八王子城再訪①
12日の日曜、八王子城跡に行ってきました。前回行ったのはたぶん平成14・5年頃だから、実に10数年ぶり。天候にも恵まれ、久々の石垣遺構を堪能して来ました。近年整備された御主殿曲輪もじっくり見れて大満足でした。
案内してくれたのは、もう20回以上も八王子城踏査を重ねている奥野さん。
何度も足を運んでいるにも関わらず、急く事も無く、こちらのリクエストにも沿って丁寧に回ってくれました。また各所遺構の見学ポイントなども惜しみなく教示してくれて、大いに刺激を受けました。
まずは、感謝の一文をば。
思えば、私がネットで知り合った人と実際に外で会う“初オフ会”体験になったのが、平成12年暮頃、奥野さんとの八王子城探訪でした。この時、一行に加わってくれたのが宮下さんと猛馬飼育係さん。このお二人も今に至るまでお付き合いが続いてるのを思えば、私の交流の一端における大きな契機でありました。実際にこの後に色々な人達と知り合いになりましたから。
午前9時にJR高尾駅で待ち合わせ。実は2月に声をかけて頂いていたのですが、こちらの都合が合わず、桜散る頃となってしまったのでした。しかしまあ、結果良かったのかも。2月は積雪が多かったらしいし、山の桜はまだ楽しめる程に花が残っていたから…。
それにしても、高尾駅、賑やかになりました。駅もバス停も行楽客でいっぱい。
駅舎にはこんなお面が。前からあったっけ?
小田原市民の私は大雄山線の改札口の天狗面(道了尊)をすぐ連想してしまいます。
こちら高尾山は飯綱権現が有名なところ。天狗のお山というと、大体はこの手の赤い面が縁起物になっていますね。
それにしても、ワラの髪がナマハゲを思わせるお面です。
駅前で昼食を買って“八王子城跡行き”バスへ。ほぼ満席。高尾山人気と共に八王子城跡も有力な観光資源として認知されているようです。電車の中で隣に座っていた女性ハイカー達も八王子城に行こうかという話をしていました。心霊スポットという暗いイメージも薄れてきつつあるのかもしれません。
廿里山を左手に見て、“宮の前”で下車。まずはこの八幡神社へ参ろうということに。
齢重ねた桜並木の参道に朱の鳥居がよく映えていました。
ちなみに、後で本(『北条氏照とその周辺』北島藤次郎)を読んで知ったことですが、この“郷社八幡神社”の標柱の土台石は、「出羽屋敷」の庭石であったものと伝わるとか。地図を見るに、どうやら、この東にある出羽山公園のあたりのようです。その中で著者の北島氏は、これは近藤出羽守ではなく、布施出羽守の屋敷地ではと推測していました。
これは、“梶原杉”という、かつてのご神木。
境内に掲示されていた由緒によれば、付近はかつて鎌倉時代の御家人・梶原景時の所領で、八幡神社も、建久2年(1191)6月、鶴岡八幡宮から勧請されたものが創始とのこと。
梶原杉は八幡社勧請の時に植えられたものと伝わり、昭和47年に枯れて伐採されるまでは都内随一の大杉だったそうです。高さ30m、幹回り12mもあったとのことで、ビルも無かった昔は地域のシンボルであり自慢でもあったのではないでしょうか。
こちらは白くて花弁の大きな大島桜(だと思います)。
海沿いの小田原や伊豆を思わせますが、もちろんそんなに古い樹ではありません。でも、内陸部では珍しいのでは。
神社のあるマウンドは、一瞬、墳丘を思わせましたが、梶原屋敷という伝承があるとか。一応、都教委の遺跡地図情報のページを見てみましたら、縄文から近世に至るまでの遺跡包蔵地ではあるようです。
境内ではお祭に向けた清掃・飾り付けの作業中。
まずは神社にお参りしようとすると、一人の方が話しかけてくれました。今年の祭から神輿巡行に加えて、八王子城から甲冑隊が神社まで武者行列を披露するのだそうです。その嬉しそうな顔が印象的でした。
境内で目に留まったのがコレ。
赤錆が年代を感じさせるバケツ。たぶん消火用のもので、神社備え付けのものなんでしょう。この位の大きさの方がリレーしやすそうだし、なにより的確に水をかけれそう。水かけ以外の用途には向いてなさそうだけど。
神社を後にしていよいよ根小屋域へ。
石屋が並ぶ道は前と同じ。
「じゅうれんじ山」の尾根などを左に見て、あの山の裏から敵はやって来たのか、と思いながら歩いていると、程なく「横地堤(よこちづつみ)」。
見ての通り、かつての見附の役割をしていた土塁で、ここからが本格的な根小屋域。名前の由来は、城代・横地吉信が工事を行ったことからとされています。
その道路向かいにも、このように明らかな段差。カーブミラーの下に立つのは庚申塔。この手の石仏石塔は、村や集落の境に建てられる例が多いのですが、これが昔のままなら、やはり一つの境界としての意識が残っているのでしょう。
ついでに、その下に寄せ集められたような石も気になります。根小屋の家臣団屋敷での石垣利用はどうだったのでしょうか。
こちらは後で見学した八王子城立体模型の横地堤の部分。
宗閑寺のあるところがそうですが、道のありようを見るに、ここは食い違いの見附(土塁)だったんでしょうかね。
川側の方に虎口が開いていた可能性もあるとは思いますが。
どちらにせよ、手前で右折していく今の道路は、当初、堀であったのか…。
また、横地堤の一部は、右側の尾根を削り残した土塁であるかも。
…と早くも想像が膨らんでいきます。大した根拠もないのですが、そうした空想遊びも遺跡訪問の楽しみの一つであります。
横地堤の上に建つ朝遊山宗閑寺(曹洞宗)。
氏照の冥福を祈るために建立された寺ですが、もとはこの上の氏照墓所がある付近にありました。ここに移転したのは明治になってから。
鐘楼には中興開基の中山備中守信治が寄進した鐘がかかっており、近くに寄って見たかったのですが、ちょうど庭の砂利を敷き直している最中だったので、遠慮しておきました。
中山信治は、天正18年の八王子落城時に討死した中山勘解由家範の孫にあたり、水戸藩で家老を務めた人物です。
開山導師の卜山禅師もなかなか興味深そうなお方です。
左後方のお堂は、氏照正室の比左(ひさ)御寮人の持仏であった観音像が祀られている観音堂。
こちらには、相武御府会連盟の皆さん、こたつ城主さん、梵天丸さん、うーろんさん各ご夫婦方々と大雨の中、お参りしたのが懐かしいです。昨日、写真のネガを確認したら平成14年でした。
氏照墓所は、ここからもう少し城方へ向かった道外れの高所にあります。
途中、以前に私設郷土資料館を営んでられたお宅前を通りましたが、今はやっていない模様。
北条氏照(中央)および、家臣の中山家範(右)とその孫(前述)の中山信治(左)の墓石。五輪塔は不明ながら家臣の金子家重の墓とも。
ここが、先ほどの観音堂旧地で、宗閑寺はこの下にあったようです。
かつては観音堂の後ろに墓碑が並ぶ光景だったのでしょうか。
一応、伝承では、こちらの氏照墓所に首級が、小田原の墓所には胴が眠っている事になっています。
平成12年に初めて来た時は、小田原の酒と菓子(ういろう)をお供えしたっけ。今回は何にも持参せずゴメンナサイ。
(つづく)
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