後北条時代の城下屋敷
後北条時代の小田原城下の様子が少しづつ明らかになっています。
越前一乗谷とまではまだまだいきませんが、後北条時代の高位な人物の屋敷跡と思われる遺構です。
昨年の日記には書かなかったので、前回昨年3月(第Ⅵ地点)と今年の4月(第Ⅶ地点)に見学してきた「大久保弥六郎邸跡」の発掘調査現地見学会の様子をまとめて簡単にご報告。
場所は、小田原城址公園二の丸水堀と国道1号線に挟まれた旧三の丸エリア。
ちょうど東電小田原支社の真裏で、西側に小田原城天守が望めます。
(平成26年4月 第Ⅶ地点)
将来、小田原市民会館の再建予定地とされ確保されている土地で、それに伴う発掘調査が数年前から継続されています。
遺跡名は、江戸幕末の小田原城絵図「文久図」によると、同地は小田原藩大久保家・家老の一人、大久保弥六郎の邸跡だったところから。地元では“隅の大久保さん”で知られている屋敷地の一角でしょうか。
(平成25年3月 第Ⅵ地点)
発掘調査の結果からは、江戸中期の富士山宝永噴火による火山灰や焼土の処分穴、戦国期北条時代の屋敷に伴う井戸や半地下式倉庫、屋敷の区画や建物の方向軸を推定させる石組み水路や溝が確認されています。
遺跡名になっている江戸後期の遺構はあまり目立ちません。それは、この当時の屋敷が二の丸水堀側が表として建てられていたためであるようです。
江戸中期に火山灰や焼土の投棄穴が設けられたのも、同じく屋敷裏手の空閑地であったからだと推定されています。
火山灰の投棄穴の様子は昨年度にも見られましたが、これらは同屋敷地内に積もった火山灰を集めて捨てたものでしょう。この灰は捨て場所に大変困り、後々酒匂川の川床が上がって大水害を起こす原因にもなったものです。
(平成25年3月 第Ⅵ地点)
焼土は、火山灰の下に堆積している状況が分かりますが、これは噴火の前年に起こった大地震に伴う火災の跡かもしれないとのこと。同覆土中からは被熱して溶けた陶磁器片なども出土しています。
(平成26年4月 第Ⅶ地点)
出土している陶磁器片は、肥前産の高級磁器が多く、鍋島も出ています。この事から、江戸中期も重臣クラスの屋敷地であった事がうかがえます。地震か噴火時に割れてしまったものでしょうか。もったいない…。
近世中期以降に反して、後北条時代の面では、最も濃密な遺構が検出されています。
(平成25年3月 第Ⅵ地点)
東西に走る石組み水路、半地下式倉庫と思われる竪穴、大規模な石組み井戸、多量の柱穴群といったもので、複数の遺構からある程度のプランの規則を推測できるようになってきたようです。
遺物は、かわらけや茶碗、甕など国産陶磁器片、染付等の舶載磁器片などのほか、今回の第Ⅶ地点では、当時の鋤・鍬が出土しました。
(平成26年4月 第Ⅶ地点)
北条時代の地業道具は貴重な発見といえます。
石組み水路は、幅約50㎝で、大型の河原石(早川産)を最大4段まで積み上げたものが数条。東西に延びています。
(ともに平成25年3月 第Ⅵ地点)
この北側に接する同遺跡第Ⅲ地点では、まっすぐ東西120mに渡る北条時代の砂利敷道路(幅4mで両側に石積側溝を伴う)が検出されており、これら石組み水路も同じ方向軸のもと設計されているものと見て間違いないようです。
(平成26年4月 第Ⅶ地点)
水路は溝状遺構を含めて、区画境を兼ねている可能性があります。
水路の一部には礫が敷き詰められているものがあり、これはろ過機能を期されたものかもしれないとのこと。
(平成26年4月 第Ⅶ地点)
竪穴は、方形のもの・隅丸方形のもの・長方形などがあり、規格性が見られます。深さ0.5~1.5mほど。
半地下式の倉庫であったと考えられますが、用途は不明です。
(平成25年3月 第Ⅵ地点)
(平成26年4月 第Ⅶ地点)
一部には壁面に石積が施されているものがあり、内壁の補強の為ではないかと推定しているようでした。
石組み井戸はいずれも大きく立派なもの。
(平成25年3月 第Ⅵ地点)
(平成26年4月 第Ⅶ地点)
井戸径は直径3.7mほどが一つの規格のようです。井戸端に敷石を伴うものもあり、とても丁寧に作られた井戸です。
深さも大分あります。4m以上の深さが見こまれるものも。
以上の事などから、戦国時代北條氏の小田原城下でも重臣クラスの高級宅地であった事が推定されます。
残念ながら、どんな人物が住んでいたかの伝承等は伝わっていませんが、江戸中期以降とは異なる屋並みプランであった事が分かってきました。
また、水路や土坑に使われる早川石の石積みは江戸時代にも継続された技法であり、その原型はすでに北条時代に整えられていた事も改めて目にする事になりました。
白系の石が多く用いられているように見えますが、見栄えの為なのか、石積み保持の為に石材を揃えたものなのか。
いずれにせよ、普段から適選ストックして、石積み普請を担った専門職の存在を思わせます。
居住場所から考えると、やはり石屋善左衛門でしょうか。
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