湘南ひらつか七福神 写真 (後編)
七福神も残すところあと二か所。
毘沙門天担当の春日神社さんは、平塚宿の鎮守のお社。
旧東海道からは北に奥まった場所にあります。
歴史は古く、もとは黒部宮(くろべのみや)といって、現在地のほぼ真南、平塚市黒部丘にあったそうです。
社務所でうかがった話では、花水川の岸近くにあったのが、水害に遭いやすいとの理由で現在地へ遷されたらしいとのこと。『吾妻鏡』に記された「黒部宮平塚」というのが、文献上で初見される平塚の地名で、宿の成立にも関わるお宮なのかもしれません。
源頼朝が、妻・北条政子の安産祈願に神馬を寄進した寺社の一つでもあります。
この辺りは空襲の被害から免れたのでしょうか。社殿や石垣には時代を経た風格が感じられます。
また、境内には鐘楼があり、習合時代の面影も。
境内には天満宮、龍宮社など幾つかの末社。
それぞれにオリジナルののぼり旗が奉納されており、なかなかカラフルです。
龍宮社は、山の龍神さんと海の龍神さんそれぞれが別のお社に祀られていました。
天満宮の隣に新築のお堂が建ち、そちらが毘沙門堂。
建物は神社っぽく流造りのようですが、ちゃんと“お堂”と書いてあります。
数珠やおりんまで置かれ、完全に仏式。
由緒書によれば、かつての別当寺・廣蔵寺(古義真言宗)に祀られていた多聞天に倣ったとのこと。
これは、神社側の方が習合時代の信仰を進んで再現するのは珍しいと思いました。
(大山みたいに完全に別組織になってしまうと難しいのでしょうが)
お堂は開扉されており、毘沙門さんと、その妻・吉祥天、息子代表の善膩師童子(ぜんにしどうじ)の三尊像を拝む事が出来ました。
この時は七福神イベント期間という事で拝観叶いましたが、普段は奇数月の初寅日にご開帳とのこと。
七福神などで神社が毘沙門天を担当する場合は、それぞれの流儀が見られて面白いですね。
大黒さんや弁天さんは、大黒天=大国主命、弁財天=市杵島姫命、というのが習合時代からの通例のようですが、毘沙門さんはそういうの無さそう。
参考までに今まで行った神社系の毘沙門天の場合を見てみますと…
箱根、駒形神社の毘沙門天社(箱根七福神)
・・・毘沙門天として祭祀。
藤沢、白旗神社の毘沙門天像(藤沢七福神)
・・・毘沙門天として祭祀?(開眼されているようですが、相殿祭神としては記されていない)
鎌倉、白山神社の毘沙門天
・・・相殿して祭祀。本来は主と末の関係であった毘沙門堂と白山社が逆転した形。
東京日本橋、末廣神社(日本橋七福神)
・・・武甕槌命を毘沙門天として。
東京麻布一本松、氷川神社(港七福神)
・・・毘沙門天との相関は明記しないが、祭神は素盞嗚尊・日本武尊。
朱印で頂く毘沙門天御影は、日本神話的なお姿。
と、まちまち。私が気にしても仕方ないのですが(笑)。
逆に恵比須さんをお寺が担当する場合もありで、新たに札所として担当する場合はそれなりの由緒を出してあげたりと、寺社さん方のご苦労もあるかと。
現世利益の神々だけに、由緒の有る無しで箔の出方が違うというか、参拝者の数にも差が出そうな気がします。
春日神社の社務所では、親切な女性神職の方が色々と話をしてくれました。
神社や歴史の事など、また改めて参拝の折に聞いてみたいと思います。
朱印を頂いている間、今日はじめて七福神めぐりの方と出会いました。
ご夫婦で車で回られているようでした。
そして、いよいよ最後の妙安寺。
しかし、満願する前に、平塚宿の遺跡めぐりを少しばかり。
平塚宿の京方見附跡は春日神社からほど近く。
ここからは広重の東海道五十三次の平塚宿に描かれた高麗山を眺める事が出来ます。
古花水川に沿って街道を海側に少し入っていくと、相模薬師霊場10番札所の薬師院がありました。
今となってはお薬師さんを拝むことはできませんでしたが、本堂前の蓮の花が迎えてくれました。
ここも弘法大師ゆかりの古刹で、(かすれて読み難かったですが)門前の由緒書によれば、かつて金気多く飲用に適さなかった湧水を大師が清水に変えたという霊地であるそうです。
水や温泉に関わる大師伝説は本当に多いですね。
再び街道に戻ります。
次に目に入ったのは、こちら平塚市消防団第一分団の詰所。
広重の平塚宿の絵と、海鼠(なまこ)壁風の装飾が目を引きます。
ここは、平塚宿の西組問屋場跡ということで、団員達の愛郷心が感じられるようです。
加えて、火の見櫓状の防災無線塔が何とも言えない味わいを醸し出しています。
宿場関係の記念碑はこのほか、本陣・脇本陣・東組問屋場・高札場があり、
(本陣跡)
これらのほとんどは、平成13年、江戸幕府の東海道制定400周年を記念した「東海道ルネッサンス事業」の際に設置されたもの。神奈川銀行前の本陣跡の碑は当時既存だった為か、同企画の碑は見あたりません。
でも、こういうのはやはりお揃いで欲しい。今更ではありますが。
この「ルネッサンス」イベントの時は、小田原でもシンポジウムというか各宿場の交流会みたいなのがありまして、私も仕事で参加しました。盛り上がりの度合いは地域によって様々でしたが、各地の観光パンフを眺めていると、実際通しで歩いてみたいと思いました。
“東海道五十三次どまんなか”の静岡県袋井市などは一番気合が入ってた場所の一つですが、今では名物「たまごふわふわ」が結構有名になりましたね。
このイベントもはや過去のものとして忘れられようとしていますが、今後も県レベルで各宿場がジョイントしたイベントを仕組んでも良いのではないかと思います。
脇本陣跡近くの平塚本宿郵便局では、風景印をもらいました。
なかなか良いでしょう。「七夕飾りと高麗山(と小さく富士)」の景。
暑中見舞いにも使えそうな柄です。
このほか平塚本局に行けば「牽牛と織姫」の風景印もあると聞いたのですが、今回は時間が押していたので諦めました。
そして、妙安寺(日蓮宗)さんへ。
ついにコンプ!もとい満願であります♪
この喜びをタワシ持つ手に替え、ゴシゴシ念入りに洗わせてもらいました(笑)。
こちらの担当は大黒天。
大黒さまは、ご本尊の足もとの辺りに。
遠め目だと分かりにくいので、一部拡大。
この大黒さんは、ご住職が三度の荒行を成して請来されたお像とのこと。
そういえば、日蓮宗は扱う加持祈祷によって修しなければならない荒行の回数が異なると聞いたことがありますが、大黒さんは三度の行満が要るのでしょうか。
文字通り、血と汗と涙の結晶。ありがたや。
こちらでは、夏のほうろく灸のほか、納め甲子に大黒天の大祭を行っているようです。
私は今まで甲子参り(初めと納め)は毎度東京に行ってましたが、近くの平塚にもあったのですね。
妙安寺は“平塚の鬼子母神”として親しまれていたお寺だそうです。
本堂の写真を見ると、中の本尊よりも脇の鬼子母神像の方が大きくて存在感溢れています。
このお像は、徳川家康の側室・お万の方の持仏であったのを、奥女中の妙安尼(妙安寺の開基)が拝受したもので、それを本尊としたのが妙安寺の創立なのだそうです。
ご朱印は色紙とご朱印帳に頂きました。
朱印帳のご朱印代は不要とのことでしたので、その分と寸志を義援金箱に入れさせて頂きました。
また、授与品で大黒さんの福銭があったので、三嶋神社の恵比須さんと対になるように求めました。
この時は、三嶋神社さんの福銭に大黒さんも入ってるとは知らず、結果ダブル大黒さんを頂くことに。
現在は、三嶋神社さんのは貯金箱に、妙安寺さんのは財布に入れてお守り頂いております。
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