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姿を現した北条氏の庭池跡

10月19日(土)、国史跡小田原城跡・御用米曲輪(ごようまいくるわ)における第5次発掘調査の現地説明会が行われたので、見学してきました。
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このエリアは、戦後長らく野球場や駐車場として活用されてきましたが、小田原城の中心的な遺構の一つ。
江戸時代の城絵図では、「御用米曲輪」や「御城米曲輪」などと記されています。
昭和57年に第1次調査が行われ、平成22年度からは、史跡小田原城跡の整備活用計画に則り、本格的な発掘調査が継続中。今までに、曲輪の名のもとである江戸時代の米蔵や瓦塀の跡、周囲をめぐっていた土塁の様相などが明らかになってきています。
昨年度(第4次)の調査では、その下の戦国期の層から、礎石を用いた建造物跡、加工石を用いた水路、庭の跡などの遺構が出土。「小田原北条氏当主の館と庭跡か?!」と、俄然注目度がアップしました。今年2月に開催された現地説明会では、雨まじりの天候にもかかわらず約1000人もの見学者が訪れたとの事。


今年度調査では、その庭の一部と考えられる池の跡が徐々に姿を現してきています。
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この遺構の興味深い点は、池の護岸が四角い石でタイル状に覆われて(葺かれて)いるところ。
このような庭池の意匠は、全国でもまだ見つかっておらず、庭園遺跡としても大変珍しいもののようです。

四角い石材は、主に五輪塔や宝篋印塔(中世の墓石や供養碑に最もポピュラーなもの)の笠や基礎の部分。その平たい面を表にして護岸に用いられています。
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出土した石材の中には、やや面積が大きめな反花座などもありますが、こうしたものが池底近くの下部に、上部にいくに従って小型の石材が積まれる傾向にあり、隙間を埋めるために再加工された石もあるようです。

また、色の違いからも分かるように、それぞれ石材の産地も異なります。
グレーや暗い青っぽい石は地元の箱根系安山岩で、明るい黄色っぽい石が三浦半島系の凝灰岩(写真では湿って暗くなってますが)。どちらもその地域ではポピュラーな石材ですが、柔らかい後者などは加工に適していたのかもしれません。
遺構を評価する人の中では、色の違う石材を意図的に用いていたのでは、と考える意見もあるようです。

残存している護岸石の様相と、現在明らかな池の規模を併せ考えると、2000個以上の石材が用いられていた計算になるとの事。これだけの石材(墓石)を集めるのも大変だったと思われます。関連文書などがあれば良いのですが。
現地説明の合間に出た話の一つに、城下山角町の調査で墓石がまとめ置かれていたような遺跡が出ているとあり、石材のストック場所として関連つけられるのか興味深い事例と思われます。

池の深さは、同時代の地表面から約130~200㎝。
池底から出土したカワラケの形状から、16世紀後半の池である事が分かっています。
現説会当日は、池に雨水が溜まってしまっていましたが、底まで、水面より石材もう二つ分ほどの深さがあるようです。
また、護岸石の一部が砂利に埋もれている状態のものがありますが、これもやや下った戦国期の造作。

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(「池」のⅠ期想定)
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(「池」のⅡ期想定)

どうやら、池の設けられた当初は石葺きの護岸池であったものに、後から砂利を入れて州浜に修景したようです。このあたりなどは、おそらく北条氏当主であろう造園発注者の趣味・意向が反映されていそうで、想像するだに楽しいところ。

池の曲線的な形状も興味を引かれます。
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小さなマウンド状だったような部分は築山の可能性もあるのでしょうか。後世の造作で原型を留めていないのが残念なところです。
写真でも分かる通り、この池の岸上に掘立柱建物の跡が出ています。
その隣にもう一つの池跡(上段の池)があり、滝で下段の池に流れていたと思われます。この建物は、それを見下ろすような形だったのでしょうか。

現在、この建物跡の部分が調査中で、戦国期の井戸や石敷の遺構が顔を出してきています。
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池の様相が戦国期でも変遷しているように、こちらも併せて考えていく必要があると思いますが、こちらも明治時代以降の廃棄坑(写真後方。瓦片などが投棄)で撹乱されており、残念ながら完存というわけにはいかなさそうです。


それから、城郭(の縄張り)遺構としての見地からは、「鉄門(くろがねもん)」とそれに伴う坂道の成立時期がより明らかになった点が大きな成果でしょうか。

鉄門は、御用米曲輪の東南側から本丸へと入る箇所にあった門です。
幾つかある小田原城絵図の中で、近世城郭としての最初の姿を伝えるものが、稲葉氏が小田原藩主であった時期にの正保年間(1645~48)に描かれた『相模国小田原城絵図(正保図)』ですが、そこにはすでに枡形門が描かれています。御用米曲輪の箇所にも「百軒蔵」とあります。

今回出土した庭園遺構は、この鉄門へと続く坂道の下へと延長していく様相を示していますので、坂道の土塁そのものが江戸前期の造成であることが明らかになりました。
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(後方のスロープが鉄門への坂道。手前の土管と石組桝は、明治の御用邸時代のもの)

御用米曲輪の土塁では、城址公園入口の側の土塁も江戸期のものであったのが確認されているので、明治まで土塁に囲われ閉鎖的空間だったこのエリアの景観は、戦国期にはだいぶ異なっていたようです。

個人的には、庭園遺構があまりに珍しいものであったためか、鉄門に関わる報道があまりされていないのがやや残念に感じています。

(現地説明会のレポはここまで。以下は、私個人の勝手な想像。自身への覚書用に)

鉄門の前身とも思われる細長い曲輪とその下段の水堀が、『加藤図』にのみ描かれています。
この明確ではなかった部分が、第3次調査以降に明らかにされているのも大きな成果ではないでしょうか。

『加藤図』は『相州小田原古絵図』といい、大久保家臣加藤家に伝わったもので、慶長19年(1614)の大久保忠隣改易に伴う小田原城破却の後から寛永9年(1632)の稲葉氏小田原入城の間に描かれたものと評価されています。
同絵図には、後世の小田原城絵図にはない「丸馬出」が描かれていたりと、前近代城郭的な古風な小田原城(前期大久保氏の頃と思われる)の状況が描かれているのが特徴ですが、これにはまだ鉄門にあたる枡形虎口は描かれていません。
代わりに、(後世の)本丸と御用米曲輪との間に、もう一つ細長い曲輪が描かれています。描き方を見る限りでは、これが本丸からの横矢を伴う導入路となっていたようです。これが道ともに廃され、よりコンパクトで洗練された枡形門となったのが鉄門なのではないでしょうか。あくまで想像の域を出ませんが。
そして、その細長い曲輪と御用米曲輪との間に描かれた水堀。
絵図から受ける印象では、この水堀が現在調査中の上段の池のエリアまで延びていたようにも見えます。
上段の池には石垣を伴う堀障子が3次調査で確認されており、前回の説明会でもその一部を見る事が出来ました。
これも想像の域を出ませんが、加藤図に描かれているこの細長い曲輪と水堀の構成は、北条時代を踏襲している可能性もあるようにも思えます。
(想像ここまでw)

庭の様相と共に、御用米曲輪と本丸との連結部の変遷の歴史がより明らかにされる事も期待しています。


御用米曲輪の調査は現在も進行中で、来年度も継続されるそうです。
次回の現地説明会は、11月23日と12月21日に予定。
少しづつ明らかになって行く過程を一般の人にもともに味わってもらいたいという、粋な計らいです。
池跡ということで、月一の見学会の度に水抜きの作業があるのでは調査側も大変な気もしますが、見学者としては大変楽しみなイベントです。無理の無い範囲でまた色々とご教示頂きたいものです。

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