カテゴリー「古建築」の16件の記事

家族でプチ東京旅行

今年のゴールデンウィーク前半は、久しぶりに家族で1泊旅行でした。
行先は東京ど真ん中。
まるでお上りさんですが、かえって空いてて良かった。
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両親の結婚40周年てことで、お宿は皇居に近いホテルに。
私1人だったらこんな高いトコ泊まりません。

でも、皇居の周りは広々としてるし、緑もあってゆったりした気持ちにさせてくれますね。
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部屋からは二重橋がなんとか見えました。
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あたり前ですが、皇居の周りには高層建築が接してないので、結構遠望が利きますね。
国会議事堂や警視庁、法務省なんかも良く見えました。

その分、夜は本当に真っ暗なんですが(笑)
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連休なので、周りのオフィスビル群もヘリポートの赤ランプが目立つばかり(笑)
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まあ、地方育ちの私達一家には、このくらいの方が落ち着いて寝れて良かったです(笑)

夜は、両親はジャズを聞きに行ってしまったので、私は神保町書店街をぶらぶら。
秋葉原の方まで歩いてきましたが、ここはほとんど外国人ばかりでした。
タイとかインドネシアの人が目立ったかな。
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ターバンを巻いた女性がいたので、イスラム圏の家族だと思いますが、中央分離帯で記念写真とか危ないですね。
最近の秋葉原の夜の光景って、こんなんなんでしょうか?
(夜の秋葉原って、親父とビデオデッキ買いに来た80年代しか記憶に無いもんで…)

翌朝は、せっかくなので家族で皇居の周りをウォーキングしてきました。
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画がなんとなくボヤけてるのは、携帯のカメラだからです。
実は、持参のデジカメが壊れちゃったのでした。10年位使ってきたのでもう寿命だったんでしょう。

外桜田門と警視庁ビル。
この日は昭和の日ということもあってか、皇宮警察OBらしき方々が桔梗門に入って行く姿が見られました。
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外桜田門の説明板には別名で小田原口門と書いてあり、両親は興味深げに読んでいました。
肝心の門は整備工事中で覆われてしまっていましたが(笑)

掲示写真を見ると、一部はかなり傷んでいた様子。
白アリの被害も進んでいたようです。
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工期は今年6月までとありました。
屋根や漆喰も新しくしてるようなので、綺麗に生まれ変わるでしょうね。

桜田堀。
この辺りから吹上曲輪にかけては、堀のラインも自然地形でなだらかだし、(鉢巻石垣が樹木に隠れて)土塁の緑も映えて穏やかな景色ですね。
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堀の対岸はメッチャお堅いですが(笑)

法務省旧館。
映画『トラ・トラ・トラ』では、海軍省として門前の衛兵交代シーンが登場したのが印象的でした。
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復元なった東京駅舎と併せて見物する観光客も増えているのではないでしょうか。

そして国会議事堂。
近年外壁のクリーニングが行われ、花崗岩の白さが甦りました。
確かに、小学校の遠足で行った頃はもっと煤けていたような気がします。
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総理大臣官邸。
左が旧官邸で右が現官邸。
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生垣越しなんで余り見えませんでしたが、周りはお巡りさんだらけなので、覗こうとする気にもなりませんです(笑)
門も二重の柵で閉ざされて現代の枡形虎口のようでした(笑)

山王下からふり返った官邸。
やはり、官邸の場所も高位の要地を占めていますね。当たり前っちゃあそうですが。
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この時、安倍さんはロシア訪問中。
封鎖や警備は普段より薄かったのでしょうが、周りはお巡りさんばかり。やはり、緊張してしまいました。
2.26事件で有名になった山王ホテルがどこか気になりましたが、そんな昔の建物は全然残っていませんでした。

せっかく首相官邸近くまで来たので山王神社へ。
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随神門にかかるは「皇城の鎮」。
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もとは太田道灌勧請の江戸城鎮護社ですが、今は皇宮に最も近き社、そして裏鬼門守護の社としても崇敬を集めています。
ちょうど昭和の日。元旦以外の祝日に家族揃って参拝したのは、七五三の時以来かもしれません。
せっかくなので、皆で国・民の安泰繁栄を祈りました。

こちらは境内摂社の稲荷神社と猿田彦神社(八坂神社を合祀)。
奥の猿田彦神社は山王の神使である神猿ともされ、今でも庚申祭が行われているとの由。
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手前が稲荷社で、こちらは境内で唯一残る江戸時代の社殿。
徳川幕府による造営社殿として、貴重な文化財に指定されています。
朱漆塗りに瓦葺の社殿、小ぶりながらも一番見栄えがしました。

休憩所には、わたせせいぞう氏によるオリジナルポスターが。
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私、一時この方の絵が好きで本やカレンダーを買ってました。
この絵馬があっても良いのにな。

それから、議員会館、自民党本部、最高裁、などを見て半蔵門へ。
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11時近くになると、陽射しもかなり強くなってきました。
お堀周りを走るランナーもひっきりなし。ちょっと多過ぎるくらい。

目の前を通り過ぎた外人ランナーさんの後姿を追ってたら、こちらに入って行きました。
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英国大使館。綺麗な正面ですね。

国立近代美術館の工芸館。建物は、かつての近衛師団司令部です。
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皇居の周りは、古い官庁建築を見る楽しみもあって飽きません。

北詰橋門から皇居東御苑、旧江戸城本丸へ。天守台。
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皇居や官庁街をぶらぶらしたのは、家族皆初めてでした。
ずいぶん遅い社会見学(笑)ではありましたが、日本の中枢部のスケールを実際に足で感じれたのは何よりでした。

チェックアウトはお昼まで大丈夫でしたので、部屋で小休止。

帰りは、私の希望で、羽田空港に寄り道して行きました。
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実はボーイング787を見たかったのですが、さすがに国際線ターミナルの駐車場は混んでいて止まれませんでした(涙)
エアバスって、あんま好きじゃないんですよね。

連休前半ではありますが、道路がとにかく空いてて楽でした。
小田原のウチからだと、行楽客の流れと完全に逆なので、行きも帰りも無渋滞。
というか、いつもより断然空いてました。
西湘バイパス乗ってから首都高で銀座に降りるまで、たったの1時間半でしたから!

ウォーキングは思ったより距離あったけど、都心で時間を気にせず過ごせるってのはいいですねえ。
来年の連休も東京にしようかな(笑)

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内野家住宅見学

今日、小田原市板橋の旧東海道沿いにある内野家住宅を見学して来ました。

この内野邸は、明治36年(1903)に建てられたもので、醤油工場と店舗を兼ねた住宅でした。
「武功醤油」ブランドで、3代約100年醸造事業を続けましたが、昭和55年(1980)に廃業しています。

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建物は建築以来何度か手が加えられていますが、外観など基本的な部分は大きな変化は無いようです。
黒いなまこ壁の土蔵造りが特徴的で、1階正面出格子があるところはかつて店舗だったところ。左右に隠居所(茶室)と袖蔵が並び、裏側に母屋と醸造所があります。

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母屋2階。
書院や欄間が往時の豪華さを伝えています。
長押に掛っている絵は、秋暉と号があったように見えましたが、岡本秋暉かどうか。傷みが目立つのが気になります。掛け軸の一筆は、山縣有朋かも?
床に飾ってあるのは近代的な毘沙門天像ですが、彫刻も細かく、ダイナミックな動きがあって味があります。

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干網の景色を表現した意匠。
桟が現在のものより細いです。

裏の旧醸造所。
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中は廃業当時のまま、今も残されています。
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内野邸2階から望む石垣山。手前の水路は、箱根芦ノ湖水系の早川から小田原城下へと水を引く小田原用水。北条時代に設けられたと考えられています。
たまたま、道路向かいの家が解体された後だったので、こういう広い景色が見れました。

内野邸は現在も内野氏の所有ですが、地域の貴重な文化財・景観構成建築として、市民団体「板橋まちなみファクトリー」によって保護・運営が図られています。今後も是非頑張っていってもらいたいと思いました。
http://machifactory.blog.ocn.ne.jp/

今回の見学目的はこの内野邸だけでなく、むしろ、この連休期間のみ特別公開の「石切青木家文書」展でしたが、その話はまた今度。

それにしても、醤油会社の商標マークというか社紋は、亀甲紋が多いですね。
この武功醤油もそうです。亀甲紋の中に「武功」と記し、その下に「おいしい内野のブコー醤油」と書かれた古い看板が置いてありました。
何か好まれる理由があるのでしょうか。

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黒田長成別邸

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公開中の旧黒田長成別邸「清閑亭」に行ってきました。
場所は南町1丁目で、報徳二宮神社側から旧城内高校正門への坂を上った途中左手に門があります。

清閑亭は、国登録有形文化財に指定されており、2年前に所有者であった第一生命から小田原市が買取りました。
今まで年に数回の公開のほかは通常公開されていませんでしたが、今月より、地元で街おこし協議などしているNPO法人「小田原まちづくり応援団」による実験的活用として、無料の建物公開および有料の喫茶サービスが供されています。

建物を構えた黒田長成は、最後の筑前福岡藩主・黒田長知の長男。
英ケンブリッジ大を卒業し、貴族院議員を経て貴族院副議長を長年務めた人物です。晩年は枢密顧問官でした。

この小田原別邸を建てるにあたっては、立地である天神山の尾根続き高台に邸を構えていた閑院宮(載仁親王)家の土地を一部購入したようで、同宮家との関係を考えさせます。
のちに長成の長男・長禮(ながみち)は、載仁親王の第二王女(茂子)を妻に受けています。
「静閑亭」の名の由来は、長成の妻・清子(島津忠義の娘)と閑院宮家から一字づつ採ったのでしょうか。

建築は、一部2階付きの木造平屋建て。
入母屋造りの純和風で、主屋は数寄屋風書院造り。
ほぼ全室とも海に面しており、ガラス戸も大きく採られて大変開放的。
前に障害となる高層建築が無いので、今でも海からの風がよく入ってきます。
築年は明治末から大正初期。
戦後黒田家から所有が何度か移るなかで解体・増築がなされているらしく、まだ不明な点があるようです。

主屋で一部使われている杉戸絵は、かつては小田原藩の絵師・岡本秋暉の作ではないかと言われていましたが、否定されているようです。しかし、画風は似ているので弟子筋ではないかとも。
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絵の構図が現在の戸の大きさに調和していない点などから、他所から持ち込まれ加工されたもののようです。


現存している建物は概ね良く残っていますが、手を入れたい老朽化した箇所は内外ともに見られました。

昨年末のNHKドラマで放送された『坂の上の雲』主人公の1人、秋山真之は、小田原の山下亀三郎邸で最後を迎えますが、山下邸は清閑亭の南に近接していました。
山下亀三郎は山下汽船の創業者で、現在では横浜の山下公園などにその名前が残っていますが、彼は秋山と同じ愛媛の出身です。
現在山下邸は当時の石垣くらいしか残っていませんが、清閑亭の庭からは今でも海が見渡せ、往時を偲ぶ事が出来ます。

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小田原まちづくり応援団による一般公開と喫茶サービスは、今月いっぱいは毎日、以後は土日のみの公開とななるそうです。
メニューは300円のコーヒー(菓子付き)だけですが、見学者が少ないのでとても落ちついたひと時を味わえました。

せっかく市の所有になったのだから通年オープンにして欲しいとも思いますが、四角ばった公共施設というのも味わいが無い…
現在行われているような、飲食やリラックスの空間が今後も供されるよう期待したいです。
今回の活用実験からどのような見解が出されるのか分かりませんが、個人的には鎌倉の「大佛茶廊」のようになってくれたら素敵だなと思いました。


それから、清閑亭の旧正門脇にある土手は小田原城の三の丸外郭土塁です。
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堀の方はちょうど、「和菓子・菜の花」の工場裏にあたります。
土塁・堀ともに大変良好に残存しているように見えます。
ここは三の丸の箱根口門から西に続く水堀が、空堀に変わる付近にあたりますが、正保期の小田原城絵図では、周囲が薮や畑に描かれています。
規模は大きく、北条時代の土塁が踏襲されていたのではないでしょうか。

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お礼参り&プチ史跡めぐり(近代編) 後編

山角天神の前を東に暫く歩き、国道1号線をまたいで南側の住宅地へ。

こちらも別荘地として利用された地域で、小田原文学館(旧田中光顕邸)のある西海子(さいかち)小路周辺は、まだ高級住宅地の面影がある。
この辺りは政治家というよりも、斎藤緑雨、谷崎潤一郎、村井弦斉など文筆家が一時住んだ場所として知られ、また観光にもPRされている。
ただ、昭和の戦前などは軍人や企業家の宅地というイメージが濃かったようであるが。
さかのぼって戦国時代は、北条家重臣・松田氏や侍医・田村安栖軒の屋敷があったとも伝わる。

小田原文学館は、西海子小路に面してはスパニッシュ様式の洋風な姿を見せているが、裏にあたる南門に回ると、純和風の門構え。
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和館は、旧田中光顕別邸から他の所有者を経て今では小田原文学館別館「白秋童謡館」となっている。
昭和初期の頃まで流行った、このように敷地内に洋館と和館を設けるスタイルでは、公邸と私邸という性格づけされていた事が多かったようである。
建設当時の趣がどれだけ残っているのかは知る由もないのだが、ここのエントランスの場合、私は和館入口の方が好みだ。
桜並木が続く西海子小路側も、玄関前に車入れの小さなロータリーがあったりして格好良いのだが、南門の方が土手越しに松や竹など樹木が覗いて、いかにも海沿いの邸宅らしさがある。
また、ここからは、箱根の最高峰・神山と豊臣秀吉が陣城を築いた石垣山が一直線に見えて、山並みの奥行きが楽しめるのも良い。
開いていれば、庭でも見て行こうかと思ったが、すでに年末休館に入ってしまっていた。


伊藤博文の別荘「滄浪閣」は、ここよりもう少し東で、海の間近にあった。
今の小田原海岸は西湘バイパスが眺望を遮って大変せわしない光景だが、昔は名の通り、目前に蒼き波寄せる風情があったのだろう。
(交通に便利ではあるが、大磯から西湘地域の海岸はコレのせいで風情がまるで台無し)
伊藤の小田原別荘はこれよりさき、小田原の上幸田に設けた、父・重蔵の別荘があった。
小田原における明治の別荘ブーム先駆けの一人とも言える。
とはいえ、1890年に建った小田原滄浪閣の寿命は短く、結局、7年後に小田原沿岸を襲った大海嘯で被害を受けてしまう。以後は大磯にも併設していた滄浪閣に移転した。
現在「滄浪閣」として有名なのはこちらの方だ。
隣接する別荘群もまだ健在というか、よく残っている。殆どが非公開なのが残念ではあるが。


閑院宮や山縣有朋、三井物産の益田孝(鈍翁)らが小田原に移り住んだのは、日露戦争後である。
これら第二次別荘ラッシュも関東大震災で再び停滞し、以後の小田原は政界よりも財界や文人らの保養地・別荘地という顔の方が濃くなった。

関東大震災以前の小田原の別荘建築で残っているものは殆ど無いのではなかろうか。
だが、有名な物件の一部は移築され、今でも見ることができる。
例としては、小田原城二の丸跡にあった御用邸の御座所が横浜市の光明寺に移築されており、
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=86927
また、山縣有朋の古稀庵は洋館が栃木県の有朋記念館に移築され
http://general-yamagata-foundation.or.jp/
和館の一部は、箱根湯本ホテルの「暁邸」として、豆腐懐石の席に供されて今も使用されている。
http://www.hakone-yumotohotel.com/bakery/tei_index.html

古稀庵の土地そのものは、あいおい保険の小田原研修所に使用されている。ここは日曜に限って一般拝観も受け付けている。


話が逸れてしまった。
さて、小田原滄浪閣を偲ばせるものは、民家の庭先に残された伊藤博文の胸像と、記念碑のみとなっている。
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ただ、胸像の足元には、 李垠(イ・ウン)大韓帝国皇太子の子・李玖(リ・グ)や、 戦後皇籍離脱した賀陽宮文憲王の記念碑なども残っており、 なんだかここだけ戦前から時代が止まっているような気にもなる。

ついでながら、この記念碑が立つマウンドは、戦国小田原城総構の海岸土塁の残欠である。
一部の寺院境内を除けば、宅地化した周囲には殆ど海岸土塁は残っておらず、偶然ながら、伊藤博文の記念碑が立っていたせいで残されたのだろう。
地元では良く知られている場所ではあるが、民家の一角なので留意されたい。

寺の塀が続く通りを進んでいくと、右手に海岸に降りる道が開ける。
砂と石混じりのひなびた浜だが、これが小田原の海水浴場である。
海水浴場といっても、すぐに深くなる、いわゆるドボン。
海に慣れない土地からのお客さんにはとても勧められないものだが、「御幸の浜」と親しまれている。
これは、1873年の夏に箱根離宮に避暑する途中の明治天皇夫妻が、小田原で一泊し、その折、ここで漁師の地引網を高覧賜った事を記念して名付けられたものである。
海岸が痩せて、今ではかなり名前負けしている。
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それにしても、この時期の浜はことに線香くさい。
風向きによっては、結構の墓参の煙が流れてくる。
総構の内外に沿って寺院が設けられる事は、近世城下町の特徴の一つでもあるが、小田原の場合は南を海岸に接している為、砂浜から浜土手を超えると内側はほとんど寺域、すなわち墓地なのであった。
現在は寺よりも住宅が多いが、住んでいる家々でも結構線香の匂いがきつい時があるのではないかと察する。

御幸の浜入口から再び国道方面へ戻り、途中右に曲がる。
蒲鉾や干物、鰹節の工場や店が立ち並んでいる。
この辺りは古くからの漁師町で、旧町名で千度小路という。
由来は、船頭が多くいたからとか、松原神社の門前地にもあたる事から「百度参り」や「千度参り」に因むのだとかいうが、確認した事が無い。
途中、小田原の蒲鉾屋でも有名ところの一つ、「籠清(かごせい)」本店がある。
関東大震災後に再建された頑丈そうな木造建築で、店の看板「加古淸」の字は、さきにも触れた益田孝の筆によるものだ。

どうでもいい事だが、我が家は蒲鉾・おでんの種はいつも籠清で買っている。
せっかく色んなメーカーがあるのだからと、たまに他店のを買ってくるが、やはり慣れた味に戻ってしまう。
さつま揚げだけは大磯の井上が極上と勝手に思っているが。

店先を過ぎると、松原神社はもうすぐ近く。
境内は参拝客は他には無く、静かに今年のお礼参りを果たした。

ここの祭礼はかつては正月15日だったが、変遷もあり、現在は5月連休の「北條五代祭り(3日)」翌日の4・5日に行われている。
また3日のパレードにも参加しているので、神輿は見る事が出来る。
漁師町らしい独特の神輿かつぎなので、観光で訪問される方には、行列だけでなく是非ともこちらも見ていってもらいたいもの。

これにて、お礼参りを兼ねた歴史散歩は終了。
祖父の墓参りと近くの不動尊に参拝して、家路に就いた。

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お礼参り&プチ史跡めぐり(近代編) 前編

今年の大河、もとい年末ドラマの『坂の上の雲』が予想以上に面白いので、さる28日、今年のお礼参り(寺社)のついでに関連旧地などに立ち寄ってみた。

まず小田原駅にほど近い小田原城址公園へ。
ここには後北条氏が江ノ島から勧請したとされる弁財天がある。
10年程前に不審火で社殿が焼け落ちてしまい、今は跡地にささやかなコンクリ弁天像が置かれているだけである。 でも、よく参拝してる人は少なくないようだ。

梅子が居ない本丸広場はやはり寂しい。
市立図書館(城址公園内にある)へ行く折も、もう足を止めることはない。
足早に横切って、南曲輪となりの報徳二宮神社へ。
ここの祭神は二宮尊徳。
小学校の金次郎像では知名度は高いが、実際は幕末の藩や幕府直轄領の農村立て直しに大きな功績があった人物である。
個人的には、今の時代にこそ見直したい人物のお一人。

その後は、松原神社(小田原城下町の総鎮守)へ行くのが毎年のお礼参りのコース。
だが、今回はさきに書いたように寄り道をしてみた。

二宮神社の鳥居を出た近くにある、報徳博物館(神社の宝物館を兼ね、尊徳とその弟子達の仕法等を紹介している)脇の道を上っていくと、天神山。
戦国時代の小田原城では、三の丸総構を構成する一つの重要な高地でもあった。


この辺りは、小峰の閑院宮邸から尾根続きでもあり、東海道の近くにして相模湾が望める景勝地でもあったので、早くから閑静な住宅・別荘地として利用されている。
だが、現在は空き家が多いようだ。
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ここに建つ県立城内高校も明治以来の女子高として地域に親しまれてきたが、数年前に近くの小田原高校に吸収合併され、今では校札が外された空校舎となっている。
それでも敷地内の清掃は時どき行われているようで、時計もまだ正確に動いていた。

この門前から東海道(国道1号線)方面に下ると、左手に小さな山角天神社の境内がある。
山角(やまかく)というのは地名で、戦国時代に小田原北条氏の家臣・山角氏の屋敷がこの辺りにあった事から、「山角町」と称されてきた。
現在でも、まだ通用する旧町名の一つである。
社宝に北条三代氏康が奉納したと伝わる天神像があり、祭礼の折などに公開されている。
今の本丸域が早くから城の居館になっていたのなら、ちょうどここは裏鬼門。
弁天さんと共に城の守護とされてもおかしくない。

この神社を下ると、国道一号線に沿って裏通り的な生活道路が左右に続いているが、その一角に実業家・山下亀三郎の別邸があった。
私は良く知らないのだが、この人は山下汽船の創業者で、横浜の山下公園も彼が寄贈した事に因むとかいう話だ。
前置きが長くなったが、ここがようやく『坂の上の雲』関連の地となる。
今では何も残っておらず、知る人ぞ知る関連地ではある。
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さて、この山下邸が、秋山真之が臨終を迎えた場所だった。
真之と山下は親しく交際があったようで、日露戦争開戦の折に海軍に徴用船を提供したり、貨物の手配を引き受けたりした事で、企業が大きく成長するきっかけともなったらしい。

孫にあたる、民主党の大石尚子議員のHPに小さく載っていたが、箱根療養中に盲腸炎を再発した真之が運び込まれたのが山下邸で、結局、手遅れとなってそのまま帰らぬ人になってしまったのだった。
http://www.oishihisako.com/book/kotoba.html

こちらにも小さな記事が最近紹介された。
http://www.townnews.co.jp/020area_page/04_sat/02_odaw/2009_4/12_26/odaw_top2.html


ちなみに、山角天神の階段脇には「瓜生海軍大将」なる胸像が立っている。
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この人は、日露戦争の初期の仁川沖海戦で戦隊を率い、成功させた瓜生外吉少将(後に大将)その人で、彼の邸宅がこの上にあった。
神社脇の小道は、瓜生邸へ自動車が乗り入れできるよう水兵たちが開削した道で、今でも「瓜生坂」と呼ばれているそうな。

この辺りから箱根にかけての南向き(海向き)斜面には、こうした別荘用の私道に因む(今では公道に供されている)小道が幾つかあるようだ。

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八つ墓様の祟り

…は、ありませんでしたが、尼子氏の黄金山城跡には登る時間がありませんでした(+。+)

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行ったのは、映画のロケで多治見家に使用された広兼邸です。


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近くの吹屋中町集落に泊まりましたが、とても静かな山村。

岡山牛と鮎の塩焼きで、一人晩酌を楽しみました。

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菊華邸

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夕食は会席、別棟の菊華邸へ。

もとは宮ノ下御用邸の建物と庭で、明治28年、葉山御用邸の一つ前にできたところだそうです。
後、高松宮家の別邸。
ちょうど現在、小田急ロマンスカーのCMにここでの映像が出ていますが、私たちが行った時はもう完全に夜でしたので、こちらの庭はあまりよく見れませんでした。


食事は大変おいしゅう御座いました。
ですが、会席は私、普段ほとんど食べませんので、比較できませんです(笑)。
メニューも、そのつど丁寧に説明してくれましたが、多すぎて右から左へと耳を抜けていき…。
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写真は中八寸のメニューですが、一番秋らしい色合い。
くわいの下にあるのが、紅葉芋とか言ったかな。
さっきググッたら、種子島産が有名らしい。
なんでも、日本伊伝来した薩摩芋の原種に一番近いのだとか。

あと、昨日も走り書きしたけど、芋蕎麦の天ぷら。
また、芋ですが(笑)
噛むほどに甘さが出て美味しかった。
それと大黒シメジの化粧揚という、蒸し海老をシメジに巻いて天ぷらに揚げたようなのが強肴に。これもグッドでした。


〈祖父をしのぶ〉といえば、この建物絡みの思い出話があります。
祖父の母は宮城野村(現・箱根町宮城野)の出身で、親族も宮ノ下に近い木賀温泉で、ある企業社長の別荘管理人をしていました。
子供の頃の祖父は、従兄弟や近所の子とそこに遊びに行っては、当時の田舎では珍しかった食パンを食べさせてもらったとか言ってました。

ある日、祖父らが出かけてみると、別荘に高松宮家(たぶん菊華荘)から何かの用事で、車が停まっていました。
もちろん、子供たちは自動車に興味津々。
そして、嬉しいことに、運転手さんが祖父と従兄弟を宮城野村まで送ってくれたのです。

村の人はビックリ。
菊ナンバーの車が来たのを見て、深々と頭を下げて最敬礼(笑)。
しかし、中から出てきたのは近所の小僧。
二度ビックリ。
のんびりしていたんですねえ。
運ちゃん、後で怒られなかったのでしょうか。

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そんな、祖父のネタ話など交えつつ、久々に親族達で楽しみました。

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西洋館

部屋は、花御殿ではなく、西洋館。
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明治24年の本館よりは新しいですが、花御殿(昭和11年)よりは古い、明治39年です。
http://www.fujiyahotel.jp/stay/room.html

西洋建築の方はなんていうスタイルか分かりませんが、それに唐破風と花頭窓が付いた折衷デザイン。
白色を基本に、一・二階の瓦を和瓦で統一してるので、それほどオーバーデザインな感じはしませんでした。

部屋は天井高いし、ゆったりしていて、過ごしやすいです。

ただ、古い木造建築&もともと外国人(西洋人)向けホテルということで、多少使いづらいです。
というか、「こんなクラシックホテルで宿泊したい!」という人以外には向いてません。

ほぼオール木造なので、夜中のテレビ音量を気にしたり、全室禁煙(当たり前ですが、文化財保護のためです)だったりしますし、配線工事も余り出来ないらしく、オートロックではありません。
お風呂(温泉)も部屋の西洋式バスが基本です。
大浴場もありますが、別棟。

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あと、エレベーターが無いので祖母には少々不便でした。
一応〈祖父をしのぶ会〉ですが、祖父本人が来ていたら、きっと
「こんな風呂やーなこった!へーってらんねーよ」
と文句タレてたことでしょう(笑)。

もちろん、私は全身で満足。
こんな部屋、滅多に泊まれません(涙)。

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海老カレーと紅葉見物

心静かになったところで、再び登山電車へ。
ホームの傍らには色あせた「阿弥陀寺」の案内板が。

塔ノ沢の旅館「環翠楼」で亡くなった和宮を仮葬儀したお寺で、そのご縁から後日、増上寺から和宮の念持仏を受けたといいます。
今年の大河ドラマの影響で少しは参拝客も増えている事と思うが、この看板を見る限りでは、お寺はあまり気張っていない模様。


再び、電車に乗って、宮ノ下へ。
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老舗の富士屋ホテルへ。やや急ぎ足。
昼飯♪昼飯♪
カレー♪カレー♪

この夜は近在の親族だけで「祖父をしのぶ会」。
夕食だけでなく部屋を取るのは初めてで、文化財な近代建築をじっくり見れるのを内心楽しみにしていました。

チェックインは2時半でしたが、この日はちょうどカレーフェアが行われていると知り、私だけ早めに来たのでした(笑)。
http://www.fujiyahotel.jp/event/index.html
もう2時近かったので、ちょっとアセアセ。

食事は、奇抜な意匠が面白いダイニングルーム「The Fujiya」(昭和5年建築)ではなく、普段は宴会場に使っているカスケードルーム。
まさに、気軽なランチイベントという感じですが、こちらも大正9年の建物。
寺社を模した組物に、箱根がテーマの欄間装飾とステンドグラス。
大名行列や駕篭かき、芦ノ湖など描かれていて、見ていて飽きませんでした。
もともとボールルームとして作られたホールとのこと。
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窓際のテーブルから見る紅葉もなかなか見ごろでした。

カレーは、小海老のカレーを。
ナッツとクリームっぽいマイルドなカレーです。
ソースは多分、チキンやビーフと同じかと思います。
まあ、イベント用のメニューですから、きっと午前中に調理して作り置いたものだと思います。
それでも、海老肉の硬さはしまり過ぎず、ちょうど良い食感でした。
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カレー好きな自分としては、具よりもソースがもう少し欲しかったですがね(笑)。

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古民家探訪・岩瀬邸

先週末、文化財保護イベントの一つとして、地元でも古建築数件が公開された。
いずれも私有建築で普段は公開されない物件である。

毎年この時期に行われているもので、今回私は特に行く気は無かったのだが、この岩瀬邸は、自宅から最寄り駅へ行く途中にあるお宅だったので、もののついでに寄ってみた。

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岩瀬邸は、坂東三十三観音札所の飯泉観音への道「順礼街道」から少し奥まった地域にある。
このあたりは細い路地に生垣が巡らされた旧農家(現役の方もいる)が立ち並び、鎮守や道祖神、不動堂などが辻などに点在し、昔ながらの光景が良く残されている。
現存する茅葺屋根の古民家は二件。
岩瀬邸はその一つである。

岩瀬家はこの地の豪農の一つで、この家からは戦中から戦後にかけて三越の社長を務めた実業家・岩瀬英一郎氏が出た。
昭和三十八年に亡くなるまで、日経連常任理事および日本百貨店協会会長を務めている。

さて、黒塗りの板塀に沿って歩き表門に至ると、市が設けた説明板がある。
門柱の脇にある銅板製の解説板によれば、安政4~5年に建てられたとのことである。市内の優れた建造物に認定されている。

邸内に入ると、数名ずつの小グループに分かれて説明をして頂いた。
玄関から土間を抜けて裏庭に出る勝手の戸板は、もとの玄関戸だったらしく、通用口を引く向きが逆であった。

裏庭、というか勝手側の敷地には大きなケヤキの木が何本か立っている。門外からも見える大きな木で、この建物と一体の景色を成している。

そのはるか樹上ではオナガがギャーギャー鳴いていた。
営巣しているようだ。
後ほどお話したご主人曰く、
「見かけは良いが、声がひどくてね」

オナガは名前通りに尻尾が長く、羽や尾の一部が青色でなかなか美しい鳥なのである。
だが、声はカラスより酷く、ダミ声ときている。
それでも、近所の並木ではムクドリの大群による糞害が問題になっているから、ここのオナガ達は良い意味で守り鳥ではあろうか。

さて、建物だが。
市の文化財事業ということで、最近になってコンクリート固めの土間をはがしたり、裏の蔵の修復などが為されたようであった。

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とはいっても、今でも岩瀬氏が住んでおられるため、生活に必要な手は入れてある。
例えば、土間とデイ(土間から上がる板の間)の間は、長押の上、梁から棟木までの隙間は、板や土で埋められていた。防寒のためかと思うが、これは何となく英国のハーフティンバースタイルを連想させて美しかった。

間取りは、入口から土間に入って左手にデイ、手前奥に座敷が二間(仏間と書院造りの客間)。裏側奥は元は納戸のはずだが、今は居間に使っているようだった。
相模地域に多い、三間三間取りの農家造りが基本だが、一間分横長に大きい。
木鼻のような装飾もあり、これが安政年間当初のものかどうかは尋ねなかったが、経済力のある農家だったのだろう。

構造など、基本的な部分はオリジナルを残しているようである。
無論、幕末の建物だから長年の間にあちこち手は入れてるのだろうが。

最後の大きな工事は大正時代の震災前だという。
それだけ頑丈であったということか。

ご主人によれば、今後も保存活用していくご意思のようで、茅葺の維持のために囲炉裏を作ろうかなどと考えておられた。

県下でも、保存されている古民家は幾つかあるが、生きている古民家は少ない。
今後も現役を貫いて行って欲しいと思う。

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