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北條稲荷

2月初午から日が経ちましたが、旧初午に合わせて紹介。
2009030401


【立地】
小田原市浜町4丁目。旧町名・古新宿。
戦国期小田原城総構(大外郭)の旧山王口(後に江戸口が陸側に新設された東海道に設けられる)にあたる。
境内を巡って西へ向かう道筋が虎口の跡。
境内東側には近世まで溜池があったが、これは北条時代の水堀(渋取川)に由来するものだったと思われる。

【祭神】
倉稲魂命・大宮姫命・大巳貴命・保食神・大田命(稲荷五社明神と崇める『新編相模国風土記稿』)

【境内末社】
牛頭天王社・疫神社・蛙石明神社

【例祭】
二月初午

【由緒・伝説】
『北条五代記』の「北条氏康和哥の事」によれば、

ある日、氏康公が家臣たちと高楼で夕涼みをしておられると、どこから来たのか近くで狐が鳴いた。
秋の狐とは言うけれど、夏の狐は珍しい。
一同、不吉の前触れでなければと思う所に、梅窓軒という者が故事を語った。

「昔、源頼朝公が信州浅間で狩りを為された時、狐が一鳴きして北方へ逃げ去ったそうです。夏の狐であったので、公は不審がり、厄払いに歌を詠むようにと御家人達に命じられました。
これを受け、武蔵国の住人・愛甲三郎季隆は
『夜ならばこうこうとこそ鳴くべきに あさまにはしるひる狐か)』
と詠みました。
(夜にコンコンと鳴くのが狐であろうに、昼に鳴くとは浅ましい狐であることよ。「浅間」とかけている)

頼朝公はこれ(不吉を珍妙に詠んだ事)に感じ入り、恩賞を取らせたという事です」(『曾我物語』逸話)

それを聞いた氏康公は、ならば故事に倣って皆も詠んでみよ、と仰られた。
けれども各々、いまだ詠む人が現れなかったので、氏康公おん自らが
「夏はきつねになく蝉のから衣 をのれおのれが身の上にきよ」
とお詠まれになった。

(きつねは「来つ、音」にかけている。「蝉の空衣」は唐衣にかけていると思われるが、季語の「蝉の羽衣(薄着)」にかけているようにも見えるし、「枯れ衣」(蝉の抜殻、転じて古衣)としているようにも受取れる。いずれにしても、季節外れで風流心を解せない狐を茶化した歌であろう)

夜が明けると、昨晩鳴いていた場所で狐が死んでいた。
皆、奇妙な事だと感じ入ったということだ。

・・・というのが話の筋である。
ここでは、北條稲荷として祀られた話までは記されていない。

だが、地元の伝話では話が続く。

2009030402
死んでいたのは、一匹の老狐だった。苦悶の表情であったという。
その後、家臣の鈴木左京介が狐憑きになったと噂が立った。
左京介は、狐の鳴きまねをしたりしていたが、やがて呪詛の言葉を吐くようになった。

「氏康公は歌で私を調伏し殺した。この恨みは深い。この後必ず公の身辺に災いが起こるであろう」と。

そして、この一連の出来事があったのは、元亀元年(1570)6月であったとされているが、翌年10月に氏康が没したので、皆これは老狐の祟りであると恐れたという。
氏康の跡を継いだ、子の氏政は、狐の霊を鎮める為、城内(狐が死んでいた場所だという)に稲荷明神の社を建てた。

これが、北條稲荷大明神の創建であると云われている。
稲荷が建てられると、左京介も狐憑きから解き放たれ平常に戻ったという。
北條稲荷大明神は、北條一族の守り神として祀られていたが、いつの頃からか現在の山王口脇に移され、後に同じく城内にあった蛙石明神も境内に移されたという。

狐が憑いたのは左京介本人ではなくその中間であったとか、老狐が氏康の夢枕に現れて呪詛の言葉を言ったのだとか、聞き伝えなだけに細かな内容の違いがいくつかある。

『相中雑志』には、氏康筆の棟札があると記載されているが、現存していないようである。

【一考】
実際のところは、この話があったとされる元亀元年には氏康はすでに病で、夕涼みで歌を詠むほど壮健ではなかったはずである。

伝説を見る限りでは、伏見系の正当な稲荷社ではなく、オサキ狐系の民間稲荷のようであるが、実際は伏見稲荷の祭神五柱を勧請しているようである。
保食神は、倉稲魂命と同一として習合されることの多い神だが、穀物だけでなく食料全般の神とされるので、ここでは役割分担されているのだろう。思うに、田中大神の代わりではあるまいか。

古新宿は、ほぼ専漁の村であったから、田の神よりも(海の恵みを含めた)食物全般をもたらしてくれる神が好まれたのだろう。
魚座の繁栄も祈願されていたかもしれない。
地元自治会による『専漁の村』によれば、関東の一部では稲荷を漁業守護とする信仰があるとのこと。
古新宿町には、この他にも稲荷や竜神の小社がある。

北条時代から北條稲荷を号していたとは思えないが、古新宿と隣の千度小路の漁民は、戦国期から江戸期を通じて海士(あま)方役を負っており、帆に三鱗を染め抜く事が許されていたという伝統がある。
そうした来歴が北條の姓を慕わせて号したものであろうか。

神主の天(てん)家は神事舞の家で、北条時代に韮山から小田原へ呼ばれ、移他家・唱門師といった移動性の民間宗教者を監視する役を受けていた。
北条家が持てなす客を饗する時も天家の当主・十郎とその推薦人だけが許され、この伝統は、江戸期においても、年に六度、小田原城主の繁栄と天下太平を祈るという形で継承された。

(北條稲荷は昭和初期の漁業が盛んだった頃までは、広く信仰されていたらしい。戦前の頃までは、民間の祈祷師が占いをするなど、蛙石明神と共に吉凶を知る場所としても知られていたようだ)

天家では、天正十四年頃に北条氏から小田原に屋敷地を与えられて住んだと伝えられており、それ以前はどこかの宿を宛がわれていたのかもしれない。
もともと移動を常とする神事芸能者であるから、北条家当主が別の城に在陣する時なども伴われていただろう。

宛がわれた屋敷地は、江戸時代と同じ北條稲荷の隣接地であったと考えられている。
東海道が通過する虎口に屋敷地があったのは、街に出入りする旅芸人や宗教者を監視していた事に由来するだろうか。
天正14年という時期を考えると、秀吉来攻に備えて小田原城も大普請が始まる前年であり、この年の後半であったならば、そうした政治的緊張の中での移住であったろう。
また、この当時の小田原城下町東端部がすでに近世城下町と同じ範囲に至っていたと考えると興味深い。


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