カテゴリー「城跡・史跡探訪」の53件の記事

虫がえし

クマモンよりも天守のデザインに惹かれてつい買ってしまった、虫コナーズ。
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中の薬剤入りカートリッジ部が白いプラで、ちょうど漆喰の表現になっている。
で、外箱部分が黒いプラで、キャラや下見板。

企画者の思い入れなのか、版権側の注文なのか、下見板のモールドやシール点数なんかが意外に丁寧でした。
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しかし、せっかくの熊本城なのに、武者返しの石垣まで再現しなかったのは実に惜しい。

キャラグッズとしてなら、『ターミネーター』のT-800(シュワ氏が演じたやつ)型なんかも面白いと思うんだがなあ。

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八王子城再訪③

今回の再訪で一番楽しみにしていたのが、ここ。
復元整備した御主殿エリア。
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本当なら“引き橋”から石垣積みの虎口を通って入れるのですが、橋が劣化して通行不可なため、滝側の通用路から。昔に比べると舗装された上に路幅が広げられていました。土塁が削られたんじゃないかと心配したのですが、報告書(平成14年)によれば、この辺りも発掘以前にかなり崩壊していたらしいので、復元土塁なのかもしれません。

そしてこちらは平成12年に初めて来た時の写真。まだ銀塩カメラでした。
この芝生広場でも結構感動したのに、14年であそこまで進むとは。
よく見ると、冠木門と板塀も建て直したみたいですね。
今後も期待してます。
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こちらは、上の復元建築の上から西南側をふり返ったところ。
ちょうどこのあたりが建物入口だったと考えられているようです。
上部構造物は不明なので床までの復元となっています。
南北6間×東西10軒の建物で、接待・饗宴などに使われた会所と推定されています。
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南面には、このように側溝を備えた敷石通路があり、奥の水路を跨いでさらに西奥の方へ続いていく様相を示しているようです。
また、中央奥の、芝生に標示石が置いてある場所は、大量の舶載磁器片が出土したところで、落城後程ない時期に、集められた皿類などを廃棄した場所であろうということでした。
出土例の少ない明代景徳鎮窯の瑠璃碗なども出ていますが、大量購入されたような日用陶磁器が大半のようです。滝山城から引っ越しで持ち込まれたものも含まれているでしょうか。

その左の、石敷きの無い道路遺構の方には、鍛冶関係の施設があった可能性があるとのこと。

同じく北西方面に向いたところ。
建物の北側には、枯山水庭園が設けられており、会所中央の間から見るのが正面景色であったようです。
ちなみに、ニュースにもなった、ベネチア産レースガラス器が出土したのはこのあたりです。
庭との間には砂利敷き通路があり、その下には礫を詰めた溝を設けて暗渠が備えられていました。州浜を意識しているのかもと思いました。
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建物の外側に面した礎石は形状を揃えて見栄えをよく仕上げているようです。

もう少し下がった位置から庭をみたところ。
右端の大石が、枯山水の“三尊石”の中央石であったのではと推定されているようです。半分くらい土中に埋もれた状態で保存してありました。
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こちらが主殿と思われる建物跡。
南北9間×東西15間で、御主殿エリアで最大の建物になります。
会所に比べると、間取りのプランも幾つか推定できるようですが、礎石の配置状態から、南東隅に玄関があった可能性もあるとか。
右側の一部土が露出しているところは、まだ発掘していない箇所。
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手前は、会所北側の砂利敷通路の続きです。
左の水路の突き当たりには、土塀跡(根石)とそれに併行する道路状遺構があり、主殿跡の北側未発掘エリアにはまだ別の建物跡が埋まっているのかもしれません。

興味深いのは天目茶碗の遺物です。
御主殿エリアを含めて広範域で出土しているようですが、碗内に線条痕(引っかいたような跡)が多く確認されているのです。
茶筅による傷とは考えられず、乳鉢(手持ちのすり潰し器)への転用(例えば、丸薬の製造や火薬の調合など)の可能性が考えられるとのこと。
今では格式ばった台付き茶器のイメージある天目碗ですが、当時は茶器利用を越えるほどの日用雑器だったのかもしれません。ただ、線条痕は天目以外の碗でも確認されているものがあります。緊迫状況を示す遺物の可能性もあるでしょうね。

御主殿虎口の階段を見下ろしたところ。
びっしりと石敷きが復元整備されていますが、発掘時、路面中央部の石はかなり流出していたようです。
土塁沿いの水路はすぐに埋もれてしまいますから、通路の中央に長年雨水が流れていたのでしょう。
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階段を下りて振り返ったところ。
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正面の踊り場に四脚門の礎石があり、櫓門かと考えられています。
石の被熱痕から焼けた事が分かっています。

虎口の“引き橋”付近。こちらは敷石されていない硬化面でした。
城山エリアに多数石垣が設けられていることを考えると、見映えに影響しないためというよりも、実用的な目的からなのかもしれません。
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ここの南側土塁にも階段跡が出ていますが、川沿いの遺構が形を留めていないので、用途は分かっていません。塀が巡っていたりすれば、より豪華な御主殿の想像ができるのですが…。

同じく、引き橋付近の土塁石垣。
ここは、立て札から右側部分(やや赤茶けている)がオリジナルの遺構で、復元石垣(左側)と組んで整備されています。こういうタイプの石垣に新規に積み足すのは色々課題も生じたのではないかと思いますが何かが上部に載るわけではないので、負担は少ないのかもしれません。
オリジナル石垣は復元に比べると材が小さいですが、やはり積み方に一定の法則があるように見受けられます。
中層に面を揃える平たい石を持ってくる事が多いような気がします。
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平成12年に行った時の引き橋。御主殿の対岸から。
もうこの頃から経年感あったかもしれません。
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(つづく)

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八王子城再訪②

御主殿曲輪の整備と併せて建てられたガイダンス棟。後方は八王子城山(深沢山)。
どんなものができたのか、こちらも楽しみにしてました。
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なんだかウルトラセブンに出てきた宇宙人の宇宙船のような特徴的なシルエットですが、八王子の“八”に合わせた形(八芒星?)の屋根なのだとか。
八王子権現は方位除けの神としての性格ももっていましたから、まあ、デザインとしては悪くないかもしれません。

室内の展示は、北条氏や氏照、八王子城に関しての紹介パネルが中心。
出土遺物(陶磁器片)から再現された舶載の皿(のレプリカらしい)なども。

こちらは、八王子城山の立体模型。
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スクリーンになっていて、プロジェクターで往時の八王子城の姿を映し出します。

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落城する八王子城。暗闇に上がる炎が悲劇のドラマを演出します。
こういう立体スクリーンによる展示方法も面白いなと思いました。

吊るされていた手作り甲冑。来館者が着用できるのかも。
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まさかの、兜にカブトムシの立て物。
クワガタムシのバージョンもありました。

ガイダンス棟を後にすると、何やら法螺貝の音。
程なく、正面から甲冑武者隊が。
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どうやら、来週の八幡神社例祭に参加する武者行列のリハーサルだったようです。
それにしても、印判の軍旗とは。のぼり旗で“如意成就”の方がまださまになったような気もしますが…。山伏が行列に加わっているのが、高尾山のある八王子らしいですね。実際に山伏も籠城に加わっていたようですが。

上の写真後方に見える柵に囲まれたところは、近藤曲輪にあたるところ。
以前は東京造形大学のキャンパスがあり、幽霊の目撃で騒がれたそうですが、現在はエントランス広場という明るい芝生公園になっていました。

広場には八王子城と城下を表した立体模型があります。
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城を最奥に、谷戸に沿って作られた城下町なのが分かります。

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アシダ曲輪は、上下2~3段で構成される比較的広めの曲輪。
書籍によっては、こちらを「山下曲輪」と呼んでいる場合もあります。

アシダ曲輪の最下段土塁。
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一部だけ石垣が残っています。
土塁の草刈りを定期的にやってくれてるようで、ありがたい事です。

大手門跡。こちらも以前はブッシュが濃くて見難かったのですが。
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確認された礎石の状況から、この門は薬医門だったと考えられています。
また、堀を伴うものだったのが分かります。

見えてきた御主殿曲輪。大手門からの引き橋(平成2年復元)が経年劣化で通行不可になので、川沿いの林道から入っていく様になっています。
見えている石垣は全て復元ですが、虎口部分のだけやけに近世石垣っぽいのが違和感。
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この道は、江戸幕末に幕府の御用林として植林が進められた際に設けられたものと伝えられ、昭和40年代に東京営林署が大きく拡幅したもの。それによって御主殿の南側土塁の一部や川に面した多くの遺構が破壊されてしまっています。

御主殿の滝。
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投身自殺をした婦女や討死将兵らの血で城山川の水は赤く染まり、その下流の里人が米を炊くと赤い飯となったという伝説。それを偲んで落城日の6月23日には赤飯を炊く風習があるとか。今でもやってるのでしょうかね。

奥野さんから指摘され、滝から少し脇に目を転じると、石垣が良く残る台状遺構がありました。
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中央下段の大きな三角形(台形か)の石を基点に落とし積みした野面石垣の状況。真上に立ってみると奥にもぎっしり礫が詰まっている感触がありました。

林道工事によって破壊された御主殿南側の遺構の一部のようです。御主殿から滝へ下る通路だった可能性もあるでしょうか。次の写真の遺構とともに水汲み場を構成していたと考える人もいるようです。

“水汲み場”
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滝の落ち口の岩を桝状に削ったもののように見えます。
そうだとするなら、滝の水量はそれ程変わっていないのかもしれません。

(つづく)

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姿を現した北条氏の庭池跡

10月19日(土)、国史跡小田原城跡・御用米曲輪(ごようまいくるわ)における第5次発掘調査の現地説明会が行われたので、見学してきました。
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このエリアは、戦後長らく野球場や駐車場として活用されてきましたが、小田原城の中心的な遺構の一つ。
江戸時代の城絵図では、「御用米曲輪」や「御城米曲輪」などと記されています。
昭和57年に第1次調査が行われ、平成22年度からは、史跡小田原城跡の整備活用計画に則り、本格的な発掘調査が継続中。今までに、曲輪の名のもとである江戸時代の米蔵や瓦塀の跡、周囲をめぐっていた土塁の様相などが明らかになってきています。
昨年度(第4次)の調査では、その下の戦国期の層から、礎石を用いた建造物跡、加工石を用いた水路、庭の跡などの遺構が出土。「小田原北条氏当主の館と庭跡か?!」と、俄然注目度がアップしました。今年2月に開催された現地説明会では、雨まじりの天候にもかかわらず約1000人もの見学者が訪れたとの事。


今年度調査では、その庭の一部と考えられる池の跡が徐々に姿を現してきています。
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この遺構の興味深い点は、池の護岸が四角い石でタイル状に覆われて(葺かれて)いるところ。
このような庭池の意匠は、全国でもまだ見つかっておらず、庭園遺跡としても大変珍しいもののようです。

四角い石材は、主に五輪塔や宝篋印塔(中世の墓石や供養碑に最もポピュラーなもの)の笠や基礎の部分。その平たい面を表にして護岸に用いられています。
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出土した石材の中には、やや面積が大きめな反花座などもありますが、こうしたものが池底近くの下部に、上部にいくに従って小型の石材が積まれる傾向にあり、隙間を埋めるために再加工された石もあるようです。

また、色の違いからも分かるように、それぞれ石材の産地も異なります。
グレーや暗い青っぽい石は地元の箱根系安山岩で、明るい黄色っぽい石が三浦半島系の凝灰岩(写真では湿って暗くなってますが)。どちらもその地域ではポピュラーな石材ですが、柔らかい後者などは加工に適していたのかもしれません。
遺構を評価する人の中では、色の違う石材を意図的に用いていたのでは、と考える意見もあるようです。

残存している護岸石の様相と、現在明らかな池の規模を併せ考えると、2000個以上の石材が用いられていた計算になるとの事。これだけの石材(墓石)を集めるのも大変だったと思われます。関連文書などがあれば良いのですが。
現地説明の合間に出た話の一つに、城下山角町の調査で墓石がまとめ置かれていたような遺跡が出ているとあり、石材のストック場所として関連つけられるのか興味深い事例と思われます。

池の深さは、同時代の地表面から約130~200㎝。
池底から出土したカワラケの形状から、16世紀後半の池である事が分かっています。
現説会当日は、池に雨水が溜まってしまっていましたが、底まで、水面より石材もう二つ分ほどの深さがあるようです。
また、護岸石の一部が砂利に埋もれている状態のものがありますが、これもやや下った戦国期の造作。

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(「池」のⅠ期想定)
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(「池」のⅡ期想定)

どうやら、池の設けられた当初は石葺きの護岸池であったものに、後から砂利を入れて州浜に修景したようです。このあたりなどは、おそらく北条氏当主であろう造園発注者の趣味・意向が反映されていそうで、想像するだに楽しいところ。

池の曲線的な形状も興味を引かれます。
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小さなマウンド状だったような部分は築山の可能性もあるのでしょうか。後世の造作で原型を留めていないのが残念なところです。
写真でも分かる通り、この池の岸上に掘立柱建物の跡が出ています。
その隣にもう一つの池跡(上段の池)があり、滝で下段の池に流れていたと思われます。この建物は、それを見下ろすような形だったのでしょうか。

現在、この建物跡の部分が調査中で、戦国期の井戸や石敷の遺構が顔を出してきています。
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池の様相が戦国期でも変遷しているように、こちらも併せて考えていく必要があると思いますが、こちらも明治時代以降の廃棄坑(写真後方。瓦片などが投棄)で撹乱されており、残念ながら完存というわけにはいかなさそうです。


それから、城郭(の縄張り)遺構としての見地からは、「鉄門(くろがねもん)」とそれに伴う坂道の成立時期がより明らかになった点が大きな成果でしょうか。

鉄門は、御用米曲輪の東南側から本丸へと入る箇所にあった門です。
幾つかある小田原城絵図の中で、近世城郭としての最初の姿を伝えるものが、稲葉氏が小田原藩主であった時期にの正保年間(1645~48)に描かれた『相模国小田原城絵図(正保図)』ですが、そこにはすでに枡形門が描かれています。御用米曲輪の箇所にも「百軒蔵」とあります。

今回出土した庭園遺構は、この鉄門へと続く坂道の下へと延長していく様相を示していますので、坂道の土塁そのものが江戸前期の造成であることが明らかになりました。
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(後方のスロープが鉄門への坂道。手前の土管と石組桝は、明治の御用邸時代のもの)

御用米曲輪の土塁では、城址公園入口の側の土塁も江戸期のものであったのが確認されているので、明治まで土塁に囲われ閉鎖的空間だったこのエリアの景観は、戦国期にはだいぶ異なっていたようです。

個人的には、庭園遺構があまりに珍しいものであったためか、鉄門に関わる報道があまりされていないのがやや残念に感じています。

(現地説明会のレポはここまで。以下は、私個人の勝手な想像。自身への覚書用に)

鉄門の前身とも思われる細長い曲輪とその下段の水堀が、『加藤図』にのみ描かれています。
この明確ではなかった部分が、第3次調査以降に明らかにされているのも大きな成果ではないでしょうか。

『加藤図』は『相州小田原古絵図』といい、大久保家臣加藤家に伝わったもので、慶長19年(1614)の大久保忠隣改易に伴う小田原城破却の後から寛永9年(1632)の稲葉氏小田原入城の間に描かれたものと評価されています。
同絵図には、後世の小田原城絵図にはない「丸馬出」が描かれていたりと、前近代城郭的な古風な小田原城(前期大久保氏の頃と思われる)の状況が描かれているのが特徴ですが、これにはまだ鉄門にあたる枡形虎口は描かれていません。
代わりに、(後世の)本丸と御用米曲輪との間に、もう一つ細長い曲輪が描かれています。描き方を見る限りでは、これが本丸からの横矢を伴う導入路となっていたようです。これが道ともに廃され、よりコンパクトで洗練された枡形門となったのが鉄門なのではないでしょうか。あくまで想像の域を出ませんが。
そして、その細長い曲輪と御用米曲輪との間に描かれた水堀。
絵図から受ける印象では、この水堀が現在調査中の上段の池のエリアまで延びていたようにも見えます。
上段の池には石垣を伴う堀障子が3次調査で確認されており、前回の説明会でもその一部を見る事が出来ました。
これも想像の域を出ませんが、加藤図に描かれているこの細長い曲輪と水堀の構成は、北条時代を踏襲している可能性もあるようにも思えます。
(想像ここまでw)

庭の様相と共に、御用米曲輪と本丸との連結部の変遷の歴史がより明らかにされる事も期待しています。


御用米曲輪の調査は現在も進行中で、来年度も継続されるそうです。
次回の現地説明会は、11月23日と12月21日に予定。
少しづつ明らかになって行く過程を一般の人にもともに味わってもらいたいという、粋な計らいです。
池跡ということで、月一の見学会の度に水抜きの作業があるのでは調査側も大変な気もしますが、見学者としては大変楽しみなイベントです。無理の無い範囲でまた色々とご教示頂きたいものです。

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暑かった…

詳しくは書けませんが、後北条氏関連の文化財を某寺社で間近に拝観する機会がありました。

宮帯出版で予定の、後北条氏の武具を紹介する本に関連した調査に同行させて頂いたのでした。

調査後、甲冑研究家の竹村先生の希望で源頼朝の墓所や鎌倉宮へ。
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近年発掘調査で実在が明らかになった北条義時の法華堂跡にも寄りましたが、最近の風雨で大きな倒木が。
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曽祖母の影

小國神社参拝の後、袋井の大叔父宅へ。
ここで昼食を食べて暫し休息。
観光地よりも、大叔父夫婦が「そうかね、そうかね」と相槌するのを聞いてようやく、遠州に来たなあ、と実感(笑)。小田原に嫁入りした祖母もこの口調だけは変わっていません。

家の周りは、田畑の宅地化・道路化がますます進んできた気がします。
それでも、元農家のこの家が、佇まいゆったりとして落ち着くのは、“遠州の空っ風”で特有な防風林を周りに残しているからかもしれません。

風といえば、先週の台風4号の時は、2日ほど停電になったそうです。全然知りませんでした。
テレビは、首都圏のニュースは事細かに伝えるのですが、ローカルな情報は粗過ぎとのこと。

その後、お墓参りも、と思いましたが、手入れ(草むしり)前なので行かないでと(笑)。
墓所がお寺の裏手高台ということもありますが。
祖母は、前回来た時は自分の足で登れたのですが、90歳を過ぎた今では車イスが頼り。
まあ、私が負ぶっても良かったのですが、祖母も大叔父宅で両親の位牌をじっくり拝んでいたので充分のようでした。

私の記憶に残る曽祖母は、幼少時に会った一度のみ。
夏休みに遊びに行った時、土間のあがりから見送りがてら、当時の私には大額のお小遣いをくれました。
現金なもので子供時代はこういう体験から、素直に「良い人、凄い人」と記憶にしっかり残ります(笑)
それだけに、位牌を前にすると、今の己を省みられる思いひとしおでもあるのですが…
私も、捻くれない立派な爺さんにならねば(笑)!


ちなみに、お寺は(こちらも以前書いた気がしますが)、海蔵寺という曹洞宗寺院。
人懐こいネコが何匹もいたのを覚えています。
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これらの写真は前回(平成19年)に行った時のもの。

歴史としては、遠州今川氏(遠江守護)ゆかりの寺で、室町時代に九州探題を務めた今川貞世の墓(追善塔)があります。
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寺域は貞世の後裔、堀越氏の館跡(堀越城跡)とされ、周囲に一部土塁と堀跡が残ります。
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周囲は年々その趣きも変わって来ているそうで、また現況なども見ておきたかったのですが、そうした史跡関係はまた今度一人で来た時に。土塁とか崩されてないと良いけど。

堀越氏は、後に徳川家康正室の実家とされる瀬名氏を分家していますし、戦国期には駿河今川氏と対立して後北条氏や武田氏とも結んだり、なかなか興味深い歴史がありそうです。


帰るにはまだ時間があるので、そう離れていないところにある「可睡ゆりの園」を見て行く事にしました。
http://www.yurien.jp/
私はその道路向かいにあるお寺、可睡斎に行ったので見ませんでしたが、敷地は広く、色々な種類のユリの花が咲いて見応えあったようです。

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遠州のミニ出雲と真田城

新東名で袋井市に向かう場合、森・掛川ICで降りる事になります。

そこで、前から行ってみたかった、森町の小國神社に寄ってみる事にしました。遠江国の一宮。
森町というと、以前は、お茶と、侠客の森の石松くらいしか思い浮かびませんでしたが、歴史も興味深そうです。
江戸時代、火伏せ神の秋葉山信仰で往来された、秋葉街道が町域内を通るため、年数を経た石碑なども時々見かけます。

こちらが、その小國神社。
土曜の昼とあって、結構参拝者の姿もありました。
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山深い土地ではないですが、杉の高木が並木している参道は、時を超え厳かな空間を保っています。
右手木立の中には勅使路が残されており、風格もあります。

御祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)。
“だいこくさん”こと大国主命(おおくにぬしのみこと)としての名前の方が良く知られていますが。
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拝殿前には、大きな小槌(大槌ではない)の像が奉納されていました。

大己貴命はかなりポピュラーな神なので、結構あちこちで祀られています。
関東では、出雲系の国造が治めていた武蔵国の氷川神社などが最も有名でしょうか。
ウチからの近所でも、相模二宮の川匂神社や総社の六所神社に祀られています。

ミニ出雲、とわざわざ書いたのは、祭神ゆえではありません。
ここの本殿が出雲造りの、妻入りの建物だからであります。
しっかりとした出雲造りの社殿は、神奈川県ではまず見られないし、東海道沿いでも稀有でしょう。まあ、今の社殿は明治の大火後の再建とのことですが。

ただ、残念ながら、拝殿ごしにしか見えるのは屋根だけでした。
拝殿渡り廊下から覗き見た本殿。
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この塀の内に、出雲造りの社殿が二棟立っているそうです。
一般参拝者は、年に一度、初甲子の日にだけ塀内で特別参拝の機会があるそうで、いつかもし都合が合えば、参拝してみたいと思います。

境内の脇には、清水流れる川があります。
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ここの紅葉は有名で、秋にはテレビの天気予報などの差し込み映像などでよく使われたりします。
青楓もまた涼しげ。

川を越えた山側には小さな滝があって、その上には、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀った滝宮社がひっそりと。
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こちらには殆どお参りする人はいませんでした。
こういう隠れ家的なお宮に出会うと嬉しくなりますね。

ご朱印を頂いて、境内を後にしました。

祖母は、女学校で来た時以来だから、実に約75年ぶりの参拝。
昔はもっと神社の森が濃くて荘厳な感じだった、と言っていました。
社殿などは同じはずですが、今の方が門前にお土産屋があったり、結婚式や車のお祓い場などがあって、悪く言えば俗な部分が増えたのかもしれません。
まあ、それは全国どこの神社もそうですが(笑)。

たぶん、戦前の官幣小社という格が凛としていたのかもしれません。
戦後生まれの私には想像しにくいのですが、明治より戦前までの神社、特に官幣社は国の管理維持を受けていたので、自ずと背筋が伸ばされるような神域が保たれていたのでしょう。

帰り道、といっても境内を出て車で2・3分ほどの所ですが、こんなのがありました。
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なにが“楽園”なのかは良く分かりませんが、ともかく、後ろの小山が城址のようです。

解説文によれば、この地の武士、武藤氏はこの真田城(一の宮城)を居城とし、元亀・天正の頃に徳川方から武田方へ旗を移したので、徳川氏の攻撃を受けたとありました。
この時、武藤氏は小國神社に立て篭もったので、徳川氏により社殿は焼き落とされてしまったようです。
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図でも城の規模は小さそうですから、神社に籠ったのでしょうか?

ちなみに、神社のパンフでは社伝として、その年を元亀3年とし。徳川氏の目代を務めていた武藤氏定が武田勢を招き入れたとして、神職・小國重勝が一子・千松麻呂を徳川氏に使いとして送り、そのまま人質として留め置いたとしています。
その折、“家康公”は、神社の御神霊を別所に遷座させ、戦勝祈願をした後に、神社に火をかけたのだとか。

どこまでの話が真実かは今となっては分かりませんが、その後、天正年間に三度に渡って、社殿の再建・造営を行っているのは事実です。
慶長8年に590石の朱印。
江戸期を通じて幕府の保護と修理を受けたが、明治15年3月に火災で全ての建物を焼失。
明治19年に再建。
明治の再建社殿もすでに1世紀以上を経て、時代の重みを感じさせます。
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黒田長成別邸

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公開中の旧黒田長成別邸「清閑亭」に行ってきました。
場所は南町1丁目で、報徳二宮神社側から旧城内高校正門への坂を上った途中左手に門があります。

清閑亭は、国登録有形文化財に指定されており、2年前に所有者であった第一生命から小田原市が買取りました。
今まで年に数回の公開のほかは通常公開されていませんでしたが、今月より、地元で街おこし協議などしているNPO法人「小田原まちづくり応援団」による実験的活用として、無料の建物公開および有料の喫茶サービスが供されています。

建物を構えた黒田長成は、最後の筑前福岡藩主・黒田長知の長男。
英ケンブリッジ大を卒業し、貴族院議員を経て貴族院副議長を長年務めた人物です。晩年は枢密顧問官でした。

この小田原別邸を建てるにあたっては、立地である天神山の尾根続き高台に邸を構えていた閑院宮(載仁親王)家の土地を一部購入したようで、同宮家との関係を考えさせます。
のちに長成の長男・長禮(ながみち)は、載仁親王の第二王女(茂子)を妻に受けています。
「静閑亭」の名の由来は、長成の妻・清子(島津忠義の娘)と閑院宮家から一字づつ採ったのでしょうか。

建築は、一部2階付きの木造平屋建て。
入母屋造りの純和風で、主屋は数寄屋風書院造り。
ほぼ全室とも海に面しており、ガラス戸も大きく採られて大変開放的。
前に障害となる高層建築が無いので、今でも海からの風がよく入ってきます。
築年は明治末から大正初期。
戦後黒田家から所有が何度か移るなかで解体・増築がなされているらしく、まだ不明な点があるようです。

主屋で一部使われている杉戸絵は、かつては小田原藩の絵師・岡本秋暉の作ではないかと言われていましたが、否定されているようです。しかし、画風は似ているので弟子筋ではないかとも。
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絵の構図が現在の戸の大きさに調和していない点などから、他所から持ち込まれ加工されたもののようです。


現存している建物は概ね良く残っていますが、手を入れたい老朽化した箇所は内外ともに見られました。

昨年末のNHKドラマで放送された『坂の上の雲』主人公の1人、秋山真之は、小田原の山下亀三郎邸で最後を迎えますが、山下邸は清閑亭の南に近接していました。
山下亀三郎は山下汽船の創業者で、現在では横浜の山下公園などにその名前が残っていますが、彼は秋山と同じ愛媛の出身です。
現在山下邸は当時の石垣くらいしか残っていませんが、清閑亭の庭からは今でも海が見渡せ、往時を偲ぶ事が出来ます。

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小田原まちづくり応援団による一般公開と喫茶サービスは、今月いっぱいは毎日、以後は土日のみの公開とななるそうです。
メニューは300円のコーヒー(菓子付き)だけですが、見学者が少ないのでとても落ちついたひと時を味わえました。

せっかく市の所有になったのだから通年オープンにして欲しいとも思いますが、四角ばった公共施設というのも味わいが無い…
現在行われているような、飲食やリラックスの空間が今後も供されるよう期待したいです。
今回の活用実験からどのような見解が出されるのか分かりませんが、個人的には鎌倉の「大佛茶廊」のようになってくれたら素敵だなと思いました。


それから、清閑亭の旧正門脇にある土手は小田原城の三の丸外郭土塁です。
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堀の方はちょうど、「和菓子・菜の花」の工場裏にあたります。
土塁・堀ともに大変良好に残存しているように見えます。
ここは三の丸の箱根口門から西に続く水堀が、空堀に変わる付近にあたりますが、正保期の小田原城絵図では、周囲が薮や畑に描かれています。
規模は大きく、北条時代の土塁が踏襲されていたのではないでしょうか。

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二階堂は基壇まで

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1005050021/

発掘調査後は長らく立ち入り禁止の野っ原状態であった、鎌倉市二階堂の永福寺跡。
言わずもがな、地名のもとになったお寺の跡である。
ようやく、今年度から復元が始まるとは聞いていたが、着手されるのは庭園と建物基壇のみ。
地名のもとになった伽藍は再建されないようだ。
楽しみだけど、少し残念でもある。

称名寺庭園の二番煎じみたいになるのだろうか。
とはいえ、鎌倉で浄土式庭園が見れるというのは、素直に嬉しい。
(八幡宮の池も浄土式庭園の思想を受け継いでいるのではあるが)

庭は、畠山重忠が大石を1人で運んだ話などが特に有名。
そんな手順まで再現するサービスはないだろうけど(笑)
完成の頃には、蹴鞠や歌のイベントでも行うのだろうか。


でも、やっぱり見てみたい。実物大の二階堂。
建物だけ推定再建して、室内は鎌倉市の考古資料館とでもしたら面白いと思うのだが。
ここだけでも結構な遺物が出ているはず。

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駅伝観戦、初寅詣り、初やぶ漕ぎ

昨日(そして今日まで)は、毎年お参りしている水之尾毘沙門天の祭礼。
本来は初寅に合わせてなのですが、今では直近の土日になっています。

今回は、箱根駅伝の往路と同日なので、併せて観戦してきました。

…と、非常に気軽に出かけたのですが、凄い人ごみにはまってしまいました。
昼ころ小田原駅に行ったのですが、もう駅伝追っかけの人だらけ。
改札もダラダラしがち。
ちょうど前に、何本もダイコンのぼり旗を持っているグループ(笑)がいましたので、その後ろについて小田急ホームまで。
分かってるけど、皆ニット帽とリュックに旗。一揆みたいだぞ(笑)

小田急のホームはさらに混雑。
乗客が多すぎて、乗る予定だった湯本行きが乗れない!こんなに混むとは。
仕方なく次の電車で風祭へ。

風祭駅前の鈴広かまぼこ売店を抜け国道へ出ると、もう後ろの方のランナー。
見れたのは、専修から大東大まで。
まあ、間に合っただけでも良しとするか。
(東洋大の柏原が見れなかったのは残念だったけど)
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写真は大東大。
(後ろの山は細川忠興陣場跡のふじ山)
最後だけに応援の声も大きかった。
ま、中継所出たばかりだから、皆まだ元気だったんですけど(笑)

それでも、見てる方も元気がもらえて良いもんです。
私は特に競技として好きな訳ではないのですが、正月のイベントとしてやっぱり家族でテレビ見てしまうし、中継ヘリの音が近づくと興奮してしまいます。
来年は、箱根神社初詣と併せて芦ノ湖で見ようかな。
こっちの方がもっと混みそうだけど。

最後のランナーが行ったところで、私は駅に戻らず、その裏の山中へ。
このミカン山(丸塚山)を越えて行くと、その向こうに目指す毘沙門さんがあるのです。

晴れて陽気なミカン農道を進み、水之尾集落へ。
途中、(推定)織田信包陣場跡や山縣水道池(有朋が別荘の水のためにわざわざ造らせた溜め池)を見て、山の尾根へ。

ここはちょうど宇喜多秀家の本陣があったと推定されている個所。
ここで、昨秋岡山県早島町で買ってきた“うっきー”人形(秀家がモデルの早島町マスコットキャラ)を座らせて、一枚パチリ。
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最初からこういう遊びの為に買ってきたものですから(笑)。

ここ推定本陣からは、宇喜多前衛陣地とされる“佐野ご天守”、さらに小田原の街と相模湾、鎌倉方面の海岸線が望めます。
信包陣場や宇喜多陣場に関してはまた後日。

まず毘沙門さんに参拝。
ご祈祷の時間にはまだ早いのですが、今年4月には12年に一度のご開帳がありますので、その時にまた。

帰路は小峯大堀切の隣にある蓮船寺さんへ。
こちらは小田原七福神の三面大黒さんを祀ってあるお寺です。
今年も愛嬌のある柴が迎えてくれました。

その後、普段は閉門している大久保神社(祭神・大久保忠世・忠真)も開いていたので、しっかり参拝。
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これで、北条さん・大久保さんと新旧の小田原城主の初詣も済みました(笑)。
稲葉さんとこはまた後日、桜の時以外に行こう。

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