.ac.auone-net.jp/~kurihara/
場所は国道246号線に沿った裏道、というか、たぶんかつての矢倉沢往還ではないかと思う。

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古民家を改装したお店で、あいにく桜は散っていたが新緑の庭が露光りして鮮やかだった。

いつもなら混んでいる時間帯らしいのだが、雨で客に敬遠されてしまったようだ。
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写真は撮り忘れてしまったが、まず、蕎麦がきを頂いた。
ほのかな甘みが食欲を誘う。

そして、天せいろ。
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天ぷらは季節の山菜、タラの芽、こんにゃくなど。
手挽きの蕎麦は風味豊かでコシがあり、大変美味しかった。

店では色んなイベントが催されてるようで、先月末にはブータン僧指導による瞑想会があったそうだ。これは行ってみたかった・・・。

お手洗い。
洗面器の脇にはペーパータオルの代わりに、小分けした手ぬぐい。無駄のない洒落心。
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ともかく、店の主人の手作り感があふれるお店で大変好感を持った。
また来たくなる店。

食後は、小田原の祖母宅へ。
『北條五代祭り』(武者行列よりもむしろ神輿の方)を見に親戚等が来ているとのこと。

途中、渋沢から大井町へ抜ける道沿い、篠窪(しのくぼ)の三嶋神社に寄ってみた。
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鳥居前に覆い被さるように枝をひろげるこの椎の木、説明板によれば樹齢は500年ともそれ以上とも。
幹には大きなウロが開いているが、まだまだ生命力旺盛。
今の時期はなおさら、あらゆる植物が輝いて見えるようだ。

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境内には、この樹のほかにも椎の木があった。やはり年数を重ねていそうなお姿。
この篠窪集落の鎮守様は、“椎の木杜(しいのきもり)”と呼ばれているそうだ。昔はより鬱蒼としていたのだろう。

この神社前から小道を上っていくと、矢倉沢往還の旧道。
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そのほとんどが国道246号線になってしまった今では、ここらと秦野の善波峠くらいではなかろうか。昔の面影を残しているのは。
「源頼朝、駒止めの榎」なんてのもあった。
頼朝が冨士の巻狩りに出かける折は、いつもこの辺りで休憩し富士や足柄平野を見下ろしたという。

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この頃、ようやく晴れ出して来つつはあったものの、箱根や富士はまだ濃い雲の中。
峠から平野に出る時は、とても蒸し暑かった。
晴れて急速に上気した水分だったのだろうが、水蒸気が地表の熱を奪っていくのを肌で感じたのは久しぶりだった。今年の梅雨は早いかもしれないと、ふと思った。

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ウン周年。箱根登山鉄道

こちらはもっと長い創業120周年。
http://www.hakone-tozan.co.jp/info/120info-1.html

前身の小田原馬車鉄道と小田原電気鉄道の頃から数えると、今年で120周年らしい。

小田原駅前の箱根登山ビル「ベルジュ」では古写真展が開催され、小田原電気鉄道時代の写真や、創業時のケーブルカーや強羅公園などの様子が展示されていた。
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小規模な展示とはいえ、しっかりスペースを設けてやるあたりはさすが私鉄というか、地元企業というか。

そういえば、10年前やその前の今頃もイベントをやっていた。
その当時は、交流のある企業にいたので色々とグッズをもらった気がするが、その当時の本社は今は無い。
小田原駅の寂しい側(西口)のさらに離れた所に移ってしまった。
登山鉄道も発着が小田原からではなく箱根湯本になってしまって、普段はあのレトロな車体が見れないのが残念である。
(風祭駅も味わいの無い新装にされてしまったし)

この箱根登山鉄道、鉄道ファンにはそこそこ人気あるようで、今回も記念グッズがいくつか出ていた。
私は、古写真展で知ったのだが、馬車鉄道のステンドグラスしおりや馬車鉄道ストラップなど、なかなか購買意欲を湧かせるグッズではある。
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つい、買ってしまった。(本社および湯本駅などで販売)

国府津-小田原が下等で6銭。
小田原-箱根湯本が8銭、とある。
今にしてどれ程の貨幣価値なのか分からないが、庶民的には安くは無かったと思う。
祖父などは、もっと小さな乗合馬車で飯泉観音に出かけたとか言っていた。
それにしても、二等席とかでなく、「下等」というのが率直で分かりやすい。

記念の駅弁も出ている。
小田原駅開業88周年記念のものより、かなり鮮やかな内容だ。
http://odawara-hakone.keizai.biz/headline/photo/59/
値は1000円を超えるが、これなら食べてみたい気がする。
このあたりは、弁当メーカーのスタンスの違いもあるだろうと思う。

小田原の駅弁は老舗の東華軒だが、昔からの名物弁当を提供し続けるのは良いしても、それ以外では余り魅力を感じないのが正直なところだ。
がんばって下され♪

あと、箱根といえば、もう一つの大手が今年130周年…。
ロマンスカーのCMで映っている場所ですが、近々に。

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いろいろとウン周年。小田原駅

今年の小田原箱根地域では、いろいろとウン周年のようである。
そんな一つが、東海道線の小田原駅開業88周年。

イベントなどは先月に終わってしまったが、写真を撮っておいたのでご紹介まで。

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駅前の小便小僧(ニコットちゃんという)は、駅長スタイルに。

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駅構内では、過去の写真を展示していた。
鉄道の事はさっぱりな自分なのだが、この80系というのは見た記憶が無い。
鳥みたいな顔だ。
色はおなじみなのだが。
いつごろまで走っていたものだろうか。

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駅スタンプも国鉄時代のデザインを復刻。
といっても、国鉄時代のスタンプが分からないので、たぶん、JRの表記以外は復刻なのだろう。
まあ、絵柄はJRの今も同じなのだが(外枠が梅でなく円)。
作りたてのスタンプなのでキレイに押せたのが嬉しい。

それから88周年記念として、駅弁も出された。
…が、余り美味しそうに見えないので購入は控えた。

鉄道ファンの方々も、きっと中身より外装紙目的に買われたのだろうと思う(笑)。


それにしても、記念イベントや復刻スタンプの告知など、駅構内に張り出された紙くらいしか見かけなかった。
このやる気の無さというか、醒めたあたりが、最も旧国鉄らしさを感じるのだが(笑)。

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カレー講座

最近、カレー講座が各地で催されて好評らしい。
大概、都心方面で数回に分けての開催なので自分などは羨ましがっているだけではあるが、また久々にインド人やネパール人の友人の店に行って、レシピを教えてもらおうかと。
ついでに業務用スパイスも分けてもらおう(地方で小売モノは高価なのですよ)♪

最近読んだ本で面白かったのはこれ(↓)
『インドカレー伝』(河出書房新社)

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC%E4%BC%9D-%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%A0/dp/4309224571/ref=sr_1_1/503-1486155-8110347?ie=UTF8&s=books&qid=1185114556&sr=1-1

原初は英国で書かれたものなので、チキン・ティッカ・マサラやコルマ、ヴィンダルーなどの生まれた話などが詳細に紹介されている。
特にチキン・ティッカ・マサラの発祥などは、ホントかね?と思うような内容だったのだけれど、サンドイッチの国ならありかなとも思った。
ヴィンダルーの項などは、ポルトガルの西インド沿岸支配の歴史なども併せて勉強になりました。

日本では戦国時代に重なるのだけれど、マカオ経由とかで日本人奴隷もゴアに行っていたかもしれない。
そうなると、日本人で初めてカレーを食べた人は明治の文明開花の頃よりもっと過去まで遡るのだけれど。

レシピも付されていて実用的なのですが、スパイスに関しては中華名と英語名でも併記してくれるともっと嬉しかった。

それにしても、アマゾンでレトルトカレーも買えるんですねぇ(笑)。はじめ「インドカレー」で検索したら、中村屋のレトルトセットが(笑)。

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「河越夜戦」云々②

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そして、23話「河越夜戦」。
天文15年(1546)4月20日の夜がその時であると云われているのですが、実のところ、それを証明するような良質の史料はあまり残っていなかったり。ただ、戦局を転換する大きな合戦があった事は確かで、それは、前後に発給された文書史料などに知ることが出来ます。

まあそれはそれ。一般に知られている(といっても現在はかなりマイナーな合戦話かもしれませんが)河越夜戦の話は、江戸時代の軍記物によるものであります。もちろん今ドラマの話もそれを元に構成されたものです。が、ドラマ作品ならばやはり美味しい話を上手く使う事に文句があろう筈もありません。
ただ、ネタ元の軍記物の内容もまた適度に変更・省略されていますので、その辺りを幾つか紹介してみます。

ドラマでは北条方の諜者として登場した山内上杉家臣・本間江州(ほんまごうしゅう:本間近江守)ですが、軍記物に登場する本間は少々異なっています。
軍記では、本間は山内上杉を浪人したと装い、同輩の猪俣左近と二人で北条家に仕え、三年(または四年)の間その内情を探っていたとあります。北条家の諜者になったという話は見かけません。
ただ、北条家に仕えてみると、上杉家の多くの武士たちが北条家にも内々に好を通じている事に驚く、という話があります。
三年後、その事実を帰参した主家(山内上杉憲政)に伝え、一度は忠節を賞されるものの、憲政お気に入りの側近が讒言をした為、両人は遠ざけられ、猪俣に至っては毒殺されてしまうのでした。
そして、河越夜戦の時。憲政側近たちが主に先んじて逃亡する中、最期まで奮闘したのが本間江州でありました。それを討ち取った北条方の武将が、小田原時代より旧知となった大道寺駿河守であり、大道寺駿河守の指し物「金提灯」は本間がその時彼に譲ったものとである、という締め括りがあったりなかったり(本による)。
あくまで読物の話ですから、このエピソードがどこまで史実を伝えているかは不明ですが、実際に河越城代であった大道寺駿河守(盛昌)が出ているあたりは興味深いところ。

いずれにせよ、ドラマでは本間江州という上州侍の律儀さは軍記のキャラを損なうどころか、省略化のお手本のように上手くストーリーに生かされていたと思いました。

省略化といえば、上の大道寺駿河守もそうでしたね。討取ったのは、清水吉政になっていました。というか、北条氏の重臣は彼と北条綱成(本話で河越城守将を務めていた人)しか今のところ出ていませんね(笑)。
まあ、ただでさえ馴染みの薄い関東戦国史(笑)。ドラマ的に意味の無い人を出しても、混乱を招くばかりかもしれません。古河公方(足利晴氏)くらいは観たかったですが・・。
でも、有名なエピソードなどの主体部分などは、結構まめに挿入されていたりしますので、満足度はそれほど損なわれていません。そもそも、映像化だけでも嬉しいのですから(笑)。

省略された話がもうひとつあります。北条綱成の実弟・福島弁千代のエピソードです。
ドラマでは、氏康の本隊が河越城の救援に来ていることを知らせる役目を、本間江州に与えていましたが、軍記物では、北条氏康の見目麗しい小姓・弁千代がたった一騎で敵の包囲陣を通り抜け(上杉勢もまさか敵とは思わず)、兄のいる河越城に「救援軍が近くに来ているから早まるな」という氏康の言葉を伝える話があります。
私などはてっきり、ドラマでは福島彦十郎(勘介を撃っちゃった若侍)がその役をするのかな、などと勘繰っていたのですが、あっさり本間の矢文になってしまうとは(笑)。
この福島弁千代はなかなかネタの多い人物ですので、また後日紹介したいと思います。

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と、福島兄弟の弟は出なかったのですが、兄・綱成はその高名な「黄八幡」旗をなびかせていましたし、ホンのちょっと「お味方、勝利~!」と、部下が叫んでいるところも、軍記のお話を連想させてくれて、なかなかニクイ演出でした。

しかし、その綱成勢に滅ぼされる役になった扇谷上杉朝定の描かれ方は、史実同様に悲惨でした・・・。
朝定の登場シーンは、(開門する河越城にニヤリとしつつ)「なんだ・・・??」と振り返る所のみ!
混乱する夜陣の中、ついに雑兵共々討死、滅亡してしまった扇谷上杉家最期の当主ですが、実はこの人、当時たしかまだ22歳。13で父(朝興)が没し家督を継いで早々に、代々の居城・河越城を北条氏綱に奪われ、叔父も北条氏の捕虜に。かつて太田道灌を家宰にしていた頃の勢いからすると、悲しいまでの落ちぶれ様でした。
それが、ようやく山内上杉家や古河公方家の合同のもと、悲願であった河越城の奪還が成ろうとしていたわけです。この戦で無念といったら、まずこの方を置いて他には無いような気がしますね。

それに、武田晴信の最初の奥さんは、この人の姉(晴信より年上だったと云、懐胎死)。
つまり元義兄弟なわけで、ドラマ的に重要ではないにせよ、少しはセリフの端にでも出してあげればいいのになあ、と思いました。例えば、母の大井夫人に手を合わさせるとか。

最期にもう一つ軍記の話として、河越合戦(天文15・1546)の前年三月二十日、小田原の浜に大亀が上陸したという話が『北条五代記』に記されています。8人でようやく持ち上がったという大亀で、氏康はこの瑞相を喜び、松原明神(現・松原神社)で法楽能を舞わせたとか。その翌年の同日(閏年だったのでしょうか)、果たして河越で大勝したのは、やはり亀は奇瑞であったとしています。


写真は(上から)、川越市の東明寺。合戦地と伝わる場所のひとつで付近からは当時のものと思われる遺骨が出土したとか。山内(境内)には「川越夜戦跡」碑があります。

次が、「小田原北条五代祭り」の武者行列に出る北条綱成の「黄八幡」旗。黄と云っても、朽葉色の黄色と軍記にもありますので、こんな感じに再現されてるのでしょう。
「黄八幡」旗は、後に武田氏と北条氏が駿東で戦った折に武田方に奪われ、「武勇にあやかれ」と真田氏に下賜されたと云い、現在も長野市の真田宝物館に伝存しています。
また、玉縄北条家の重臣・堀内日向守の家にも玉縄北条家の遺品として「黄八幡」旗が伝わっていると、どこかで聞いたか読んだような気がしますが、よく覚えてません。

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左の写真は、昨年、松原神社境内で見た「吉兆の大亀」像。
当日、そこにあった由緒書によれば、河越合戦にまつわる吉例にあやかるものとして作られたものだそうです。残念なことに頭が欠けております。
甲羅を撫でると、心願成就・勝利・合格に利益あるそうです。
また、亀は長寿の霊獣であることから、賽銭を10円納めれば10日、1000円納めれば千日寿命が延びるとも(笑)。
こんなの前あったかな・・・・?
でも、こういうセンスは嫌いじゃありません。
由緒や利益は信じることで成就するわけですから。
ともかく、せっかくの新たな北条パワースポット。北条稲荷の蛙石のように末永く大事にしてもらいたいものです。

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「河越夜戦」云々①

さて、また暫く間が空いて夏越大祓も過ぎてしまいました。
そして、今更ながらに大河ドラマ『風林火山』23話の「河越夜戦」に関して、思うところを幾つか。

ともかくも、この合戦が映像化されたのは初めてだったのではないでしょうか?
毛利元就の厳島・織田信長の桶狭間と並んで「戦国三大奇襲戦」と云われたりするなか、ようやく「河越」も現代メディアデビューを果たした感があります。
とはいえ、桶狭間の合戦については現在も諸説ある状況だし、河越の合戦もまた良く分かっていないのが現状でありまして。別に一々「三大・・」とかに拘る必要も無いのですが。

本回もまた井上靖の原作『風林火山』には無いオリジナルストーリーでありますが、第一話と並んで、北条氏贔屓な視聴者には嬉しい企画であったに違いありません。
ドラマ的には、後の真田幸隆の武田臣従や長尾景虎登場への「つなぎ」、さらに後の三国同盟への布石でもあると思えるのですが、こういう一時横道的な構成ができるのも、大物大名の御一代記ではなく、「前半生が不明にして志し半ばで戦死」という短命な主人公のドラマならではというところでしょうか。

さて、本ドラマは、武田&主人公である山本勘介の視点で描かれていますので、ここは一つ北条贔屓の身として、北条側からの視点について簡単に紹介。

いつだったか失念しましたが、これ以前の回で氏綱が没しようとするにあたり、氏康に遺訓を伝える場面がありました。内容はいわゆる氏綱公の「御遺訓」とか「御置文」とか呼ばれる五箇条の内容ですが、こういう所をさりげなく押さえてくれている辺り、今回の脚本は大変嬉しいものがあります。

で、その氏綱が没して氏康が名実共に家督を継承したのが、天文10年(1541)7月。氏康26歳。
河越合戦はこの頃からの流れを見ていくと、結構、その合戦に至るまでの一定の緊張感が想像できるように思います。
ちなみに、河越城は4年前の天文6年(1537)7月に氏綱が攻略。ドラマには登場しませんが、氏綱三男で玉縄城(鎌倉市)主・為昌(次男某は早世)が、河越の城主を兼ねます。

氏綱死去三ヵ月後の11月、早速、山内・扇谷の両上杉軍が河越城に来襲した模様。この時の氏康感状が幾つか残っています。やはり代替わりの時期というのは、狙われやすいようですね。そもそも、氏綱が河越城を奪取したのも、扇谷朝興の死後でありましたが。
とはいえ、氏康も「代替わり検地」を開始して、領内の支配を引き締めています。

翌天文11年(1542)5月、為昌が弱冠23歳で死去。
彼は、玉縄(三浦領を含む)・河越のほかに、武蔵小机(横浜市港北区)の城主として、主に相模東部方面を任されていた重要一門でした。あと氏康の弟は20歳の氏尭(うじたか)一人のみ。それだけに影響は大きく、これを機に北条氏領国の支配や家臣団編制に大きな変革がなされていきます。為昌の広大な支配領域と家臣団は分割され、玉縄は義弟だった北条(福島)綱成が継ぎ、河越は為昌後見人で鎌倉代官の大道寺盛昌が、そして小机は叔父(氏綱末弟)で箱根権現別当を隠居した北条宗哲(幻庵)が継承することに。

先代と重臣にして実弟(しかも河越城主)の相次ぐ死没。
やはり管領家としてはこれを機と見なしたものと想像するのですが、同年6月、関東管領・山内上杉憲政は北条討伐祈願と解せる願文を鹿島神宮に捧げています。

ただ、その後の両社の細かな軍事的動きが暫く不明。
ですが、天文12年(1543)には、氏康は古河公方・足利晴氏に忠節を誓う起請文を書いていますし、同13年には房総の里見氏の領内に進出している模様。
天文14年7月、今川義元、氏綱の代に北条家に占領されていた駿河東部を奪還するため、上杉憲政と結んで駿河吉原へ出陣。それまでの間に山内上杉家・扇谷上杉家・今川家の三者で軍事協同に関する外交が進められていたのでしょう。

その5ヶ月前に小田原へ来訪した連歌師・谷宗牧の『東国紀行』には、今川・北条の軍事境界における緊張が記されています。
〈・・・一里ばかり過たれば、吉原の城もまぢかくみえたり、この舟を見つけて、足軽うち出、事あやまちもしつべきけしきなれば、十四五町此方の礒にをしよせ、荷物おろさせ、松田弥四郎申陣所へ人つかはしたれば、案内者をこせ、みなと川のわたりし船さしよせて待たり・・・(正月26日)〉

8月になると、妹が義元に嫁いでいた武田晴信も出陣。
9月には北条方の吉原城(富士市)が落城。今川軍さらに東進。時同じ頃、両上杉家が河越城を包囲。城代として入城していた玉縄城主・北条綱成の籠城が始まります。
まさに四面楚歌。
西は今川、北は武田、東は上杉。南の里見の動きも目を離せない。とまあ、この敵対状況は氏綱の時もそうだったのですけれど、ここまで両上杉と今川・武田が連携して同時攻勢に移った事は無かったのではないでしょうか。
そして10月、古河公方が河越包囲軍に参加。
公方・足利晴氏の正室は北条氏綱の娘でしたから、氏康とは義兄弟。当初は氏康の要請で中立を保っていました。が、ついに上杉からの誘いに乗ってしまいました。
これは本気モードでかなりまずい状況。
公方の手勢は少なくとも、その威に従ってさらに多くの武士が参陣してくるのは大迷惑。
氏康ピンチ。
ここにおいて、駿河東部の放棄(今川家に返還)を決断。天文14年10月下旬、今川・武田両家と和睦し、ひとまず一方の危機は薄れたのでした。
あとは、いかに河越方面を収拾するか。

・・・というのが、河越合戦(天文15年・1546)の前年までの大まかな流れです。
ドラマでも22話「三国激突」の締めがこの辺りだったと思います。

22話といえば、躑躅ヶ崎館(武田氏館)軍議のシーンで、小山田信有(田辺誠一)が広げた地図を覚えておられるでしょうか?
かなりアバウトな地図で、国名と主立った城くらいしか記載されていませんでしたが、そのなかになぜか「河村城(山北町)」が。玉縄城も韮山城も記されていないのに何故?
まあ、単に相甲駿国境の城という意味からなのかもしれませんが、この後、永禄4年(1561)3月に上杉謙信(当時はまだ長尾景虎)が小田原城まで攻め寄せてきた折に、どうやら武田の援軍が河村城に入っていたようなのですよね。
で、同年の9月に第四回川中島合戦(勘介討死)があるわけです。
ドラマ的にはクライマックス前のイベントとして、この謙信小田原攻めに勘介が出てきそうな気がしてなりません。地図の記載はそのヒントかな、とも受け取ったのですが、如何なものでしょうか。後々が楽しみです。

なんか結果的に23話のネタ話というより、22話のネタ話になってしまいました。

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13日文の続き

とりあえず、以下はミクより転載。

本邦最初の花火。
戦国時代のようなシビアな時代に本当に、貴重な火薬を娯楽に使用したのかどうかも考えてしまうのですが、戦国後期には国内各地で人工的に焔硝(えんしょう)を製造する技術が発展したらしいので、可能性としては無くもないなと。

で、先に書いた「噴出すような」花火ですが、何となく同じように感じるのが、忍者の火術で使用されたとされる「取火(とりび)」です。
これは、火薬を詰めた銅筒の先に小さな穴を開けて、そこに点火用の火薬を入れたもの(紙に包んで穴にねじ込むのだと思います)。
で、それの後に竹束などで取っ手を付けて、討ち入りの時などに敵の正面にかざすというもののようです。
イメージとしては、コンビニで売ってるような家庭用手持ち花火の大型版とでも云えましょうか。
ただ、これは建物に討ち入るような時は効果あっても、戦場のような広い場所では、却って敵の矢玉の目標になりかねませんね(笑)。

それより、もっと実用的で尚且つ娯楽にもなったものと云えば、狼煙(のろし)火だと思います。
これは、燃す植物や混ぜ物によって、煙の色を変えたりしたりと、やはり戦国期に進化したようですが、仰られるようなロケット花火のようなものも実用化されていました。
これの姿を、発展させながらも、比較的良く伝えているのが、龍勢(流星)だと考えています。
近辺では、埼玉の秩父市や静岡の岡部などで伝統祭事として行なわれています。特に前者は、北条時代に焔硝の生産を行なっていた地域ですので、その技術が村の催事として伝わっていたのかも。

龍勢の詳細が、秩父市吉田町の観光協会HPに載っております
http://www.ryusei.biz/festival/ryu01.html

こちらは岡部町
http://www.town.okabe.shizuoka.jp/kankou/m_ryuusei.asp

また、ちょっと気になったので、Wikiでも検索してみましたら、三河花火というのがありますね。
ここの、手持ち花火や羊羹(ようかん)花火なんてのが、「焼き立てる」ような花火とか、「取火」に近いかも。
筒構造の安定性や、火薬の規模はとても進歩してるようですが、こうした形の初歩的な火術だったような気がしてきました。

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