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お礼参り&プチ史跡めぐり(近代編) 前編

今年の大河、もとい年末ドラマの『坂の上の雲』が予想以上に面白いので、さる28日、今年のお礼参り(寺社)のついでに関連旧地などに立ち寄ってみた。

まず小田原駅にほど近い小田原城址公園へ。
ここには後北条氏が江ノ島から勧請したとされる弁財天がある。
10年程前に不審火で社殿が焼け落ちてしまい、今は跡地にささやかなコンクリ弁天像が置かれているだけである。 でも、よく参拝してる人は少なくないようだ。

梅子が居ない本丸広場はやはり寂しい。
市立図書館(城址公園内にある)へ行く折も、もう足を止めることはない。
足早に横切って、南曲輪となりの報徳二宮神社へ。
ここの祭神は二宮尊徳。
小学校の金次郎像では知名度は高いが、実際は幕末の藩や幕府直轄領の農村立て直しに大きな功績があった人物である。
個人的には、今の時代にこそ見直したい人物のお一人。

その後は、松原神社(小田原城下町の総鎮守)へ行くのが毎年のお礼参りのコース。
だが、今回はさきに書いたように寄り道をしてみた。

二宮神社の鳥居を出た近くにある、報徳博物館(神社の宝物館を兼ね、尊徳とその弟子達の仕法等を紹介している)脇の道を上っていくと、天神山。
戦国時代の小田原城では、三の丸総構を構成する一つの重要な高地でもあった。


この辺りは、小峰の閑院宮邸から尾根続きでもあり、東海道の近くにして相模湾が望める景勝地でもあったので、早くから閑静な住宅・別荘地として利用されている。
だが、現在は空き家が多いようだ。
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ここに建つ県立城内高校も明治以来の女子高として地域に親しまれてきたが、数年前に近くの小田原高校に吸収合併され、今では校札が外された空校舎となっている。
それでも敷地内の清掃は時どき行われているようで、時計もまだ正確に動いていた。

この門前から東海道(国道1号線)方面に下ると、左手に小さな山角天神社の境内がある。
山角(やまかく)というのは地名で、戦国時代に小田原北条氏の家臣・山角氏の屋敷がこの辺りにあった事から、「山角町」と称されてきた。
現在でも、まだ通用する旧町名の一つである。
社宝に北条三代氏康が奉納したと伝わる天神像があり、祭礼の折などに公開されている。
今の本丸域が早くから城の居館になっていたのなら、ちょうどここは裏鬼門。
弁天さんと共に城の守護とされてもおかしくない。

この神社を下ると、国道一号線に沿って裏通り的な生活道路が左右に続いているが、その一角に実業家・山下亀三郎の別邸があった。
私は良く知らないのだが、この人は山下汽船の創業者で、横浜の山下公園も彼が寄贈した事に因むとかいう話だ。
前置きが長くなったが、ここがようやく『坂の上の雲』関連の地となる。
今では何も残っておらず、知る人ぞ知る関連地ではある。
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さて、この山下邸が、秋山真之が臨終を迎えた場所だった。
真之と山下は親しく交際があったようで、日露戦争開戦の折に海軍に徴用船を提供したり、貨物の手配を引き受けたりした事で、企業が大きく成長するきっかけともなったらしい。

孫にあたる、民主党の大石尚子議員のHPに小さく載っていたが、箱根療養中に盲腸炎を再発した真之が運び込まれたのが山下邸で、結局、手遅れとなってそのまま帰らぬ人になってしまったのだった。
http://www.oishihisako.com/book/kotoba.html

こちらにも小さな記事が最近紹介された。
http://www.townnews.co.jp/020area_page/04_sat/02_odaw/2009_4/12_26/odaw_top2.html


ちなみに、山角天神の階段脇には「瓜生海軍大将」なる胸像が立っている。
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この人は、日露戦争の初期の仁川沖海戦で戦隊を率い、成功させた瓜生外吉少将(後に大将)その人で、彼の邸宅がこの上にあった。
神社脇の小道は、瓜生邸へ自動車が乗り入れできるよう水兵たちが開削した道で、今でも「瓜生坂」と呼ばれているそうな。

この辺りから箱根にかけての南向き(海向き)斜面には、こうした別荘用の私道に因む(今では公道に供されている)小道が幾つかあるようだ。

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