カテゴリー「現地説明会」の5件の記事

後北条時代の城下屋敷

後北条時代の小田原城下の様子が少しづつ明らかになっています。
越前一乗谷とまではまだまだいきませんが、後北条時代の高位な人物の屋敷跡と思われる遺構です。
昨年の日記には書かなかったので、前回昨年3月(第Ⅵ地点)と今年の4月(第Ⅶ地点)に見学してきた「大久保弥六郎邸跡」の発掘調査現地見学会の様子をまとめて簡単にご報告。

場所は、小田原城址公園二の丸水堀と国道1号線に挟まれた旧三の丸エリア。
ちょうど東電小田原支社の真裏で、西側に小田原城天守が望めます。
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(平成26年4月 第Ⅶ地点)
将来、小田原市民会館の再建予定地とされ確保されている土地で、それに伴う発掘調査が数年前から継続されています。

遺跡名は、江戸幕末の小田原城絵図「文久図」によると、同地は小田原藩大久保家・家老の一人、大久保弥六郎の邸跡だったところから。地元では“隅の大久保さん”で知られている屋敷地の一角でしょうか。

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(平成25年3月 第Ⅵ地点)
発掘調査の結果からは、江戸中期の富士山宝永噴火による火山灰や焼土の処分穴、戦国期北条時代の屋敷に伴う井戸や半地下式倉庫、屋敷の区画や建物の方向軸を推定させる石組み水路や溝が確認されています。

遺跡名になっている江戸後期の遺構はあまり目立ちません。それは、この当時の屋敷が二の丸水堀側が表として建てられていたためであるようです。
江戸中期に火山灰や焼土の投棄穴が設けられたのも、同じく屋敷裏手の空閑地であったからだと推定されています。

火山灰の投棄穴の様子は昨年度にも見られましたが、これらは同屋敷地内に積もった火山灰を集めて捨てたものでしょう。この灰は捨て場所に大変困り、後々酒匂川の川床が上がって大水害を起こす原因にもなったものです。
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(平成25年3月 第Ⅵ地点)
焼土は、火山灰の下に堆積している状況が分かりますが、これは噴火の前年に起こった大地震に伴う火災の跡かもしれないとのこと。同覆土中からは被熱して溶けた陶磁器片なども出土しています。

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(平成26年4月 第Ⅶ地点)
出土している陶磁器片は、肥前産の高級磁器が多く、鍋島も出ています。この事から、江戸中期も重臣クラスの屋敷地であった事がうかがえます。地震か噴火時に割れてしまったものでしょうか。もったいない…。

近世中期以降に反して、後北条時代の面では、最も濃密な遺構が検出されています。
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(平成25年3月 第Ⅵ地点)
東西に走る石組み水路、半地下式倉庫と思われる竪穴、大規模な石組み井戸、多量の柱穴群といったもので、複数の遺構からある程度のプランの規則を推測できるようになってきたようです。

遺物は、かわらけや茶碗、甕など国産陶磁器片、染付等の舶載磁器片などのほか、今回の第Ⅶ地点では、当時の鋤・鍬が出土しました。
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(平成26年4月 第Ⅶ地点)
北条時代の地業道具は貴重な発見といえます。

石組み水路は、幅約50㎝で、大型の河原石(早川産)を最大4段まで積み上げたものが数条。東西に延びています。
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(ともに平成25年3月 第Ⅵ地点)
この北側に接する同遺跡第Ⅲ地点では、まっすぐ東西120mに渡る北条時代の砂利敷道路(幅4mで両側に石積側溝を伴う)が検出されており、これら石組み水路も同じ方向軸のもと設計されているものと見て間違いないようです。
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(平成26年4月 第Ⅶ地点)
水路は溝状遺構を含めて、区画境を兼ねている可能性があります。
水路の一部には礫が敷き詰められているものがあり、これはろ過機能を期されたものかもしれないとのこと。
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(平成26年4月 第Ⅶ地点)

竪穴は、方形のもの・隅丸方形のもの・長方形などがあり、規格性が見られます。深さ0.5~1.5mほど。
半地下式の倉庫であったと考えられますが、用途は不明です。
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(平成25年3月 第Ⅵ地点)

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(平成26年4月 第Ⅶ地点)
一部には壁面に石積が施されているものがあり、内壁の補強の為ではないかと推定しているようでした。

石組み井戸はいずれも大きく立派なもの。
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(平成25年3月 第Ⅵ地点)

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(平成26年4月 第Ⅶ地点)
井戸径は直径3.7mほどが一つの規格のようです。井戸端に敷石を伴うものもあり、とても丁寧に作られた井戸です。
深さも大分あります。4m以上の深さが見こまれるものも。

以上の事などから、戦国時代北條氏の小田原城下でも重臣クラスの高級宅地であった事が推定されます。
残念ながら、どんな人物が住んでいたかの伝承等は伝わっていませんが、江戸中期以降とは異なる屋並みプランであった事が分かってきました。
また、水路や土坑に使われる早川石の石積みは江戸時代にも継続された技法であり、その原型はすでに北条時代に整えられていた事も改めて目にする事になりました。
白系の石が多く用いられているように見えますが、見栄えの為なのか、石積み保持の為に石材を揃えたものなのか。

いずれにせよ、普段から適選ストックして、石積み普請を担った専門職の存在を思わせます。
居住場所から考えると、やはり石屋善左衛門でしょうか。

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姿を現した北条氏の庭池跡

10月19日(土)、国史跡小田原城跡・御用米曲輪(ごようまいくるわ)における第5次発掘調査の現地説明会が行われたので、見学してきました。
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このエリアは、戦後長らく野球場や駐車場として活用されてきましたが、小田原城の中心的な遺構の一つ。
江戸時代の城絵図では、「御用米曲輪」や「御城米曲輪」などと記されています。
昭和57年に第1次調査が行われ、平成22年度からは、史跡小田原城跡の整備活用計画に則り、本格的な発掘調査が継続中。今までに、曲輪の名のもとである江戸時代の米蔵や瓦塀の跡、周囲をめぐっていた土塁の様相などが明らかになってきています。
昨年度(第4次)の調査では、その下の戦国期の層から、礎石を用いた建造物跡、加工石を用いた水路、庭の跡などの遺構が出土。「小田原北条氏当主の館と庭跡か?!」と、俄然注目度がアップしました。今年2月に開催された現地説明会では、雨まじりの天候にもかかわらず約1000人もの見学者が訪れたとの事。


今年度調査では、その庭の一部と考えられる池の跡が徐々に姿を現してきています。
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この遺構の興味深い点は、池の護岸が四角い石でタイル状に覆われて(葺かれて)いるところ。
このような庭池の意匠は、全国でもまだ見つかっておらず、庭園遺跡としても大変珍しいもののようです。

四角い石材は、主に五輪塔や宝篋印塔(中世の墓石や供養碑に最もポピュラーなもの)の笠や基礎の部分。その平たい面を表にして護岸に用いられています。
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出土した石材の中には、やや面積が大きめな反花座などもありますが、こうしたものが池底近くの下部に、上部にいくに従って小型の石材が積まれる傾向にあり、隙間を埋めるために再加工された石もあるようです。

また、色の違いからも分かるように、それぞれ石材の産地も異なります。
グレーや暗い青っぽい石は地元の箱根系安山岩で、明るい黄色っぽい石が三浦半島系の凝灰岩(写真では湿って暗くなってますが)。どちらもその地域ではポピュラーな石材ですが、柔らかい後者などは加工に適していたのかもしれません。
遺構を評価する人の中では、色の違う石材を意図的に用いていたのでは、と考える意見もあるようです。

残存している護岸石の様相と、現在明らかな池の規模を併せ考えると、2000個以上の石材が用いられていた計算になるとの事。これだけの石材(墓石)を集めるのも大変だったと思われます。関連文書などがあれば良いのですが。
現地説明の合間に出た話の一つに、城下山角町の調査で墓石がまとめ置かれていたような遺跡が出ているとあり、石材のストック場所として関連つけられるのか興味深い事例と思われます。

池の深さは、同時代の地表面から約130~200㎝。
池底から出土したカワラケの形状から、16世紀後半の池である事が分かっています。
現説会当日は、池に雨水が溜まってしまっていましたが、底まで、水面より石材もう二つ分ほどの深さがあるようです。
また、護岸石の一部が砂利に埋もれている状態のものがありますが、これもやや下った戦国期の造作。

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(「池」のⅠ期想定)
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(「池」のⅡ期想定)

どうやら、池の設けられた当初は石葺きの護岸池であったものに、後から砂利を入れて州浜に修景したようです。このあたりなどは、おそらく北条氏当主であろう造園発注者の趣味・意向が反映されていそうで、想像するだに楽しいところ。

池の曲線的な形状も興味を引かれます。
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小さなマウンド状だったような部分は築山の可能性もあるのでしょうか。後世の造作で原型を留めていないのが残念なところです。
写真でも分かる通り、この池の岸上に掘立柱建物の跡が出ています。
その隣にもう一つの池跡(上段の池)があり、滝で下段の池に流れていたと思われます。この建物は、それを見下ろすような形だったのでしょうか。

現在、この建物跡の部分が調査中で、戦国期の井戸や石敷の遺構が顔を出してきています。
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池の様相が戦国期でも変遷しているように、こちらも併せて考えていく必要があると思いますが、こちらも明治時代以降の廃棄坑(写真後方。瓦片などが投棄)で撹乱されており、残念ながら完存というわけにはいかなさそうです。


それから、城郭(の縄張り)遺構としての見地からは、「鉄門(くろがねもん)」とそれに伴う坂道の成立時期がより明らかになった点が大きな成果でしょうか。

鉄門は、御用米曲輪の東南側から本丸へと入る箇所にあった門です。
幾つかある小田原城絵図の中で、近世城郭としての最初の姿を伝えるものが、稲葉氏が小田原藩主であった時期にの正保年間(1645~48)に描かれた『相模国小田原城絵図(正保図)』ですが、そこにはすでに枡形門が描かれています。御用米曲輪の箇所にも「百軒蔵」とあります。

今回出土した庭園遺構は、この鉄門へと続く坂道の下へと延長していく様相を示していますので、坂道の土塁そのものが江戸前期の造成であることが明らかになりました。
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(後方のスロープが鉄門への坂道。手前の土管と石組桝は、明治の御用邸時代のもの)

御用米曲輪の土塁では、城址公園入口の側の土塁も江戸期のものであったのが確認されているので、明治まで土塁に囲われ閉鎖的空間だったこのエリアの景観は、戦国期にはだいぶ異なっていたようです。

個人的には、庭園遺構があまりに珍しいものであったためか、鉄門に関わる報道があまりされていないのがやや残念に感じています。

(現地説明会のレポはここまで。以下は、私個人の勝手な想像。自身への覚書用に)

鉄門の前身とも思われる細長い曲輪とその下段の水堀が、『加藤図』にのみ描かれています。
この明確ではなかった部分が、第3次調査以降に明らかにされているのも大きな成果ではないでしょうか。

『加藤図』は『相州小田原古絵図』といい、大久保家臣加藤家に伝わったもので、慶長19年(1614)の大久保忠隣改易に伴う小田原城破却の後から寛永9年(1632)の稲葉氏小田原入城の間に描かれたものと評価されています。
同絵図には、後世の小田原城絵図にはない「丸馬出」が描かれていたりと、前近代城郭的な古風な小田原城(前期大久保氏の頃と思われる)の状況が描かれているのが特徴ですが、これにはまだ鉄門にあたる枡形虎口は描かれていません。
代わりに、(後世の)本丸と御用米曲輪との間に、もう一つ細長い曲輪が描かれています。描き方を見る限りでは、これが本丸からの横矢を伴う導入路となっていたようです。これが道ともに廃され、よりコンパクトで洗練された枡形門となったのが鉄門なのではないでしょうか。あくまで想像の域を出ませんが。
そして、その細長い曲輪と御用米曲輪との間に描かれた水堀。
絵図から受ける印象では、この水堀が現在調査中の上段の池のエリアまで延びていたようにも見えます。
上段の池には石垣を伴う堀障子が3次調査で確認されており、前回の説明会でもその一部を見る事が出来ました。
これも想像の域を出ませんが、加藤図に描かれているこの細長い曲輪と水堀の構成は、北条時代を踏襲している可能性もあるようにも思えます。
(想像ここまでw)

庭の様相と共に、御用米曲輪と本丸との連結部の変遷の歴史がより明らかにされる事も期待しています。


御用米曲輪の調査は現在も進行中で、来年度も継続されるそうです。
次回の現地説明会は、11月23日と12月21日に予定。
少しづつ明らかになって行く過程を一般の人にもともに味わってもらいたいという、粋な計らいです。
池跡ということで、月一の見学会の度に水抜きの作業があるのでは調査側も大変な気もしますが、見学者としては大変楽しみなイベントです。無理の無い範囲でまた色々とご教示頂きたいものです。

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八幡山 現説

このほど25日(土)・26日(日)の二日間にかけて、県立小田原高校敷地内で行われている小田原城跡八幡山遺構群(第五次調査)の現地説明会が行われ、私も見て来ました。

今回は、昨年に調査および公開された西曲輪西堀に近接する「三味線堀中堀」(庭球場側の旧門脇)と、西曲輪と本曲輪の間に当たる「本曲輪北堀」(調査区は旧水泳プールを中心に)が主な調査対象。

ピンクの部分が堀で、濃い部分が調査で確認された箇所。
左側の西曲輪西堀と三味線堀中堀の北側は前回の4次調査で確認された部分。今次は、右下の本曲輪北堀と三味線堀中堀の南部分です。


下記の「財団法人かながわ考古学」さんのサイトで、現地説明会の案内が見れますので、そちらをご覧頂きたいのですが、要約しますと…

○三味線堀中堀の幅が10~11mであること
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北側(構内敷地より庭球場側)


○三味線堀中堀が南側で屈曲し、全体として西側に弧を描く形であったらしいこと
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今回確認された南側(太い根がささっているのが地山で、肩から法面)
後方は北側。中堀は西へ弓なりになっているらしい


○本曲輪北堀の幅が27~28mであること(昨年出土した西曲輪西堀より広く大きい)
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右側の白線が、本曲輪北堀の西曲輪側の条線。
白いコンクリート部分は、小田原高校の旧水泳プールの床です。
右側の石組み遺構に関しては詳細を尋ねるのを忘れてしまいましたが、「高台」下の水路石組とは明らかに違う河原石による造りです。
不覚にも堀と同じ面の遺構かも確認してこなかったのですが、近世の堀への排水路でしょうか??

城絵図や古地図によれば、堀は、このプールの向こうに抜けた辺りで南東に曲がり、本曲輪南堀(旧正門前の保護樹林)へと繋がっているようです。


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左の白線が上図の右の白線となります。覆土の状況から、ほぼ自然堆積のようです。
本曲輪北堀は堀幅だけの確認に留まりました。
この辺りに新たな部室などを立てるとのことで、工事への影響が無いよう、旧プールの床は剥がさないとされたそうです。 (でも、やはり床下までしっかり調査して欲しかったですね)


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こちらは、西曲輪から見た本曲輪「高台」の繁み。
下の黄色いフェンス内が本曲輪北堀の調査区です。

○本曲輪北堀の覆土から、埴輪(壺形埴輪、4C後半~末)が出土。櫓台と想定されていた本曲輪北側の「高台」と呼ばれるマウンドが、古墳(おそらく古墳前期)であった可能性が出てきたこと
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左の半分切れかかってるプレートが「埴輪出土位置」です。
中央の白線が本曲輪北堀の本曲輪側の条線で、トレンチ内に堀法面が出土しています。
こちらの石組みは、旧制中学時代のものかと思われます。割石の形が昨年の西曲輪西堀で出土した貯め池のものと似ています。
背後のマウンドが古墳の可能性が高くなった「高台」です。
塚が櫓台に使用されたケースもありますので、櫓台の可能性が無くなったわけではないと思います。

○埴輪は小田原市内では初の出土で、県内でも確認されている中では古期の方に属するということ
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壺型埴輪だそうです。


…などです。


こちらが、かながわ考古のサイト(表紙)
http://www.kaf.or.jp/

該当ページは、「行事のご案内」から見れます。
当日配布されたパンフもその内アップされると思います。


今回は写真的には地味なのですが、本曲輪北堀の幅が確認できたり、マウンドが墳丘であるらしい事が分かってきたりと、なかなか興味深い内容でした。
ただ、大規模だと確認された本曲輪北堀は、西曲輪北堀のように堀底まで調査されずに埋め戻される予定のようで大変残念です。
三味線堀もそうですが、今までの例からも、障子を伴う堀である可能性が高いと思われます。

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小田原城跡 八幡山遺構第四次調査 現場見学会

23日の午後、再建工事中の県立小田原高校で発掘された戦国期小田原城遺跡の見学会が行われ、見学してきました。
あいにくの雨でしたが、平日とはいえ見学者で賑わい、同遺跡に対する人々の関心の高さが現れていました。


遺跡が確認されたのは、県立小田原高校の旧校舎が建っていた土地で、今度グラウンドとなる場所。
立地は、小田原駅や城址公園の北西にあたる小山上(八幡山)で、この辺りに展開していた城郭遺構を「八幡山古郭群」と総称しています。
その内、小田原高校用地が占めるのは、西曲輪・藤原平と呼ばれていた場所で、古郭群の中心部に近い箇所です。


今回発掘された「西曲輪西堀」は、隣の藤原平との間を遮る堀ですが、今まで確認された小田原城遺跡の中でも最大級の規模になることが明らかになりました。

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堀の幅は上がおよそ23mで、下が12.5m。
(この写真で、手前と奥にチョークの白い線が引いてあるところが堀の肩になります)
深さは7m。隣接する高位の藤原平からの比高を入れると10m近くなるでしょうか。富士山の宝永火山灰層が、かなり下部にあるので、近代までほとんど手付かずのまま放置されていたのかも。

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土塁は確認されていないようですが、堀の埋め立てに崩されたのかもしれません。
法面(斜面)はいくぶん崩壊していますが、内側の方はかなり切り立った急勾配です。障子が立っている底部の方では元のシャープな法面の様子を止めていました。
(写真は外側法面)

堀底には後北条氏がよく用いた障子(堀底を畝状に掘り残し、敵兵の堀内移動を妨害する障壁)が検出。
障子の高さは1.4~1.7m。幅が底部で4m。上幅は、見た感じでは1.3m位でしょうか。かなり大きな障子です。
障子の上に刻まれている溝は水位調整のものではないかとの事。排水溝を伴う障子はたまに見るように思います。

大正時代の小田原高校(旧県二中)の池が障子の上に出来てしまって、完全な形で見えないのが残念ですが、こちらも今となっては立派な近代遺跡ではあります。
(障子の上にある半円形のモノがそうです)

興味深いのは障子の形状で、T字形を見せています。
調査区域の外で、これが十文字に交差している可能性もあるとの事。
山中城西の丸にあるような、複雑な障子堀となっているかもしれません。
(広角レンズでないのと、安全ロープの外から撮っているので、手前の障子残欠が見えませんが、中央の写真で写っているのがそうです)

以前発掘されて、やはり見学会が行われた藤原平南入堀でも、大規模な堀と障子が見つかっていますから、この周囲をそのように重防御な堀が巡っていたのかもしれません。


八幡山古郭は、後北条氏以前の大森氏時代から城があったであろうと考えられてきた地域で、城が拡張された後北条時代にはそれほど手を入れてなかったのではないかと思われてきました。
その認識が、これまでの調査で大きく改められつつあります。

今回発掘された西曲輪西堀や、藤原平南入堀などの例を見ても、豊臣秀吉の来攻に備えて築かれた大外郭に匹敵する規模。
そのような事から、現在見る遺構は、天正年間に武田氏や豊臣氏との戦いを意識して築かれたものと見られているようです。遺物も少ないのも使用期間の短さを考えさせます。

これらが整えられる前から城郭となっていたとは思われますが、古い堀は拡幅・掘り下げされてなかなか痕跡を止めていないのが城跡の難しいところ。
ただ、縄張が改められている可能性もあるでしょうから、曲輪の平坦面の調査をすれば、そういう事も分かるかもしれません。


このほか、堀の全貌とはいかないまでも、西曲輪の北にあった「三味線堀」(三本の堀が並列していたので、こう呼ばれたらしいです)のうち中堀で11mの堀幅がある事が確認されました。

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西曲輪の南東に接する「本曲輪北堀」も、西側の肩部と土塁跡らしい遺構のみ確認。
これも大型の堀になる可能性があるとの事。
(写真で旧校舎基礎の手前にあるのが堀の肩です)


概要は、(財)かながわ考古のサイトで当日配布資料が見れます。
http://www.kaf.or.jp/


それから、南曲輪の堀も試掘されたようですが、こちらも規模は大きいのではないかとの事。
これらは次年度の調査に持ち越されるそうです。

遺物で印象深かったのは、明治時代の“耕牧舎”の牛乳瓶。
近代学校遺跡の遺物になるわけですが、まあ堀池に投棄か落ちてしまったかのいずれかでしょう。

耕牧舎は茶人としても知られる、三井物産の益田孝(鈍翁)が渋沢栄一と共同設立した牧場で、箱根の仙石原にありました。
明治13~37年にしか運営されなかったので、今となってはレア物だと思います(笑)。
当時の商標が浮き彫りになったガラス瓶ってイイです。
(ちょっと見、薬ビンみたいですけど)

今年は益田鈍翁生誕160年・没後70年ということもあり、小田原だけでなく(財)畠山記念館でも展覧会が行われていますし、なかなかタイムリーな出土だったのではないでしょうか。

http://www.ebara.co.jp/socialactivity/hatakeyama/display/2008/autumn.html

http://www.post-ad.co.jp/donnou/

見学会は明日26日2:30にも開催されます。
ご興味ある方はぜひ見学なさってください。

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石垣山採石遺跡見学

10日ほど前だったか、もう少し前だったか。石垣山の北、関白沢沿いで、石垣用石材の採石遺跡が見つかったと連絡があった。以前から行なわれていた道路拡張工事だが、その道路の間近で、切り出した石を運ぶ道跡や廃棄された石(いわゆる残念石の類)などが露わになったのだという。残念ながら、すでに工事により一部が破壊されており、行政による遺構の一般公開や保存などは予定されていないとの事。
とまあ、そういうことなので、急遽、同遺跡の見学会が催されたのであった。

私はk氏をお誘いして参加。見学会は午後1時からである。
この辺りを歩くのは数年ぶりなので、私たちは先に風祭界隈をぶらぶらしてから集合場所へ行く事にした。
私はこの風祭の雰囲気がなかなか好きである。
木造のちいちゃくてレトロな駅。
旧東海道のおもかげと、そこから正面に見える富士山(ふじやま)。
路地裏や脇を流れる水路(ホタルが見える箇所もある)。
点在する石仏群(このあたりは古くから石工が住んでおり、伊豆系・甲州系・関東系の石仏文化が混在するポイントでもあるのです。あちこちに点在する石仏は味わい深いものが多い)
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そのほか旧傷痍軍人箱根療養所(現・国立療養所箱根病院)の洋風木造建築など、道沿いのどこか懐かしい光景は散歩していて飽きない。
今までこの旧道は、渋滞する国道1号線の伏線として車の往来も忙しかったが、今年になり小田原厚木道路と箱根新道が接続されたので、かなり改善されたのではないだろうか。

紹太寺大門跡を横目にもう2、3分ほど歩くと、入生田駅である。
ここで今日の見学会一行と合流した。
予想していたよりもかなり大所帯である。
例の如く高齢者が多いようだが、それでもこういう遺跡に興味と関心がある人が大勢いるというのは嬉しいものだ。
地球博物館横の道から早川沿いに進み、太閤橋を渡る。
この道も最近までなかったはずだが、いつのまにか立派な道が開通していた。
河川敷沿いには確か、くず鉄屋のような小集落があって、廃車がたくさん置いてあったのだが、それも綺麗さっぱりなくなっていた。
太閤橋は、石垣山北の「太閤沢」という涸れ沢が早川に合流する地点にかかっている。
そして、この沢沿いのミカン農道を拡張造成する工事が現在行なわれている。もしや、入生田から石橋方面に抜ける道を計画しているのかも。
まあ、それはそれで便利になるし、一夜城遺跡の観光客も少しは増えるかもしれない。だけど、それで歴史遺構がまた一つこの世から消えていくのは皮肉なものではある。

さて、採石遺跡というのは、この農道を登ったところである。
すでに道沿いには廃棄された石垣石が置かれて、簡単な説明板が設けられている(これは大分前からあったけど)。
その道が大きくカーブしようとするところに、石曳き道の跡が見つかったのであった。
石材を修羅で降ろした直線的な道で、ここから早川沿いに降ろして海岸方面に運んだのだろうと思われるが、道跡が良く残っている。旧農道はこれに併行するように出来ているから、この石曳き道も長らく使用されていたのではなかろうか。
すでに多くは、新旧の農道によって大消滅していたが、このカーブの内側と外側にはまだ僅かに残っている。
願わくはこの一部分だけでも、保存して説明板の一つでも設置していただきたいものである。
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また、この付近には切り出し途中で放棄された石や、運搬中に転落して放棄された石垣石が数多く点在する。
大名などが担当する帖場の境界を示す刻印なども明瞭に残っているが、それらの石は比較的縦のラインで並んでいるので、標示石として意図的に残されていたものかもしれない。

さて、せっかく一般向けの道路が開通するのなら、ついでにこうした遺物も大事にしてもらいたいものである。
ただ、お役所のセンスで変に整備しすぎると却って原風景を損なう恐れがあるので、ごく普通のハイキングコースと説明板を設置するだけで良いと思う。幸い、刻印石が点在するあたりは新道路とかぶらない場所だ。

ちなみにこれら採石遺跡は、豊臣秀吉築城の一夜城には、直接関わるものではない。
あの時代は基本的に自然石を効果的に積み上げた「野面積(のづらつみ)」石垣であって、現在の一夜城遺構からもノミ穴などは殆ど見られない。積み上げの為の加工などは多少あったとは思うが。
ただ、もともと石材が豊富な山であったのは事実である。現に、この山地の海側一帯は小松石や真鶴石に代表される高級石材の産地である。
ということで、切り出し石は江戸築城に際して用いられたものなのであった。
後世の「石垣山」という名称も、城跡のみならず、こうした大事業があったからこそ名付けられたのであろう。

見学会は数時間で終了したが、私とk氏は城址を見学してから山を下った。

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