カテゴリー「後北条氏関連」の43件の記事

日光一文字

九州まで出張ることなくこれらを見る機会が来るとは・・・。
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昨日は休みというともあり、始まったばかりの特別展『軍師・官兵衛』展を江戸東京博物館に観に行ってきました。もちろん、第一の目的は官兵衛さんではなく、北条家ゆかりの品々。
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福岡市博物館に収められている黒田家旧蔵の「太刀“日光一文字”」や「北条白貝」「琵琶“青山”」などが揃って関東へお出ましなのですから。

大河ドラマ『軍師・官兵衛』の第1話冒頭および本編後の紀行コーナーで紹介されたエピソードですが、これらは豊臣秀吉の小田原攻めの際に調停役として赴いた黒田官兵衛に北条方が礼として与えたと伝わっているもの。
実際には色んな人が籠城中の北条氏へ働きかけたでしょうし、官兵衛もドラマのようにあんな一人颯爽と城門前(井細田口でしょうか?)に立ったとは考えにくい。たぶん、後に氏直が投降する滝川雄利らと共にアポ入れて入城しているはず。
それでも、これら北条家累代の家宝が与えられるというのは、やはり相当な感心を起こさせる人物だったのでしょう。ただ、領国安堵と氏政・氏直父子の助命を確約した可能性を考えると、色々と複雑な思いになるのではありますが…。

展示構成は、①播磨時代(黒田職隆書状や織田信長黒印状、・安土出土遺物など)、②有岡城幽閉(秀吉書状、竹中重治書状、黒田家臣起請文、家臣像など)、③秀吉統一時代(明智光秀坐像、阿弥陀寺位牌拓本、本能寺跡出土遺物、“日光一文字”など)、④如水時代(肥前名護屋城図、白熊采配、水牛脇立兜(前後期入替)、黒田長政像など)、⑤文雅たしなみ(芦屋釜、利休書状、和歌短冊など)といった流れ。
黒田官兵衛の文書類は、テーマに合わせての10点ほどでしたでしょうか。
家臣関係では、東京巡回展では、母里友信関連のもの(槍“日本号”や甲冑、像)が少ないのがやや残念なところ。日本号は以前に国立博に来てた時に見た記憶がありますが、大分前の事ですし。

今回、個人的に興味深かったのは・・・
【岐阜城出土の金箔押棟板瓦片】(信長が安土以前から瓦に金を使っていた事が分かった貴重な発見)、岐阜市教委。
【播磨三木合戦図】(別所氏菩提寺・法界寺で現在も追悼法要で絵解きに使われる絵の模写(江戸期)、威儀正しい別所氏や家臣らの合戦の模様や、痩せ衰え自害に及ぶまでドラマチック)、兵庫県歴博。
【明智光秀坐像】京都・慈眼寺。
【阿弥陀寺位牌拓本】(本能寺変で討死した信長信忠ほか家臣らの俗名と戒名を併記)同寺。
【羽柴秀吉大坂築城石持掟書】(石を運ぶものは、より重い石を持つものに道を譲れとか、喧嘩をふっかけるなとか、作業に細やかな指示)、兵庫県・光源寺。
【小田原陣之時街道筋諸城守衛図】(京から三島辺りに至るまで秀吉が泊した城や街道の景色などを描く図。富士山や箱根双子山、厳に柵廻らす山中城のほか、安土に立ち寄ったことなども記す、街道見聞絵図でもある)、山口県文書館。
…等々のあたりでしょうか。官兵衛や黒田家に直接関係のあるものではないですが。

黒田官兵衛関連のものとしては、やはり書状の類でしょうか。
本文の他に追筆が多かったり、歴史ある寺には丁寧な言葉を用いたりなど、配慮の細やかさを感じました。
まあ、今回出された書状の類は子息や家臣らに宛てたものが多いので、当然と言えばそうなのですが、当時も“委細は誰々(手紙を持参した使いの家臣)が…”と簡潔に締め括る文章が多かったでしょうし。
あと、人物像の作例も多い人なのですね。
ポスターにも使われている江戸後期の絵のほか、有名な脇息にもたれかかる絵も数種類あるようでした。これらは展示期間中に入れ替えられるようです。
一方、夫人(照福院)像(京都・報土寺蔵)は、7月1~13日のみの展示で、それ以外はパネル写真のようです。

私は北条氏ゆかりの品目的で観に行ったのですが、織田・豊臣関係の一つの通史展示としても楽しめるかと思います。お近くの方は足を運んでみては。
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/exhibition/special/2014/05/index.html
6月18日には、斎藤慎一氏の講演「豊臣政権と小田原合戦」(要申し込み)もあるので、それに併せても良いかも。締め切りは5月30日、もう明日ですが。

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江戸博に来たのも久しぶりでした。前回は江戸城展あたりだったろうか。

両国駅もその時以来。
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駅頭は近辺の開発の歴史を如実に示す景色ですね。後ろに国技館の屋根とスカイツリー。
とても駅らしい駅舎で、地域に愛されてそうです。

あと、図録のほか、お土産に買った城郭用語クリアファイル(部分)。
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昨今、こんなのまで商品になるんですね。この頃は戦国時代関係の展示があると、公式グッズ以外の商品が充実していて驚かされます。
これも公式グッズではなく、もしかしたら小田原城の売店でも売ってるかもしれません(笑)

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後北条時代の城下屋敷

後北条時代の小田原城下の様子が少しづつ明らかになっています。
越前一乗谷とまではまだまだいきませんが、後北条時代の高位な人物の屋敷跡と思われる遺構です。
昨年の日記には書かなかったので、前回昨年3月(第Ⅵ地点)と今年の4月(第Ⅶ地点)に見学してきた「大久保弥六郎邸跡」の発掘調査現地見学会の様子をまとめて簡単にご報告。

場所は、小田原城址公園二の丸水堀と国道1号線に挟まれた旧三の丸エリア。
ちょうど東電小田原支社の真裏で、西側に小田原城天守が望めます。
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(平成26年4月 第Ⅶ地点)
将来、小田原市民会館の再建予定地とされ確保されている土地で、それに伴う発掘調査が数年前から継続されています。

遺跡名は、江戸幕末の小田原城絵図「文久図」によると、同地は小田原藩大久保家・家老の一人、大久保弥六郎の邸跡だったところから。地元では“隅の大久保さん”で知られている屋敷地の一角でしょうか。

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(平成25年3月 第Ⅵ地点)
発掘調査の結果からは、江戸中期の富士山宝永噴火による火山灰や焼土の処分穴、戦国期北条時代の屋敷に伴う井戸や半地下式倉庫、屋敷の区画や建物の方向軸を推定させる石組み水路や溝が確認されています。

遺跡名になっている江戸後期の遺構はあまり目立ちません。それは、この当時の屋敷が二の丸水堀側が表として建てられていたためであるようです。
江戸中期に火山灰や焼土の投棄穴が設けられたのも、同じく屋敷裏手の空閑地であったからだと推定されています。

火山灰の投棄穴の様子は昨年度にも見られましたが、これらは同屋敷地内に積もった火山灰を集めて捨てたものでしょう。この灰は捨て場所に大変困り、後々酒匂川の川床が上がって大水害を起こす原因にもなったものです。
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(平成25年3月 第Ⅵ地点)
焼土は、火山灰の下に堆積している状況が分かりますが、これは噴火の前年に起こった大地震に伴う火災の跡かもしれないとのこと。同覆土中からは被熱して溶けた陶磁器片なども出土しています。

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(平成26年4月 第Ⅶ地点)
出土している陶磁器片は、肥前産の高級磁器が多く、鍋島も出ています。この事から、江戸中期も重臣クラスの屋敷地であった事がうかがえます。地震か噴火時に割れてしまったものでしょうか。もったいない…。

近世中期以降に反して、後北条時代の面では、最も濃密な遺構が検出されています。
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(平成25年3月 第Ⅵ地点)
東西に走る石組み水路、半地下式倉庫と思われる竪穴、大規模な石組み井戸、多量の柱穴群といったもので、複数の遺構からある程度のプランの規則を推測できるようになってきたようです。

遺物は、かわらけや茶碗、甕など国産陶磁器片、染付等の舶載磁器片などのほか、今回の第Ⅶ地点では、当時の鋤・鍬が出土しました。
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(平成26年4月 第Ⅶ地点)
北条時代の地業道具は貴重な発見といえます。

石組み水路は、幅約50㎝で、大型の河原石(早川産)を最大4段まで積み上げたものが数条。東西に延びています。
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(ともに平成25年3月 第Ⅵ地点)
この北側に接する同遺跡第Ⅲ地点では、まっすぐ東西120mに渡る北条時代の砂利敷道路(幅4mで両側に石積側溝を伴う)が検出されており、これら石組み水路も同じ方向軸のもと設計されているものと見て間違いないようです。
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(平成26年4月 第Ⅶ地点)
水路は溝状遺構を含めて、区画境を兼ねている可能性があります。
水路の一部には礫が敷き詰められているものがあり、これはろ過機能を期されたものかもしれないとのこと。
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(平成26年4月 第Ⅶ地点)

竪穴は、方形のもの・隅丸方形のもの・長方形などがあり、規格性が見られます。深さ0.5~1.5mほど。
半地下式の倉庫であったと考えられますが、用途は不明です。
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(平成25年3月 第Ⅵ地点)

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(平成26年4月 第Ⅶ地点)
一部には壁面に石積が施されているものがあり、内壁の補強の為ではないかと推定しているようでした。

石組み井戸はいずれも大きく立派なもの。
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(平成25年3月 第Ⅵ地点)

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(平成26年4月 第Ⅶ地点)
井戸径は直径3.7mほどが一つの規格のようです。井戸端に敷石を伴うものもあり、とても丁寧に作られた井戸です。
深さも大分あります。4m以上の深さが見こまれるものも。

以上の事などから、戦国時代北條氏の小田原城下でも重臣クラスの高級宅地であった事が推定されます。
残念ながら、どんな人物が住んでいたかの伝承等は伝わっていませんが、江戸中期以降とは異なる屋並みプランであった事が分かってきました。
また、水路や土坑に使われる早川石の石積みは江戸時代にも継続された技法であり、その原型はすでに北条時代に整えられていた事も改めて目にする事になりました。
白系の石が多く用いられているように見えますが、見栄えの為なのか、石積み保持の為に石材を揃えたものなのか。

いずれにせよ、普段から適選ストックして、石積み普請を担った専門職の存在を思わせます。
居住場所から考えると、やはり石屋善左衛門でしょうか。

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第50回北條五代祭り

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今年は藤棚周辺も綺麗に整備され、イベント前にくつろぐ人も多く見られました。

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歴史やお城のブームは以前にくらべると落ち着いてきた感がありますが、事業整備の方はゆっくりと着実に進むものですので、一市民としても永きのご愛顧を願いたく思います。

50回記念の今回の目玉は、歴代当主役に小田原市ゆかりの芸能人・有名人にゲスト出演してもらうというものでした。
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初代・早雲役に阿藤快さん。阿藤さんはここ例年おなじみですが。
3代氏康役に柳沢慎吾さん。
4代氏政役に鎧塚俊彦さん。
5代氏直役に小宮孝泰さん。

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また、オープニングイベントに林英哲さん率いる“風雲の会”の和太鼓演奏がありました。
(2代氏綱役だけは例年通りの市議会議長でした)

皆さん、今までにTV等各種メディアで小田原出身やご当地名物などを紹介してくれたり、観光事業に携わってくれてる“小田原ふるさと大使”の方々。
今年から新たに加わってくれた、俳優・合田雅吏さん(小田高出身)もお披露目していました。
『水戸黄門』で格さん役をやっていた方ですので、今後も武将役で出てくれたら似合うのではないかと思います。

私は今年は観覧席の方から見てました。
毎年おなじみの猛馬飼育係さんが来る予定だったのですが、風邪で急きょ一人で見るハメに。
しかし、隣に座った写真趣味のオバちゃんグループ達と色々おしゃべりしたり、お菓子をもらったりして結構楽しく過ごせました。

行列よりもオープニングをメインに観に行ったのは久しぶりです。

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市民観客の多くも、今回はゲスト応援がメインだったのではないでしょうか。

出陣までの流れはほぼ例年通り。
色々とごあいさつの後、早馬が来て軍団出陣。
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住吉橋上での鉄砲衆空撃ちはありませんでした。
ここでの撮影を狙っていたのですが、いつからか変更になってしまったようですね。

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昨年に引き続き参加のコスプレ隊。
やや人数が増えたかな。
昨年初めて参加した人達は勇気が要ったと思いますが、イベントに新しい風を吹き込んでくれそうで楽しみな一団ではあります。

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スケキヨを発見した巡査…、ではありません。
風魔小太郎隊の忍者アクションの方。行列の所々で殺陣やアクションを披露しています。

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手作り甲冑隊。
手作り甲冑も複数の団体が参加してますが、作品に凝る人と、こうした揃いモノで軍団感を出そうとする方々と色々いますね。見ている側としてはどちらも楽しみです。
この“馬廻衆”の方々は、四半旗や歴代馬標を作ったりと思い入れを感じます。せっかくだから旗のポールも黒く塗るなり、竹で作るなりしたら良いのに。

こうしたコスプレ隊や忍者、手作り甲冑隊は、“さきがけ武者隊”として、北條軍団本隊とは少し間をあけて歩いているので、従来からの時代行列の雰囲気を損なう事のないよう配慮がされていると思います。

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北條早雲役・阿藤快さん。

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北條氏康役・柳沢慎吾さん。

せっかくの当主役なのに、大将の兜をかぶらないのは少し勿体ないですね。
しかし、ゲストの顔を観に来てるお客さんもいるわけで、その点、有名人さんをイベントの武将役に活用するところの難しさがあるかと思います。
まあ、それを言ったら、テレビや映画の戦国劇だって面頬付けてないから同じなんですが。

城址公園で見る場合のデメリットは、移動が難しいこと。
お城だから当たり前なんですが、出口が限られてる上にイベント時の通行制限もあるので、パレードを追っかけていくのは大変です。
一応、地元ならではでショートカットをしましたが、松原神社前では間に合わず、青物町商店街でようやく氏康隊後尾に追いつきました。

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この野郎頭兜に色々威の方、名前は存じませんが、印象的な方。大分前からから五代祭りに参加されてます。
背旗には小さく“獅子の会”。
以前は鉢形衆でお見かけしましたが、今回は川越藩火縄銃鉄砲保存会の方々と歩いておられました。
こういう本格的な方々は武者行列の中でも風格を感じさせます。

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黄梅院(4代氏政正室)の一行。
この日は午後になって風が強く吹いたので、笠や裾など気になって歩きにくそうでした。
毎年気になってるのは、各姫隊の中で白袴の役。よく見ると雪駄の鼻緒もこの人だけ白。
腹当とか太刀拵えが結構豪華なんですよ。
周りの侍女達より上役なのでしょうか。
それは別にして、姫は輿に乗せてあげたいですね。

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北條氏政役の鎧塚俊彦さん。
京都出身の方ですが、市内の石垣山一夜城址にお店を経営しております。
ミニトークでは、阿藤さん達から「お前は上方の人間だろう」てなツッコミされていました(笑)。
ただ、ゲストでしっかり兜を被っていたのは鎧塚さんだけで、一番大名ぽかったかも。

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北條氏邦演じるこの方はノリがよかったです。
「我こそは北條安房守氏邦なり~!」と、采配振り上げて観客のカメラに応えていました。
やっぱり、軍団全体としても、ある程度演出指導があると士気というか雰囲気盛りあがりますね。
(兜の阿弥陀かぶりなんかもね…。映画やドラマだったら絶対NGでしょう)

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5代氏直役の小宮孝泰さん。
「元コント赤信号と言われることありますが、まだ解散してませんから!」
ナベさん、ラサールさんとともに自転車でぶらりする企画がひかえているそうです。

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北條軍団最後尾を飾ったのが、こちら北條氏規隊。
今回、一番武将らしい威厳を感じたのですが、なんと小田原警察署長と署員の方々でした。
署長というともっと年配の方かと思ったのですが、意外と凛々しく。
傍らで交通整備をしていたお巡りさんは敬礼してたのでしょうか?

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さすが警察。標語は欠かせません(笑)
しかし、いい面構え。
足軽のエキストラさんには最適な方々かもしれません。

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そして、神輿パレードも一年ぶり。
やはり、居神神社の神輿はカッコいい。
江戸城普請や相模の寺社にも携わった、愛甲郡半原大工の職人さんが手がけたものです。
荒ぶる担ぎ方も見どころです。

五代祭りの周辺風景。

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天守閣入口。音楽隊が参加しているので、陸自の制服姿もちらほら。

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手裏剣投げや吹矢の的当てコーナーなんてのも開いてました。
しかし、北條家の三鱗紋を的にするのはどうかと…

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露店はどこも行列が。
ご当地グルメの類も参加する地域が増えて来たようです。
首都圏から安近短というのは必ずあるでしょうが、こうした時代イベントとしては、他の大河ドラマ開催地よりも継続的集客力があるのではないかと思います。

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家族連れ等でごったがえす駅舎。
乗車カードのチャージや切符購入に長い行列ができていました。
地方は券売機の数も限られていますので、イベント時はこの点留意しておいた方がいいです。

私はというと、猛馬さんがいない今回はビール飲むわけでもなく。
この日限りの北條五代スタンプラリーなんてのがあったので、とりあえずコンプしておきました。

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ドヤ顔の早雲・氏康に、四角四面な氏政、ぼっちゃん顔の氏直と、なかなか個性あるキャラ顔。
よくできているので、もっと使っていいのではないかと。

寺社のご朱印もあれだけ人気が出ているのを思うと、スタンプラリーのイベントもそれなりに効果を期待できるのではないかと思います。
例えば、小田原城総構えのウォーキングイベントとか。
対して、包囲側の豊臣陣のスタンプラリーとか。
北條五代観光協議会の各地(八王子、寄居、三島とか)で共催の朱印(禄寿応穏、如意成就などなど)スタンプラリーとか。色々。

毎年見ていますが、この頃の企画側の思いは感じています。
今後も頑張って欲しいと思います。

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八王子城再訪③

今回の再訪で一番楽しみにしていたのが、ここ。
復元整備した御主殿エリア。
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本当なら“引き橋”から石垣積みの虎口を通って入れるのですが、橋が劣化して通行不可なため、滝側の通用路から。昔に比べると舗装された上に路幅が広げられていました。土塁が削られたんじゃないかと心配したのですが、報告書(平成14年)によれば、この辺りも発掘以前にかなり崩壊していたらしいので、復元土塁なのかもしれません。

そしてこちらは平成12年に初めて来た時の写真。まだ銀塩カメラでした。
この芝生広場でも結構感動したのに、14年であそこまで進むとは。
よく見ると、冠木門と板塀も建て直したみたいですね。
今後も期待してます。
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こちらは、上の復元建築の上から西南側をふり返ったところ。
ちょうどこのあたりが建物入口だったと考えられているようです。
上部構造物は不明なので床までの復元となっています。
南北6間×東西10軒の建物で、接待・饗宴などに使われた会所と推定されています。
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南面には、このように側溝を備えた敷石通路があり、奥の水路を跨いでさらに西奥の方へ続いていく様相を示しているようです。
また、中央奥の、芝生に標示石が置いてある場所は、大量の舶載磁器片が出土したところで、落城後程ない時期に、集められた皿類などを廃棄した場所であろうということでした。
出土例の少ない明代景徳鎮窯の瑠璃碗なども出ていますが、大量購入されたような日用陶磁器が大半のようです。滝山城から引っ越しで持ち込まれたものも含まれているでしょうか。

その左の、石敷きの無い道路遺構の方には、鍛冶関係の施設があった可能性があるとのこと。

同じく北西方面に向いたところ。
建物の北側には、枯山水庭園が設けられており、会所中央の間から見るのが正面景色であったようです。
ちなみに、ニュースにもなった、ベネチア産レースガラス器が出土したのはこのあたりです。
庭との間には砂利敷き通路があり、その下には礫を詰めた溝を設けて暗渠が備えられていました。州浜を意識しているのかもと思いました。
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建物の外側に面した礎石は形状を揃えて見栄えをよく仕上げているようです。

もう少し下がった位置から庭をみたところ。
右端の大石が、枯山水の“三尊石”の中央石であったのではと推定されているようです。半分くらい土中に埋もれた状態で保存してありました。
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こちらが主殿と思われる建物跡。
南北9間×東西15間で、御主殿エリアで最大の建物になります。
会所に比べると、間取りのプランも幾つか推定できるようですが、礎石の配置状態から、南東隅に玄関があった可能性もあるとか。
右側の一部土が露出しているところは、まだ発掘していない箇所。
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手前は、会所北側の砂利敷通路の続きです。
左の水路の突き当たりには、土塀跡(根石)とそれに併行する道路状遺構があり、主殿跡の北側未発掘エリアにはまだ別の建物跡が埋まっているのかもしれません。

興味深いのは天目茶碗の遺物です。
御主殿エリアを含めて広範域で出土しているようですが、碗内に線条痕(引っかいたような跡)が多く確認されているのです。
茶筅による傷とは考えられず、乳鉢(手持ちのすり潰し器)への転用(例えば、丸薬の製造や火薬の調合など)の可能性が考えられるとのこと。
今では格式ばった台付き茶器のイメージある天目碗ですが、当時は茶器利用を越えるほどの日用雑器だったのかもしれません。ただ、線条痕は天目以外の碗でも確認されているものがあります。緊迫状況を示す遺物の可能性もあるでしょうね。

御主殿虎口の階段を見下ろしたところ。
びっしりと石敷きが復元整備されていますが、発掘時、路面中央部の石はかなり流出していたようです。
土塁沿いの水路はすぐに埋もれてしまいますから、通路の中央に長年雨水が流れていたのでしょう。
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階段を下りて振り返ったところ。
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正面の踊り場に四脚門の礎石があり、櫓門かと考えられています。
石の被熱痕から焼けた事が分かっています。

虎口の“引き橋”付近。こちらは敷石されていない硬化面でした。
城山エリアに多数石垣が設けられていることを考えると、見映えに影響しないためというよりも、実用的な目的からなのかもしれません。
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ここの南側土塁にも階段跡が出ていますが、川沿いの遺構が形を留めていないので、用途は分かっていません。塀が巡っていたりすれば、より豪華な御主殿の想像ができるのですが…。

同じく、引き橋付近の土塁石垣。
ここは、立て札から右側部分(やや赤茶けている)がオリジナルの遺構で、復元石垣(左側)と組んで整備されています。こういうタイプの石垣に新規に積み足すのは色々課題も生じたのではないかと思いますが何かが上部に載るわけではないので、負担は少ないのかもしれません。
オリジナル石垣は復元に比べると材が小さいですが、やはり積み方に一定の法則があるように見受けられます。
中層に面を揃える平たい石を持ってくる事が多いような気がします。
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平成12年に行った時の引き橋。御主殿の対岸から。
もうこの頃から経年感あったかもしれません。
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(つづく)

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八王子城再訪②

御主殿曲輪の整備と併せて建てられたガイダンス棟。後方は八王子城山(深沢山)。
どんなものができたのか、こちらも楽しみにしてました。
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なんだかウルトラセブンに出てきた宇宙人の宇宙船のような特徴的なシルエットですが、八王子の“八”に合わせた形(八芒星?)の屋根なのだとか。
八王子権現は方位除けの神としての性格ももっていましたから、まあ、デザインとしては悪くないかもしれません。

室内の展示は、北条氏や氏照、八王子城に関しての紹介パネルが中心。
出土遺物(陶磁器片)から再現された舶載の皿(のレプリカらしい)なども。

こちらは、八王子城山の立体模型。
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スクリーンになっていて、プロジェクターで往時の八王子城の姿を映し出します。

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落城する八王子城。暗闇に上がる炎が悲劇のドラマを演出します。
こういう立体スクリーンによる展示方法も面白いなと思いました。

吊るされていた手作り甲冑。来館者が着用できるのかも。
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まさかの、兜にカブトムシの立て物。
クワガタムシのバージョンもありました。

ガイダンス棟を後にすると、何やら法螺貝の音。
程なく、正面から甲冑武者隊が。
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どうやら、来週の八幡神社例祭に参加する武者行列のリハーサルだったようです。
それにしても、印判の軍旗とは。のぼり旗で“如意成就”の方がまださまになったような気もしますが…。山伏が行列に加わっているのが、高尾山のある八王子らしいですね。実際に山伏も籠城に加わっていたようですが。

上の写真後方に見える柵に囲まれたところは、近藤曲輪にあたるところ。
以前は東京造形大学のキャンパスがあり、幽霊の目撃で騒がれたそうですが、現在はエントランス広場という明るい芝生公園になっていました。

広場には八王子城と城下を表した立体模型があります。
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城を最奥に、谷戸に沿って作られた城下町なのが分かります。

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アシダ曲輪は、上下2~3段で構成される比較的広めの曲輪。
書籍によっては、こちらを「山下曲輪」と呼んでいる場合もあります。

アシダ曲輪の最下段土塁。
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一部だけ石垣が残っています。
土塁の草刈りを定期的にやってくれてるようで、ありがたい事です。

大手門跡。こちらも以前はブッシュが濃くて見難かったのですが。
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確認された礎石の状況から、この門は薬医門だったと考えられています。
また、堀を伴うものだったのが分かります。

見えてきた御主殿曲輪。大手門からの引き橋(平成2年復元)が経年劣化で通行不可になので、川沿いの林道から入っていく様になっています。
見えている石垣は全て復元ですが、虎口部分のだけやけに近世石垣っぽいのが違和感。
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この道は、江戸幕末に幕府の御用林として植林が進められた際に設けられたものと伝えられ、昭和40年代に東京営林署が大きく拡幅したもの。それによって御主殿の南側土塁の一部や川に面した多くの遺構が破壊されてしまっています。

御主殿の滝。
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投身自殺をした婦女や討死将兵らの血で城山川の水は赤く染まり、その下流の里人が米を炊くと赤い飯となったという伝説。それを偲んで落城日の6月23日には赤飯を炊く風習があるとか。今でもやってるのでしょうかね。

奥野さんから指摘され、滝から少し脇に目を転じると、石垣が良く残る台状遺構がありました。
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中央下段の大きな三角形(台形か)の石を基点に落とし積みした野面石垣の状況。真上に立ってみると奥にもぎっしり礫が詰まっている感触がありました。

林道工事によって破壊された御主殿南側の遺構の一部のようです。御主殿から滝へ下る通路だった可能性もあるでしょうか。次の写真の遺構とともに水汲み場を構成していたと考える人もいるようです。

“水汲み場”
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滝の落ち口の岩を桝状に削ったもののように見えます。
そうだとするなら、滝の水量はそれ程変わっていないのかもしれません。

(つづく)

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姿を現した北条氏の庭池跡

10月19日(土)、国史跡小田原城跡・御用米曲輪(ごようまいくるわ)における第5次発掘調査の現地説明会が行われたので、見学してきました。
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このエリアは、戦後長らく野球場や駐車場として活用されてきましたが、小田原城の中心的な遺構の一つ。
江戸時代の城絵図では、「御用米曲輪」や「御城米曲輪」などと記されています。
昭和57年に第1次調査が行われ、平成22年度からは、史跡小田原城跡の整備活用計画に則り、本格的な発掘調査が継続中。今までに、曲輪の名のもとである江戸時代の米蔵や瓦塀の跡、周囲をめぐっていた土塁の様相などが明らかになってきています。
昨年度(第4次)の調査では、その下の戦国期の層から、礎石を用いた建造物跡、加工石を用いた水路、庭の跡などの遺構が出土。「小田原北条氏当主の館と庭跡か?!」と、俄然注目度がアップしました。今年2月に開催された現地説明会では、雨まじりの天候にもかかわらず約1000人もの見学者が訪れたとの事。


今年度調査では、その庭の一部と考えられる池の跡が徐々に姿を現してきています。
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この遺構の興味深い点は、池の護岸が四角い石でタイル状に覆われて(葺かれて)いるところ。
このような庭池の意匠は、全国でもまだ見つかっておらず、庭園遺跡としても大変珍しいもののようです。

四角い石材は、主に五輪塔や宝篋印塔(中世の墓石や供養碑に最もポピュラーなもの)の笠や基礎の部分。その平たい面を表にして護岸に用いられています。
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出土した石材の中には、やや面積が大きめな反花座などもありますが、こうしたものが池底近くの下部に、上部にいくに従って小型の石材が積まれる傾向にあり、隙間を埋めるために再加工された石もあるようです。

また、色の違いからも分かるように、それぞれ石材の産地も異なります。
グレーや暗い青っぽい石は地元の箱根系安山岩で、明るい黄色っぽい石が三浦半島系の凝灰岩(写真では湿って暗くなってますが)。どちらもその地域ではポピュラーな石材ですが、柔らかい後者などは加工に適していたのかもしれません。
遺構を評価する人の中では、色の違う石材を意図的に用いていたのでは、と考える意見もあるようです。

残存している護岸石の様相と、現在明らかな池の規模を併せ考えると、2000個以上の石材が用いられていた計算になるとの事。これだけの石材(墓石)を集めるのも大変だったと思われます。関連文書などがあれば良いのですが。
現地説明の合間に出た話の一つに、城下山角町の調査で墓石がまとめ置かれていたような遺跡が出ているとあり、石材のストック場所として関連つけられるのか興味深い事例と思われます。

池の深さは、同時代の地表面から約130~200㎝。
池底から出土したカワラケの形状から、16世紀後半の池である事が分かっています。
現説会当日は、池に雨水が溜まってしまっていましたが、底まで、水面より石材もう二つ分ほどの深さがあるようです。
また、護岸石の一部が砂利に埋もれている状態のものがありますが、これもやや下った戦国期の造作。

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(「池」のⅠ期想定)
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(「池」のⅡ期想定)

どうやら、池の設けられた当初は石葺きの護岸池であったものに、後から砂利を入れて州浜に修景したようです。このあたりなどは、おそらく北条氏当主であろう造園発注者の趣味・意向が反映されていそうで、想像するだに楽しいところ。

池の曲線的な形状も興味を引かれます。
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小さなマウンド状だったような部分は築山の可能性もあるのでしょうか。後世の造作で原型を留めていないのが残念なところです。
写真でも分かる通り、この池の岸上に掘立柱建物の跡が出ています。
その隣にもう一つの池跡(上段の池)があり、滝で下段の池に流れていたと思われます。この建物は、それを見下ろすような形だったのでしょうか。

現在、この建物跡の部分が調査中で、戦国期の井戸や石敷の遺構が顔を出してきています。
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池の様相が戦国期でも変遷しているように、こちらも併せて考えていく必要があると思いますが、こちらも明治時代以降の廃棄坑(写真後方。瓦片などが投棄)で撹乱されており、残念ながら完存というわけにはいかなさそうです。


それから、城郭(の縄張り)遺構としての見地からは、「鉄門(くろがねもん)」とそれに伴う坂道の成立時期がより明らかになった点が大きな成果でしょうか。

鉄門は、御用米曲輪の東南側から本丸へと入る箇所にあった門です。
幾つかある小田原城絵図の中で、近世城郭としての最初の姿を伝えるものが、稲葉氏が小田原藩主であった時期にの正保年間(1645~48)に描かれた『相模国小田原城絵図(正保図)』ですが、そこにはすでに枡形門が描かれています。御用米曲輪の箇所にも「百軒蔵」とあります。

今回出土した庭園遺構は、この鉄門へと続く坂道の下へと延長していく様相を示していますので、坂道の土塁そのものが江戸前期の造成であることが明らかになりました。
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(後方のスロープが鉄門への坂道。手前の土管と石組桝は、明治の御用邸時代のもの)

御用米曲輪の土塁では、城址公園入口の側の土塁も江戸期のものであったのが確認されているので、明治まで土塁に囲われ閉鎖的空間だったこのエリアの景観は、戦国期にはだいぶ異なっていたようです。

個人的には、庭園遺構があまりに珍しいものであったためか、鉄門に関わる報道があまりされていないのがやや残念に感じています。

(現地説明会のレポはここまで。以下は、私個人の勝手な想像。自身への覚書用に)

鉄門の前身とも思われる細長い曲輪とその下段の水堀が、『加藤図』にのみ描かれています。
この明確ではなかった部分が、第3次調査以降に明らかにされているのも大きな成果ではないでしょうか。

『加藤図』は『相州小田原古絵図』といい、大久保家臣加藤家に伝わったもので、慶長19年(1614)の大久保忠隣改易に伴う小田原城破却の後から寛永9年(1632)の稲葉氏小田原入城の間に描かれたものと評価されています。
同絵図には、後世の小田原城絵図にはない「丸馬出」が描かれていたりと、前近代城郭的な古風な小田原城(前期大久保氏の頃と思われる)の状況が描かれているのが特徴ですが、これにはまだ鉄門にあたる枡形虎口は描かれていません。
代わりに、(後世の)本丸と御用米曲輪との間に、もう一つ細長い曲輪が描かれています。描き方を見る限りでは、これが本丸からの横矢を伴う導入路となっていたようです。これが道ともに廃され、よりコンパクトで洗練された枡形門となったのが鉄門なのではないでしょうか。あくまで想像の域を出ませんが。
そして、その細長い曲輪と御用米曲輪との間に描かれた水堀。
絵図から受ける印象では、この水堀が現在調査中の上段の池のエリアまで延びていたようにも見えます。
上段の池には石垣を伴う堀障子が3次調査で確認されており、前回の説明会でもその一部を見る事が出来ました。
これも想像の域を出ませんが、加藤図に描かれているこの細長い曲輪と水堀の構成は、北条時代を踏襲している可能性もあるようにも思えます。
(想像ここまでw)

庭の様相と共に、御用米曲輪と本丸との連結部の変遷の歴史がより明らかにされる事も期待しています。


御用米曲輪の調査は現在も進行中で、来年度も継続されるそうです。
次回の現地説明会は、11月23日と12月21日に予定。
少しづつ明らかになって行く過程を一般の人にもともに味わってもらいたいという、粋な計らいです。
池跡ということで、月一の見学会の度に水抜きの作業があるのでは調査側も大変な気もしますが、見学者としては大変楽しみなイベントです。無理の無い範囲でまた色々とご教示頂きたいものです。

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展観 「早雲寺 織物張文台および硯箱」、「飛騨の円空」展

下谷七福神めぐりをした後、何を考えたか、福神ついでに護国院の大黒さん、不忍池の弁天さん、五条天神さん(末社に七福神社がある)にも参拝。
鶯谷から三ノ輪まで歩き、そこから再び上野公園を半周してしまったのだから、結構歩きまわってしまったと思う。

で、東博の正門に着いたのが結局15時半過ぎ。
リニューアルオープンした東洋館を見るのは諦めて、まずは常設展示へ向かう。

この日(3月2日)、東博に来た本当の目的は、早雲寺寺宝の「織物張文台および硯箱」を観るため。
早雲寺の寺宝公開で見る事が出来るのは精巧なレプリカ作品で、実物は国重文で東博に収蔵されている。
といっても普段公開しているわけではなく、入れ替え展示で出してくれるのを待つだけなのだが、今まで知る限りでは殆ど出していなかったのではないか。
今回は、友人の宮下さん(感謝m(_ _)m)からメールで教えてもらい、貴重な機会に巡り合う事が出来たのであった。

文台は、本館一階、入って右奥突き当りの部屋に展示してあるらしい。
初めて出会う本物への期待が高まり、早足に。
今まで各種書籍で見知ってはいるが、それぞれ印刷の具合が異なるので、実物の織物の色がどんなであるのか知りたかった。

照明を落とした薄暗い角部屋である。
それは、螺鈿や漆蒔絵の手箱などと並び、慎ましやかにさえ見えた。
レプリカとはだいぶ違う色である。
(撮影禁止となっていたので)文章だけで表現するのは困難だが、早雲寺銀襴とも言われた文台に張られた唐草文様の織物は、経年変化で茶ばみ、かなり色褪せもしていた。
金襴・銀襴といった素材の特質もあるかと思うが、造形物に張った織物という点も保存が難しい理由の一つであろうかと思う。江戸期の早雲寺も安泰だったわけではない。
どの程度の劣化というべきか、素人の私には判断しかねるが、近くに並ぶ螺鈿箱のようなきらびやかさを今は感じる事は出来ないのが少々残念ではあった。

しかし、400年以上経た実物だけが持つ風格はある。
伝承のようにこの文台で北条氏政が歌を詠んでいたのかと想像するだに楽しい。
最近、江戸期小田原城の御城米曲輪跡の下層から、北条時代の礎石建造物や池水庭園らしき遺構が現れて話題になっているが、その辺りで、もしくは八幡山にあったという隠居所で、これを愛用していたのだろうか。
泉水の流音ささやく庭の見える書院、僧や若侍を相伴に控えさせ、この文台を傍らに座す景色を思い浮かべる。
見学者が少ないのを良い事に、そんな時空を超えた観覧を楽しませてもらった。


そして、特別展『飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡』へ。
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エントランスに下がる迫力のタペストリーだが、実は展示スペース1室の大変小規模な展示。
しかし、50体近い円空仏が居並ぶ様は壮観ではあった。
これが、ほとんど一つの寺院からの出展というのだから凄い。
閉館時間が近いのもあり、東博としては混雑というほどではなく、一つ一つじっくり見れたのは幸いだった。

こちらも当然撮影禁止なので、展示目録の中から、気に入ったもの、印象に残ったものを記しておく。

まずは、パンフ写真にもなった両面宿儺。
多くの人がそうだと思うが、円空仏といえば真っ先に想起する作品。
中学生の頃、祖父と飛騨高山旅行に行った時、この像を観たいと思ったが、拝観叶わなかった。
初めて見る実物は想像よりもややスマートで、恐いというより、ハンサムだと思った。
微笑した二面の明王や童子、もしくは将軍神のような姿だが、火炎後光は巻雲のようにも見えるし、下げ持つ斧はむしろ静けさを感じる。
両面宿儺は、日本書紀に登場する怪人で、朝廷に反逆したとして退治されてしまうのだが、千光寺の伝承では、救世観音の化身として人々に崇められていたという。
この像をして何らかの二面性を表しているのならば、飛騨という地域特性を察するに、山林資源をめぐる在地と中央との軋轢の中にあった首長もしくは祭祀長的な人物の姿、怒りや無念さが込められているのではないか。
像として造り出すからには、身近に伝わる救世観音の化身の神としての像を、この土地の人達は依頼したのではなかろうか。

展示室入口に立っていた、素玄寺の不動明王立像。
背も高く、入口で見学客を迎えるに堂々たる存在感を放っていた。

千光寺の不動三尊像。
一本の木を三つに割って造られた不動尊と両童子。
同じく、錦山神社の稲荷三尊。
円空仏には時々こういう作があるようだが、造形の面白さだけでなく、木に神仏を観じていたからこそではないか。

千光寺の宇賀神や歓喜天はごくシンプルだった。

そうかと思えば、出口近くにあった清峰寺の千手観音像は、一つ一つが違う方向を向いた手が動的で、丸みを帯びた姿は粗削りな不動尊と対照的。
優しげな微笑が印象的で、この前で暫し動かなくなる見学客も。
これは、ちょうど展示ケースの高さが絶妙だったと思う。

時代は違うが、これらを観て思ったのは、伊勢原の日向薬師や横浜の弘明寺観音。
平安時代のこの地域の一例ではあるが、“鉈彫り”という表面を仕上げない独特の作風は、材になっている霊木の質感を残すためであるとも考えられている。

円空仏にも同じように、古風な木霊を感じさせるところが多分にある。と思った。
霊木への尊崇というよりも、もっと近しい親しみのような感じではあるけれど。

そういう点では、展示室中央にあった、千光寺の金剛力士像はちょっと恐かった。
地に根を張ったままの木に仏を彫刻する、いわゆる生木仏(いきぼとけ)である。
大きな鼻に顔面の力が集中したような、目の周りのしわ。
釣り上がった口元は、笑っているようにも見え、十一面観音の暴悪面のよう。
この手の像は、殆どが、程なく立ち枯れてしまうのだが、私にはこの憤怒相が木の怒りに見えて仕方なかった。
すでに地から切り離されて長い年月を経ているが、細かなヒビや割れがさらに迫力を増していた。


このような展示で、なかなか楽しめたのだが、写真が一つも無いのは楽しくないので、最後にこちら。
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東博所蔵の円空仏。如来立像。
特別展に合わせた常設室のセレクトであった。撮影可。

ところで、手塚治虫『火の鳥・鳳凰編』に出る我王(がおう)のモデルは、もしかしたら円空なのかな?

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松岩寺と霜降りの滝

実は先ほどの“かんまん不動”さんの拝観前にこちらに来ているのですが、今回はお不動さんの拝観が主の目的だったので先に回させて頂きました。

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こちらは、平塚市下吉沢の松岩寺(曹洞宗)。
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かつて、かんまん不動さんは、このお寺の不動堂に安置されていました。

この地を領していた後北条氏家臣・布施三河守康貞が開基のお寺。
山門近くには布施康貞の墓碑が立っていますが、表面が剥落しつつある状態でした。
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碑面には、故人の事歴が細かく記されていますが、もとは山城国の出身で、開山の如幻禅師は同郷の人であったようです。
布施氏は現在もこの地にお住まいのようで、お寺の裏山に代々の墓地がありました。そこには近年建立された布施三河守夫妻の墓も。門前の旧墓碑が崩壊しかかっていて気がかりでしたが、すでに対応されていました。
大事なご先祖のお墓といっても、再建するというのはなかなか大変なことだと思います。

布施氏の墓域がある所は、松岩寺の裏山の最高所の一つであり、そこから見る景色は雄大です。
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右手は大磯の高麗山、左は平塚市域、そして江ノ島と三浦半島。
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西ヶ谷氏の『神奈川の城』(朝日ソノラマ)では、ここを砦跡ではなかったかと仮想していますが、菩提寺建立にあたって自領内の要地を選ぶというのはあり得そうな話です。

墓所の裏に行くと、道はどんどん下りになり、沢へ下りていきます。
静かな水の流れる音が聞こえてくると、そこに小さな滝がありました。
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「霜降りの滝」とあります。
ここにも近年までは不動堂があって、お祭などもなされていたようですが、水害で流されて以来再建されていないようです。

9月終盤とはいえ、まだまだ暑いさなかでしたので、暫しの涼風を楽しみました。
(その後、八剣神社でお不動さんを拝観したのでした)

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かんまん不動尊 拝観

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昨日9月28日、平塚市下吉沢の八剣(やつるぎ)神社の「かんまん不動」立像(国重文)を拝観してきました。
毎年1月28日と9月28日にご開帳されています。

こちらがそのお不動さん。実物の撮影は不可なので、平塚市教委発行の冊子表紙より。
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実は以前に平塚市博物館での展示で観た事はあったのですが、やはり普段お祀りされてる場所で拝観するのとでは見え方が違うように感じました。やはり、定まった霊場のご尊体である時は威厳があります。

とはいえ、八剣神社のご神体というのではなく、神社近くの収蔵庫で地域の方に保管されているというものです。
当日ここで訪問客の対応に当たっていた方にお話をうかがったところ、ここに収まるまで何度か盗難にあったとか。
以前は、神社からほど近くの松岩寺の不動堂にあり、さらに昔には寺の裏山の“不動平”という地に祀られていたそうです。

現在は国重文ということで、コンクリート製の立派な収蔵庫に安置されて厳重に保管されています。
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私が拝観している間、この収蔵庫の建築を担当した会社の社長もお参りに来ていました。

このお不動さん、『平塚の文化財』(平塚市教委)によると、12世紀ごろ畿内で造られた可能性が高いとの事。
穏やかな憤怒相と無理のない姿勢。大山のいかついお不動さんも良いけど、こういう温和なお姿も好きです。

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北條氏政氏照墓前祭

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暑かった…。
これが来ると、もうお盆だなと感じる。まさに明日からなんですが。
小田原駅近くにある、北條氏政(慈雲院殿勝岩傑公大居士)公、氏照(青霄院殿透岳関公大居士)公の墓前祭です。

明日の小田原は高い確率で雨との予報。しかし今日は痛いくらいの晴天。
例年、すごく晴れるか、どしゃ降りか、という感じがします。
あと、晴れだろうが雨だろうが、毎年、風が強い。
天候的には、梅雨明け直前の不安定な時期なのかもしれません。

商店街の顕彰会さんが地味にやってる祭なので、特にイベント要素は無し。
ただ、小田原駅近くの北條氏政・氏照、両公の墓所で読経・焼香するだけです。
毎年見るのも、同じ面々(あと地元のご隠居や政治家、ローカル報道関係とかか)。
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法要の導師である永久寺ご住職は、普段浅草のお寺を主務にしておられるので、当日電車で来られます。足腰が弱まっておられるのか、階段の昇り降りが大変そうでした。
あと時々、歴史ファンのような方もお見かけします。多くはないですが。

逆に今までお見かけしてないのが、現市長。
毎年、「公務が多忙で」という理由をつけて副市長があいさつに来ています。
いつもほぼ7月11日午後3時と固定されてるし、実際30分くらいで終わってしまう行事です。
「北條五代を大河ドラマに!」と、昨年以来口に出している市長にしては、北條氏当主の法事にかなり消極的。
前市長は毎回顔を出していたのに。
もしかしたら、現市長とは相容れない事情が何かあるのかもしれません。
個人的には、そんなものを供養祭の場に持ち込んでもらいたくないのですがね。

あともう一つは、来賓のあいさつが観光とか地域活性化の話ばかりだったのが残念。
うーん…
形ばかりのものかもしれないけど、氏政公・氏照公の事績を顕彰し、地域づくりの先人としての感謝と志半ばで自刃した無念さを慰霊するのが、本来の墓前祭ではなかったのですか。

関係者はもうお年を召した方ばかりなので、こなし作業になってしまうのは分かります。
暑い時期だし。
ただ、やはり、自刃して亡くなられたお二人の思いを皆で想起する場であってもらいたい。
せめて、氏政・氏照の辞世の句ぐらいは朗読して欲しいよね。
(たとえそれが後世の創作の可能性があるのだとしても)
お線香あげたら、そのまま流れ解散みたいな、しまりのない閉会だった。

と、凄く愚痴っぽくなってしまったけれど…
こうして毎年墓前祭が継続されているというだけでも、大変な事だとは思う。
少しでも良い形で継承して行って欲しいので、部外者の私ではありますが、折に色々気持を伝えて行きたいと思っています。
(あと、お墓前がゴミ置き場ってのもね…)

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