カテゴリー「神社仏閣・霊場巡礼」の100件の記事

2013下谷七福神めぐり(7)布袋尊

飛び不動前の道を北上して右手に東泉小学校が見えると、その向かいが寿永寺(浄土宗)。
布袋尊の担当。

正月以外は、堅固そうな門が閉ざされ、外にはいつもパトカーが停車している。
スターデストロイヤーの艦橋を連想させるような、いかつい本堂のデザイン。
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外門ばかりか本堂の扉も、このように完全に閉じられていると、つい気おくれしてしまいそうである。
実際は、右手の通用口からいつでも出入りできるようになっている。

布袋さんには、通用口をくぐるとすぐ会える。
どっしりと大きな石像で、呵々大笑したお顔が大変印象的。
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やはり、と言うべきか、舌の上にはお賽銭が乗っていた。
よく見ると、台座になってる茶臼状の石もかなり大きなものである。

ご神徳は、清廉度量。
確かに、チンケな悩みなど吹き飛ばしてくれそうなお顔である。

布袋尊の絵馬。
長らく風雨にさらされているもののようだが、見かけたのはこれ一枚きりだった。
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こちらは普段は完全に檀家さんがお参りするだけの寺のようで、オリジナル授与品は正月の対応期間のみ玄関先にでも出されるのだろう。言えば出して下さるとは思うが。

布袋尊ご尊体と、飾り台である“絵馬台”(600円)を頂く。
布袋さんのご尊体は、全七福神の中で一番ボリュームがあってなかなか良い味を出している。
100円ショップで売っている、飾り用のミニ座布団にでも乗せれば、単体で飾っても見栄えがしそうだ。

こちら帰宅後に写した七福神勢揃いの図。
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絵馬台は舞台を模してるのかと思ったが、特にそういうわけではないようだ。
最初にも書いたが、絵馬台は寿永寺、宝船は元三島神社でしか頒布していないのでご注意されたい。
今回はバックに容積が足りなかったので、絵馬台のみ購入した。

ちなみに、寿永寺は寛永7年(1630年)の創建で、開基は寿永法尼というお方。近年大河ドラマ主人公にもなった徳川秀忠正室・お江の方の侍女をしていた方だそうだ。

それにしても、物々しい寺の外観と、朗らかな笑顔の布袋さんはかなりギャップが大きい。
結局それが一番記憶に残りそうではある(笑)


こちらは、交差点を挟んだ斜め向かいにあるお寺、梅林寺。
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名前の如く、お庭には各種の梅の樹が植えられていて、ちょうど花の見ごろだった。

本堂前の片隅には、小さな天満宮があって中には菅公像が。
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お顔は憤怒相で、敷物が蛇状になっている、いわゆる綱巻天神の様式。
寺号の梅林と、この天神さんはゆかりがあるように思えるが、お寺の来歴を記した案内板のようなものは見当たらなかった。


こちらは、三ノ輪交差点から金杉通りを上野方面に歩いた途中で見かけた三島神社。
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ご由緒を見るに、先ほどの元三島神社と同じく河野氏ゆかりの神社となっている。
境内摂社の火除稲荷さんの由緒によれば、ここはもと火除け地で、どうやら三島神社の神輿のお旅所であったようだ。
(ちなみに、このお稲荷さんのお祭りが来る3月6日にあるようで、七福神巡りの間に何度も告知ポスターを見かけた)
元三島さんと同じ神さまという事で、こちらも参拝させて頂く。
ところで、こういう神明系の社殿に住吉っぽい向拝が付くのは、三島神社の一形式なのだろうか?

境内には、むかし雷さまが落ちたという古井戸があり、絵馬もそれに由来するオリジナルのもの。
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かなりグッと来るイラストなので、よほど頂こうかと思ったが、バックに入りきらなそうなのでこれもまた次回に。
無理すれば入らない事も無いが、せっかくコンプしたご尊体を破損させては元も子もない。

おまけ。
こちらは、この後行った東博の常設展示でお見かけした寿老人さん。
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“色絵寿老置物”
江戸後期(19世紀)の京焼で、仁阿弥道八の作。
肌の質感や、表情の彫りなどがとても豊か。

しかし、作品銘は“寿老”だが、この長い頭は紛う事なく福禄寿。
と、今の視点からすると思ってしまう。
福禄寿と寿老人は、本来、同一の南極老人星の化身をモデルにした神仙なのは現在ではよく知られているが、この頃はまだ外見の表現に関しては、確たる共通像が成立していなかったのだろうか…。

ともかくも、これにて今年の七福神巡りは落着。
もう3月ではあるが、七難即滅・七福即生足り得る人間であるよう、ますます努めて行きたいと思う。

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2013下谷七福神めぐり(6)恵比寿神

次の恵比寿さんは“飛び不動尊”こと正寶院(寺門系天台宗単立)にある。
昔、大峰山から一夜にして江戸へ飛んで返ってきたと伝える不動明王が本尊のお寺。
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さきの英信寺と同じく、間口が狭く奥に寺域が開けているのが、いかにも下町寺らしい。
とはいえ、多くが、明治の神仏分離・廃仏、大正の震災、昭和の戦災を経ての姿であったりもするので、一概に風情がどうこうと言えないのではあるが。

こちら、関東三十六不動尊霊場の第二十四番札所で、私もその参拝に来たのが最初だった。
その後、小田原在住の日本画家、近藤弘明さんのご実家ということで、初期の絵を拝見させてもらった事がある。
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ちょうど本堂の塗り直しをしているようで、ペンキ屋さんがお昼の休憩中。
下地塗りなのかもしれないが、戸板(蔀戸?)が白く塗り直されて、明るい雰囲気。
ともかく、まずはこちらのお不動さんに久々のご挨拶をする。

軒下には、こんな写真額が新たに掲揚されていた。
映画にもなった小惑星探査機「はやぶさ」が、大気圏に再突入(つまり帰還)した時の写真。
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聞けば、はやぶさを打ち上げるに当たって、こちらでご祈祷したのだという。
以前テレビで観た番組では、どこか山奥の神社でご祈祷していたのを紹介していたが、これだけ大きなプロジェクトだから、多くの関係者がそれぞれ知る寺社に詣でたりしたのかもしれない。
どんなに最新技術の粋を集めたものであっても、まだまだ宇宙での活動・捜査という点では、実際にやってみないと分からない事が多いはず。
遠隔操作となれば、まさに天のみぞ知る状況なわけで、特に交信途絶した時などに至っては、めいめい祈る心も真剣であったと思う。
こちらは飛行機の守護祈願でよく知られたお寺なので、宇宙の事でも宜しくとなったのだろう。


そして、恵比寿堂。
全ての願い事を聞いてくれる「きく恵比寿」尊がお祀りされている。
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ささやかな竹藪が風情を添えている。

こちらもガラス越しに恵比寿さんを拝む事ができる。
冠を脱いだら実は布袋さんなんじゃないか、というような大きく福々しいお顔。
お像は銅造だろうか。どっしりした質感。
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平成11年発行の『関東三十六不動霊場ガイドブック』には、少し異なる木造の恵比寿さんが載っているので、こちらはお前立担当のお像なのかもしれない。
10月10日が縁日で、キクの花をお供えするそうだ。
よく見ると、お像の両脇の常花も菊の形をしている。

ご神徳は、喜結良縁・敬愛富財。

お堂の前には「お参りの仕方」として、一礼二拍手一礼・ご真言、と仏式の神拝作法が日英二ヶ国語で説明書きがあった。
外国人の参拝客は多いのだろうか?
確かに日暮里駅からは京成スカイライナーで成田空港と結ばれてはいるが…

しかし実はそれより、個人的に気になったのは、ご真言である。
「おん・ろきゃ・ろきゃ・きゃらや・そわか」
いわゆる諸天神呪だが、七福神で恵比寿天のご真言を掲げる場合、
「おん・いんだらや・そわか」
の帝釈天(インドラ)の真言が使われている事が多い。
恵比寿神は七福神中で唯一の日本の神さまということで、合致する性格の天尊、もしくは尊名の音(たぶん“ぃえびす”の音を“イー”に?)に合わせた辺りから真言を充てているのだろうと想像するのだが…
ただ、諸天神呪だと主尊あっての脇役っぽいし、七福神全部これで代用できてしまう気がしないでもない。
まあ、そんな事いくら考えても何の意味も無いのではあるが。

こちらでは2種の絵馬が頒布されている。
どちらも寺オリジナルの飛び不動さんと、きく恵比寿さんのイラスト。
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お不動さんの前を飛んでいる機種はボーイング747かと思われる。

庫裏で、恵比寿神ご尊体と先ほどの朝日弁財天のご朱印を頂いた。

さて、交差点「飛不動前」を渡って、道なりに進めば、最後の布袋尊・寿永寺。

その前に、途中の一つとなり道にある一葉記念館へ。
小さな記念公園があって、「一葉女史たけくらべ記念碑」が立っていた。
隣りの織部灯篭が優雅。
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しかし、この後に東博で展観する予定だったのを思い出した。また今度にしよう。
まずは一路七福神の満願へ。

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2013下谷七福神めぐり(5)弁財天

下谷七福神の寺社は、今まで何度か参拝しているところが殆どだが、この弁天院だけは、今回が初訪問。
加えて、由緒がなかなか興味深かったので、今回の七福神巡りでは一番楽しみにしていた所であった。

法昌寺からは徒歩15分ほど。
大通りはあまり好きではないのだが、初めての地なので迷わぬよう、昭和通りを北上し、東京トヨペットを過ぎて二つ目の角から裏道へ。小さな事務所ビルが立ち並ぶ通りを進むと、五叉路の一角に小さな公園があって、そこに弁天堂が立っていた。境内の一角が公園に供されていると言うべきなのかもしれないが。

朝日弁財天。寺号は、朝日山弁天院(曹洞宗)。
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両脇の銀杏が黄葉する頃は趣きもまた違っている事だろう。

この朝日弁財天は、上野不忍池の弁財天と姉妹弁天とされている。

上野の東叡山寛永寺が江戸の比叡山、清水観音堂が江戸の清水寺と見立てて建立されたように、不忍池の弁天堂もまた琵琶湖の竹生島弁財天になぞらえて中之島を造りお堂が建てられたのは良く知られている。
その中之島造成を担当したのが、常陸下館藩主の水谷勝隆だったのだが、彼は江戸の下屋敷内にも池と中島を設けて弁財天を勧請し屋敷神として信仰していた。それをもって、上野の東方にあたるこの弁財天に朝日を冠したのだという。

ちなみに、水谷勝隆は後に備中松山藩主に転ぜられ、以後三代に渡り松山藩主を務めている。天守をはじめ国重文となっている備中松山城の現在の姿が整えられたのは、勝隆の子・勝宗が藩主の時代であった。
三代勝美には継子無く、藩は断絶するが、旗本となっていた一族が名跡と知行を継いでいる。

下屋敷の地は面積約2万坪あり、そこに2千4百坪の広さの池と約50坪の琵琶形の中島が設けられていた。
明治の初めに水谷氏が土地を手放して以降も、池の景観は残され、長い木橋が架けられた島には松柏の大樹が鬱蒼としていたという。周囲には瀟洒な別荘などが建てられ人気の場所だったようだ。


そのように愛された池も、大正12年の関東大震災の後、東京市の要請によって、近隣区等からの焼土を処分する埋立地となってしまった。現在では、この小さな池と石橋が往時を偲ぶよすがとなっている。
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突き出したパイプから池に流れる水は湧水なのだろうか?
池には金魚が泳ぎ、意外と綺麗そうな水だった。

池を渡る反り橋。小さな橋だが、これが有るか無いかで、弁天堂らしい佇まいが大分変わると思う。
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弁天堂の中。
ガラス越しの遠目にだが、開扉した厨子に八臂弁財天像が見えた。何度も罹災した弁天さまなので、お像は比較的新しいのかもしれない。あくまで遠目に見た感じだが。
弁財天の神徳は、芸道・富有・結縁。
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本尊はこの弁財天のほかに、釈迦如来像が並び祀られている。
こちらは、昭和28年の宗教法人法の施行に伴い、曹洞宗の朝日山弁天院と号した時に本尊として祀ったものらしい。

隣に立つ弁天会館の貼り紙。
弁天院は近隣住民の管理による無住寺で、正月以外は、平日の午前中のみ参拝客の対応をしているようだ。
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ご朱印はこれらのお寺でも受けられるが、書置きやご尊体なら、この貼り紙横のボックスにしまってある。

代金は、ボックスに準備してあるプラ袋に入れて、賽銭箱に捧げるよう書いてある。
私は、ご尊体(400円)と由緒書(10円)を頂いたが、説明をよく読む前だったので、直にに代金を賽銭箱に入れてしまった。まあ、賽銭箱は毎日チェックするだろうから、分かってくれると思うが。
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残念だったのは、絵馬が無い事だろうか。
下谷七福神のうち、絵馬が無いのはここだけだった。
地域で共同護持のお寺なので、オリジナル授与品などを制作するのが難しいのかもしれない。


次に恵比寿神さんの飛び不動尊へは、公園前の道からまっすぐ国際通りの方へ出て行けばよかったのだが、途中で軽食した後方角を間違えてしまい、鷲神社の前に出てしまった。
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酉の市でお馴染だが、門前に年中立てられている飾り熊手が、今日は七福神の宝船に見える(笑)
こちらは「浅草名所七福神」の一つで、寿老人を担当している。
せっかくなのでお参りさせて頂いた。

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拝殿前には大きなお多福(おかめさん)面が。
額の「開運」の二文字もあって、おめでたい。

拝殿内なので撮っていないが、こちらで寿老人のお像を拝む事ができた。
下谷七福神では、今回最初に参拝した元三島神社が寿老人(寿老神)担当だが、正月をとっくに過ぎていたので拝観できなかったのだった。
で、何だかありがとうございます、と思って手を合わせていたら、賽銭箱前の祝詞が記してある板がパタリと倒れてちょっとビックリ。まあ、風が強かったのだけど。

正月以外に下谷七福神巡りをされる方は、鷲神社にも寄ってみると良いかもしれない。ほんの少し寄り道するだけで、七福神ご神像の拝観がコンプリートできるのだから。

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2013下谷七福神めぐり(4)毘沙門天

毘沙門天の担当は、法昌寺(法華宗本門流)。
先ほどの英信寺からはすぐ近く。住宅の密集した小道がいかにも下町らしい。

奥にあるのが毘沙門堂。まずは、本堂にナンミョーと合掌。
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ちょうどお蕎麦屋さんが出前を届けているところだった。
お食事時にご面倒をおかけするわけにはいかない。正午の時間帯の訪問も不躾である。
幸い、こちらも以前参拝した時にご尊体やご朱印ともに頂いていたので、独り静かに参拝をさせて頂いた。

日蓮宗・法華宗では、大黒天に並び、毘沙門天も割とよく見かける。神楽坂の毘沙門さまで知られる善國寺をはじめ、江戸の三毘沙門天はいずれも日蓮宗だったのを考えると、近世以降の日蓮宗系では結構人気のあった神様なのかもしれない。
また、由緒を漁師の網にかかった等の海中出現とするものも時々ある。


毘沙門天の神徳は、勇気授福。必勝開運の軍神とある。

こちらは三年前に参拝した時の毘沙門さん。
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厨子に入った色鮮やかな木像だったのだが…


なんと、いつの間にか石像の毘沙門さんになっていた。
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これはこれで、真新しくて凛々しいお姿だとは思うのだが、前任の毘沙門さんはどこへ行ったのか…
本堂内へご隠居されたのか、はたまた厨子ごと盗まれちゃったのか。
少々気になったのであった。
今回は昼時だったこともあり遠慮したが、また近くを通った折にでも聞いてみよう。


本堂前の“たこ地蔵”。
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元プロボクサーでコメディアンだった、たこ八郎さんの慰霊の為、師匠の由利徹さん、漫画家の赤塚不二夫さんらが発起人となって建立されたもの。
顔や耳が故人に似せられた、珍しい地蔵さま。『笑っていいとも』に出ていた頃しか殆ど存じないが、後に片岡鶴太郎さん演じる伝記ドラマを観て色々と驚いた覚えがある。まあ、あれは鶴ちゃんの役作りに感動したのも大きいのだけど。
下谷七福神の案内チラシには赤塚氏の宝船イラストが載っているが、このお寺も同氏に何かゆかりがあるのだろうか。

絵馬。
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京劇のようなギョロ目に力強い“勝運”の朱字。
誰のイラストなのかは分からないが、サインが入っている絵馬も珍しい。


法昌寺の道路向こうには、富士塚で有名な小野照崎神社がある。
あの『男はつらいよ』の寅さんで有名な渥美清さんも願掛けしたとか、寅さんの首から下がってるお守りは実は帝釈さまじゃなくてこの神社のだとか、色々話を耳にした事はあるが定かではない。
しかし、芸人好きな方は、たこ地蔵尊と併せてお参りするのも良いかもしれない。

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2013下谷七福神めぐり(3)大黒天

大黒天担当の英信寺(浄土宗)は金杉通り。
旧日光街道であるこの道沿いは今でも寺社が多く、横丁に入れば下見板張りの木造住宅が今でも残っていたりと、絵になる寺町・下町情緒が漂う。近世城下町では、総構えの見附(門)外の街道沿いが寺町になっている事が多いが、この辺りの場合は、江戸城の出城の一つとされた東叡山寛永寺を意識した寺町だったのだろうか。

英信寺山門は通りから少し奥まった所にあるが、隣の東電変電所の門が広いので、車だと気づかず通り過ぎてしまいそうである。徒歩なら、大黒天ののぼり旗に気づくだろうが。

まずは本堂にナンマイダブと参拝すると、大きな手繰り数珠が下がっている。珠を繰る度にカチカチと音が鳴って面白い。そういえば箱根の阿弥陀寺(浄土宗)にもあった。百万遍念仏みたいなものなんだろうか。
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屋根上の鳩二羽はどうやら瓦でできているようだ。

お堂前のキンカンが鈴なりだった。
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大黒天は、本堂と庫裏の間の一角にお祀りされている。
お像は、弘法大師作と伝える三面大黒天。
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実際は近世以降の作なのだろうが、こうして常時お姿を拝めるのは有り難い。
三面大黒像は、同じ顔を三面持つタイプか、こうした弁財天・毘沙門天を左右に合するタイプなのがあるが、普段秘仏としている所も多い。
神徳は、有福蓄財。“有福”とは心の豊かさを示している。
よく三面大黒は、大黒・弁天・毘沙門の三倍ご利益などと云われるのだが、寺によって神性・神徳も異なるようだ。
実際は、むしろ成功に必要な人徳を表現しているような気もする。まあ、七福神自体がそんなもんかもしれないが(笑)。

こちらはその御影。住所の記載からすると、旧東京市時代の頃の刷物だろうか。
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左下の奇妙なマークは空海の花押のつもりなのだろうか。台座に群がるネズミの絵が面白い。

絵馬。
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今どきこのサイズで500円とは、下町的な慎ましさを感じる。

英信寺には今まで何度かお参りに来ているが、今回は震災後久しぶりの訪問。
やはり、境内の古い石灯篭や墓石が倒れたりしたらしく、触らないようにとの注意書きが所々に貼ってあった。

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2013下谷七福神めぐり(2)福禄寿

言問通に出て浅草方面に歩くこと7・8分。
次の七福神は、福禄寿。
担当は“恐れ入谷の…”鬼子母神堂で知られる眞源寺(法華宗本門流)。
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ここで有名なのは、7月上旬に行われる朝顔市。かつてこの辺りが入谷田圃といわれていた頃、10数軒の植木屋が朝顔や蓮を栽培していた事から始まったのだという。
私はまだ行ったことが無いが、朝顔も色んな種類があるというから、観ているだけでも楽しいだろう。一度行ってみたいものだ。

福禄寿は、専用のお堂にお祀りされている。
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以前何度か通りかかった時は正月以外でも開扉されていたように思うが、今日は風のせいであろうか、閉じられていた。と言っても、錠がかかっていないので、勝手に開けられるようにはなっていたが。
今あらためて写真で見ると、隣にある五輪塔は何だろうかと気になる。ペットのお墓だろうか?

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福禄寿像は、外国産のような黒い石で彫られた二頭身像。
朗らかな表情が、いかにも福々しい。
神徳は、人望福徳。

ご尊体の授与を乞うと、ご住職が火打石とお題目で清めてから手渡してくれた。
絵馬もなかなか良い絵だが、また今度にしよう。
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ちなみに、多くの七福神霊場で授与される人形は既成の京人形や土鈴だったりするが、ここ下谷七福神では“ご尊体”と言って、各七福神本尊の姿をミニチュアにしたものが用意されている。
個体によってモールドの出来不出来があるのが残念ではあるが、自分が参詣した七福神像の写しが頂けるというのは結構嬉しいものだ。

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この倉庫の様な建物は、木の幹が屋根を突き抜けた状態で普請されており、大切にされているのがよく分かる。なにか由緒のある木なのだろうか。

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2013下谷七福神めぐり(1)寿老神

ニュースでは昨日関東各地で春一番と報道されていたが、今日の風の方が季節風らしい強さがあった気がする。
まあ、一番でも二番でも良いが、春風吹きすさぶ今日、ようやく今年の七福神巡りを果たす事が出来た。

お参りしてきたのは下谷の七福神。
所用時間は、今まで巡ったなかでも最短コースの1時間半ほど。と言っても、いつもの如く色々道草して2時間弱かかってしまったが。
上野・浅草間の根岸・下谷・竜泉・三ノ輪、ちょうど旧東京市下谷区にある寺社で構成されているが、それを以って名称としたのかは定かでない。
“恐れ入谷の鬼子母神”で知られる真源寺以外はあまり有名ではないローカル寺社だが、それぞれ個性があり、由緒も興味深い。オリジナル授与品も豊富なので、毎年巡って集める楽しみもありそうだ。
歴史好きな方は、上野山から日光街道を経て吉原土手へ歩く気分でぶらりしてみたら色々昔の景色が想像できて楽しいだろう。正岡子規や樋口一葉ゆかりの場所も点在するので、併せて歌碑めぐりしてみるのも面白いと思う。

大通りは車の往来が煩いが、ほとんどの寺社は脇の旧道沿いにあるので意外と静か。正月の頃は車も少ないだろうし、気軽に徒歩で回れる楽しいコースだ。

山手線鶯谷駅北口で下車。改札口で七福神めぐりのマップがもらえる。
ここから徒歩1・2分の直近に寿老人担当の元三島神社がある。というか、ホームからすでに見えている。
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北口周辺は鶯谷の夜の顔ともいえるラブホテル街だが、神社はまさにそのど真ん中。まさか、女郎にかけて寿老人ということは無いだろうが(笑)。
まあ、若かりし頃にサバゲやってた私にとっては、鶯谷駅から連想するのは、中古軍装品店の笠俊商店であったりするのだが。


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鳥居を潜ると、真新しい狛犬が目立つ。
台座には、明治時代の狛犬が2年前の東日本大震災で損壊したと記されていた。
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境内はよく掃き清められている。高台に建てられた社殿は陽が当たって明るく、気持が良い神社だ。
これが平場の神社だったら、ラブホビル群の日陰に沈んでしまい、ジメッとした境内になってしまったかもしれない。

社殿は、コンクリートの神明造り。
社叢(しゃそう=神社の森)は少ないが、梅や桜の樹が植えられていて、ささやかな花見も楽しめそうだ。
地元の人や駅利用者にとっては、ラブホ街は単なる通過地なのだろう。私が授与所で案内を乞うている間にも、親子連れの参拝客がさっと参拝して行った。
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祭神は、大山祇命・伊佐那岐命。
ここの三島明神は、伊豆一宮ではなく伊予一宮の大山祇神社からの勧請。
神奈川県内で三島神社というと、伊豆の三嶋大社から勧請したというものが多いので、てっきりここは江戸時代に伊予ゆかりのお屋敷でもあったのかと思いきや、鎌倉時代の御家人河野氏ゆかりの神社であった。
元寇の時に水軍の将として活躍した河野通有は、妻が江戸重長の娘であった縁で上野山に館があり、その邸内社として勧請されたのが発祥であるとのこと。

江戸時代になって徳川将軍家菩提寺の寛永寺造営が計画されると、三島社は上野山から降ろされる。その後、代替地を再び収公されるなどして二遷したのが、現在の浅草寿四丁目の本社三島神社なのだという。しかし、旧来の氏子にとって浅草は遠方なので、ここ根岸にあった熊野神社にも合祀される事となった。すでに詳細は不明のようだが、そういう経緯あっての“元”三島神社らしい。伊佐那岐命が祀られているのは、熊野神社の祭神なのであった。(では、その熊野神社の由来はどうなのか、とも思うのだが不明。同族の一遍上人ゆかりだったりしたら興味深いのだが…)

境内には、正岡子規の句碑「木槿(むくげ)咲て絵師の家問ふ三嶋前」が建立されている。
この近くに住んでいた正岡子規も、故郷伊予の水軍ゆかりの神社に親しみを感じていたのではないだろうか。
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ちなみにここの寿老人さんは、“寿老神”と神社らしい表記がなされ、延命長寿の神さまになっている。
大山祇神社の武勇よりも、熊野神の医薬神的な神徳が反映されているのかもしれない。
(下谷七福神は、元三島神社以外は寺院)

七福神の授与品では、寿老神の尊体(400円)、それを乗せる宝船(600円)、絵馬とお守り(各500円)がある。
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七福神巡りの絵馬というと、笹に下げるミニ絵馬のようなものが多いが、下谷七福神のは皆普通サイズ。ご朱印ではなく、絵馬を揃えてみるのも楽しいかもしれない。

駅でもらえるマップにも書いてあるが、宝船はここ元三島神社でしか頂けないので注意。
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また、松の木が描かれた能舞台のような飾り台は絵馬台(600円)といって、こちらは布袋尊担当の寿永寺で授与している。

授与所では、弁財天担当の弁天院は普段無人なので今日全部揃えるのは無理かもしれないよと教えてくれたが、それも一つの縁と考えてとりあえず巡拝してみる事にした。

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寒中禅

今朝は寒かった・・・
日の出前の外気は久々の氷点下。
諸先輩方も出足が遅れたようで、堂内にはまだ一人しか来ていなかった。
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時どき自室でも足を組むようにしているので、禅定の集中は微力なりとも増したと思う。
足を組んでいる間は意識を丹田に集中しているので、それほど寒さは感じない。もちろん、本格的に1時間以上連続で座っていたら、きっと集中は途切れてしまうだろうけども。

少しでも慣れてくると、無意識の中にとても安らかで、まるで自身が真っすぐな竹にでもなったような心地(脳天から会陰まで筒抜けになるような)に至る事がある。しかし、それは夢のようなもので、現実の時間にすると1秒あるかないか。
その心地を維持しようと意識すると逆に遠く離れて行ってしまう。
この意識に自然に切り替えられるのが、一つのステップであるのかもしれない。

ちなみに、目は開けて意識はしっかりしてるので、眠ってしまってる訳ではない。
(ただ、禅定中の僧の脳波を測定すると、睡眠に近いものではあるそうです)
禅では“魔境”として一切の神秘(のように見える感じる)現象・幻覚には関わらない、無視すべしと、していますが、自分のはまだそんなトリップ状態には全然至ってないです(笑)。

しかし、意識を腹の底にドンと沈めた感覚、呼吸が静かで外的要因に動じない状態は、実生活で色々と役に立ちそうです。

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新年坐禅会

昨年、建長寺・円覚寺で坐禅して以来、かなりハマってしまった自分。
市内の建長寺派寺院でも第三日曜に早朝坐禅会(無料)があるというので、行ってきました。
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実は、友人が檀家だった縁で何度か厄払いなど参拝に行っており、坐禅会が行われてるのは前から知ってました。ただ、こういう観光地でない寺院での参禅者は檀家等がほとんどではないかと勝手に思っていたのでした。
しかし、思い切って参加してみると、初参加という人がかなりいて、ひと安心。
長年参禅してる常連さん達も気さくそうな方達でした。

内容は、午前6時半から20分の坐禅を2回。
その間に、ヨガを応用した柔軟体操や法話です。
裸足にはなりますが、(弱めですが)暖房も入れてるし、警策も軽めで痛くありません。
足が組めない人は正座や椅子でも可のよう。

禅道場のような緊張感はありませんが、姿勢と息を整える(調身・調息)基本には充分です。
なにより、朝の清浄な空気の中、静かに坐禅している時間がとても心地良い。
障子越しに、ゆっくり太陽が昇ってくるのを感じられるような余裕は普段なかなか得難いもの。
初めてという事もあるでしょうが、あっという間に終わってしまいました。

調べてみると、市内外には他にも坐禅会を行っている寺が幾つかある模様。
曹洞宗や黄檗宗の坐禅、密教の月輪観も面白そう。
また、色んな門を叩いてみたいと思います。

ちなみに今回出掛けたお寺はこちら。
http://www.gandhara.co.jp/eitai/tougakuji/index.html
県の文化財に指定されている釈迦如来像は、南北朝期の清涼寺式立像で像高約165cm。
壇上に安置されてるので、かなり見上げるような拝観でしたが、間近くで見れました。
市教委の文化財ガイドブック掲載写真で見ると、頭部が大きく面長な印象が強かったのですが、下から見上げるとむしろバランスが良いように感じます。
寺の開創時よりの本尊とのことでしたが、やはり当初から見上げるような壇上配置されていたのかもしれないと思いました。

お寺の写真は撮らなかったので、帰り路の景色を。
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道祖神まつり

ここ数日来、鼻かぜを引いてしまっている。大した事は無いのだが、事あるごとにかむので鼻の下がヒリヒリする。
毎年恒例の七福神めぐりでも行こうかと思っていたのだが、甘く見てこじらせては馬鹿だし、わざわざ一緒に来てくれた人にうつす訳にもいかない。
かといってこの天気。家でじっとしてるのも何だか風邪に負けたようで癪である。
そこで、前々から気になっていた、市内前川地区の道祖神祭りを見に行ってみる事にした。

道祖神祭りはどんど焼きを伴い、多くは一体のものとして行われる。年の初めに荒々しい霊魂や悪霊を追い払う火祭りの一つである。正月の注連飾りなどを燃やした浄火にあたったり、焼いた団子を食べたり、焼け炭を庭にまいたりなどすると、その年の健康無事や火災除けの利益を受ける事ができるとするものが多い。1月14~15日に行われるのが通例だが、現在はその直前の土日というのも多いようだ。
日本国内でも地域色があらわれる行事の一つであろうと思う。

小田原市前川の道祖神祭で特徴的なのは、人形山車が出ること。
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前川は、国府津丘陵と相模湾に挟まれた東海道(国道1号線)沿い東西1.5㎞ほどの地区で、国府津との境の西から、西・寺前・坂口・中宿・坂下・向原の字(あざ)がある。それぞれに道祖神が祀られているのだが、現在は、西・中宿・向原の道祖神で山車が出されている。

人形飾り(生き人形という)は、毎年違う話が表現される。
今年は、西道祖神が、「剣客商売(正義は勝つ)」。
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田沼意次の密命を受け悪の芽を討つ、剣士・秋山小兵衛とその妻おはる。
その江戸市中見廻りの一景。

中宿道祖神が、「白龍湖の琴の音」という山形県置賜平野の民話から。
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日照りで困っていた村人達のため、湖の龍神に嫁入りする庄屋の娘と、水柱とともに現れた龍。
この後、娘は白龍となって共に天に昇り、空からは大粒の雨が降ったのだそうな。

向原道祖神は、和歌山県の災害民話「稲むらの火」から。
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こちらは民話と言っても実話で、安政元年(1854)11月の安政南海地震による津波に関わる話。
紀州広村の醤油屋・浜口梧陵(ごりょう)が、津波から村人達を逃すため、己が田のワラ山(稲むら)に火を付け、高台の神社まで誘導したという場面。
梧陵は、地域復興の事業に尽くし、後世のために私費を投じて堤防を建設した。
(後に、小泉八雲の著作「生ける神」によって広く知られるようになったという。ヤマサ醤油のご先祖の話でもある)

題材は決まっておらず、毎年、新しいものが考えられて登場している(らしい)。

向原の道祖神で保存会役員の方に色々お話を伺う事が出来たのだが、かつては(その方が子供の頃は)、針金の骨にワラ束で身を付け、手甲・脚絆などで仕立てた人形に、旅役者(大黒舞などだろうか)の面を借りて人形を作っていたのだという。
現在は、東京の人形屋(こういう専門のがあるらしい)に衣装共に借りて飾り付けている。
起源はいつ頃まで遡るかは分からないが、昔、何かの伝染病があって、それを除けるために始まったらしい。
もとは6箇所の道祖神全てで人形を飾り、お囃子と共に山車を村内引きまわしていたのだが、現在は3箇所にまとめ、道路も国道なので通行許可が下りなくなってしまったそうだ。

推測にすぎないが、天王祭の行事の影響があるのではないかと思った。
県内では、鎌倉市腰越の小動神社(こゆるぎじんじゃ)の天王祭などで、古事記の人物や武将の人形が展示されるが、やはりこのような舞台仕立てだ。もちろん、そういう伝統の本家は京の祇園祭なのではあろうが。
ただ異なるのは、こういう祭礼では同じ人形をずっと使うが、前川では一度きりの展示でテーマも自由ということ。

道祖神のオカリヤ(お仮屋)は、石像の場所に設けられるのと、像の方をオカリヤに移動して祭るやり方がある。
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ここ前川では、石像を移動しているものもあったが、必ずしもオカリヤの中におまつりするものではないようだった。

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小さな像だからか、このように賽銭箱の横にちょこんと乗っている道祖神も。行灯のミッキーとドナルドは恐らく無許可使用だろうが、ディズニーもまさか道祖神の行灯に使われるとは思わなかったろう(笑)。

集められた正月飾りや縁起物類は、浜へ運ばれ、そちらで明日どんど焼きするそうだ。
この点は、大磯町の左義長(あくまでも文化財としての名で、地元の人はどんど焼きと呼んでるが)と似ている。
海に面した集落では、こういう(道路沿いのオカリヤで道祖神をまつり、お飾り類を集め、後に浜で焼き上げる)スタイルのものが多いのかと思ったら、小田原市と大磯町に挟まれた二宮町ではやってないという。

こちらは、中宿道祖神で展示していた今までの作品の写真。
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昭和55年のから展示されていたが、いずれも力作。叶うものなら過去の作品も見てみたいくらいだ。

起源の動機になった“伝染病”が何だったか気になるが、“コロリ”と呼ばれたコレラ流行の頃(安政年間)か、もっと後世のスペイン風邪の頃か。
市の無形文化財にも指定されないのは、そういう不明な箇所が多いからだろうか。
しかし、こういう祭事をやってる地区があるという事を、市民ですら知らない人が多いというのは実に勿体ない気がする。
市域の年間歳時記や観光案内にも滅多に掲載されないのである。

かくいう私も、今まで車で通過ざまに気づくことは何度もあったが、路駐が難しい箇所なのでついそのまま通過し、翌年までまた忘れてしまうという繰り返しであった。今回は自転車でエッチラ行ったおかげで、ゆっくり見物でき、豚汁や甘酒をごちそうになりながら色々と貴重なお話を伺う事が出来たのである。
まさに怪我の功名ではあった。

小田原市東部には、この前川よりもっと内陸部の方に人形芝居が伝わっている下中地区がある。
こちらはれっきとした国指定無形民俗文化財だが、起源はやはり村の娯楽である。そういう縁で以って、何か光を当ててあげられないものだろうか。


ついでにこちらは、帰り路でやっていた国府津のどんど焼き。
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ここでは、鎮守の八幡神社の正月参りと併せた祭になっているようだった。

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