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石垣山一夜城

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式典の後、久々に石垣山一夜城へ行ってきました。
また、「早川石切丁場群遺跡」の現況を見てきました。

一夜城遺跡より箱根よりの林道、以前は入生田と行来できた道ですが、現在一般道として工事中です。
この道は、交通渋滞のポイントとなっている石橋を経由せず、小田原ー箱根間の国道から根府川方面に抜けられるようになるもののようですが、その工事中にこの遺跡が確認されたのでした。

これらは、江戸城の石垣に使用された石垣の丁場跡で、捨て置かれた石が点在しているのは以前から分っていましたが、石をすべり降ろすソリ(修羅)の道なども残っているのが確認され、セットの遺構として貴重だと判断されたのか、国史跡に値するものとして県も申請されているとのこと。
おかげで、道路工事は既存農道を大規模拡幅するのではなく、遺跡の上をまたぐ橋梁式道路となる事が決まったようです。
このご時世、道路建設そのものが反対されそうな気もしますが、ともあれ貴重な遺跡が部分的にせよ保存されることになったのは嬉しいことであります。
見学用の遊歩道も設けられるとの事。

現在も道路工事中のため、見学できるのは一部のみですが、移動された石が小田原城址公園内の郷土文化館前や一夜城公園入口や駐車場などに置かれています。

昼食は人気の少ない西曲輪で弁当を遣いました。

一夜城跡も観光シーズンを前に数年ぶりの間伐をしたようです。
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石垣にもかなり陽が差して見やすくなりましたし、なにより各曲輪の連携状態などが一目で分るようになりました。
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本丸展望台から小田原や相模湾の景色を邪魔していた高枝も刈られ、久しぶりの大パノラマが存分に楽しめます。
同様に石垣の遺存度が高い井戸曲輪も見易くなりました。

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祝・開門式

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かねてより復元工事が行われていた史跡・小田原城の馬出門。
大手筋の三の丸から二の丸の間に位置する馬屋曲輪の入口に当たる門です。

このほど仕上げも無事終わり、3月29日日曜日に開門式が行われました。
連日の冷えのせいで桜の開花には少々早くなってしまいましたが、観光客やこの日を待ち遠しくしていた市民ら大勢の人々に見守られ、華々しい式典となりました。

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式典には市長はじめ市行政や文化庁、そして史跡小田原城調査・整備委員会委員長の小和田哲男静岡大学教授が参列。
同教授による馬出門の役割、また今回の整備により新たに大手ルートが整備された意義などが紹介され、来賓代表によるテープカットがなされました。

その後、手作り甲冑隊のほら貝の音と共に開門。
関係者、一般見学者と続いて、無垢な白漆喰が鮮やかな門を次々に通り抜けました。

馬出門内は枡形(ますがた)と言って、勢溜りと防御を兼ねた四角い密閉空間になっています。
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馬屋曲輪へ入るには、馬出門を入り左に直角に折れ、もう一つの門・内冠木門をくぐらなければ入れません。
江戸時代以降の日本の城で多用された門のスタイルです。
門の形式は、馬出門・内冠木門ともに高麗門(こうらいもん)。控柱にも屋根があるのが特徴です。

小田原城の馬出門は、絵図によれば江戸初期から同地にあったことが分かっています。
現在の姿(今回復元された姿)になったのは寛文12年(1672)に改修された後。この状態で幕末を迎えました。

水堀の向こうには平成9年に復元された銅門(あかがねもん)が見えます。
そして、その背後の小丘の上に本丸の常盤木門(ときわぎもん)と天守閣(ともに復興)の姿が松の木の間からわずかに。
この角度からのアングルは平成17年からの復元工事が始まってから久しく見れなかった事もあり、見学者は門越しに見る銅門や本丸の景色を楽しんでいました。

今年の北條五代祭りは、この門の完成を記念して、〈二の丸広場~銅門~馬屋曲輪~馬出門~お堀端通り〉のルートで武者行列が行われるとの事です。
このコースのパレードは、銅門が復元された平成9年から数年ほど実施されていましたが、ここ最近はまた二の丸広場から学橋(まなびばし)を渡ってお堀端通りへと進むコースで行われていました。


開門式でお会いした人々で、話題は早くも、馬出門や馬屋曲輪から本丸への展望に移りました。
本丸の樹木が育ちすぎて天守閣が見えないのですよね。それを今後、適選伐採していかねばと。

公園が史跡だけでなく、市民や観光客の憩いの場所だという事も分ります。
ですが、植物の根が伸びすぎると石垣への負担になりますし、城遺構の姿を後世に正しく伝えていくのも大切な事です。
今回の馬出門整備にあたっても幾つかの樹木を伐採しなければならず、少なからぬ反対がありました。
本丸周辺でもそういう声が出るとは予想していますが、小田原駅や八幡山から見えても、大手筋にはほとんど遮蔽されている現状はそのままにはできないと思います。
でも一度、水堀の隅櫓や馬出門を手前に、天守閣が背後にそびえる重層的な光景を多くの人が見れば納得してもらえるはず。

さらに先の話になりますが、この景観を国道1号線から見えるような街づくりをしていくのも大切です。
小田原は、城址公園のすぐ近くを国道が走っているにもかかわらず、中小のビルが建って天守閣がほとんど見えません。
箱根駅伝の中継でも、わざわざランナーと城を同一フレームに映すためにヘリを飛ばしています。
おかげで「ういろう」の店舗が城かと間違われると言うジョークもあるくらい。

箱根や湯河原方面に向かう車も、この国道を通ります。
歴史に大して興味がない人でも、車窓から天守の姿が見えれば、ここが城下町だと分ってもらえるでしょうし、ついでに立ち寄る人も増えるかもしれません。

そのようなプロセスを築いてゆく為にも、本丸樹木の間伐は早期実現が望まれます。
先月も間伐は幾らか行われましたので、市のほうでもその点は認識しているものと思われます。

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覚書 平成二十一年第二回甲子参詣

○大國神社(駒込妙義坂上 祭神・大己貴命 大国神(大黒天)像祀る)→
○南蔵院(板橋区蓮沼町 関東三十六不動第十二番札所 真言宗智山派)→
○志村城跡(豊嶋一族志村氏城跡 後千葉隠岐守信胤入城 大永四年北条氏綱により落城す 二郭跡熊野神社脇に空堀・土塁僅かに残る 明応・大永・永正年記板碑)→
○石神井公園(三宝池・姫塚・殿塚など豊嶋照姫伝説地、厳島神社・水天宮)→
○石神井城跡(豊嶋氏城址 同公園内に主郭跡空堀土塁等残る 道場寺・三宝寺山内にも土塁残欠等見受く)→
○道場寺(応安五年豊嶋輝時創建 板碑および伝豊嶋泰経一族墓石塔 北条氏虎朱印状あり 曹洞宗)→
○三宝寺(石神井落城後、太田道灌により旧城地に移建 後北条氏・徳川氏の保護受く 徳川家光由緒御成門 元勝海舟邸長屋門 中世板碑 関東三十六不動第十一番札所 開運出世大黒天堂あり)→
○練馬区郷土資料室

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兼続が祀った曽我兄弟

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写真は箱根神社摂社、曽我神社拝殿内も絵馬ですが、さきほど箱根神社のブログを見てましたら、興味深い話が紹介されていました。

http://hakonejinja.no-blog.jp/syamunissikara/2009/03/post_f2b5.html

小田原攻めの帰路に富士山麓で獲た曽我兄弟像を祀った神社が米沢にあるようですね。
富士山麓ということは、曽我八幡宮のある富士宮か曽我寺のある富士市のあたりでしょうかね。

http://www.naoe-kanetugu.com/trip_yonezawa/kandatumyoujin.html

上杉家や兼続に興味がある人には有名なのかもしれませんが、曽我兄弟の何に感じて木像を持ち帰ったのか気になります。
まあ、武田信玄の生誕伝説でも曽我五郎の生まれ変わりとかいうのがありますし、そのせいか甲府大泉寺の武田信虎の墓の隣には曽我兄弟の供養塔が並んでいます。
また南アルプス市の旧芦安村地区にも曽我十郎の恋人・虎御前の墓というのがあったり。


曽我兄弟を祀る寺社では、仇討本懐を遂げた5月28日に祭礼が行われる事が多いのではないかと思います。
兄弟討ち入りの夜に笠を燃やして松明代わりにしたという話から、兄弟の供養を、傘(笠)焼き=瘡除け、にかけて行われるようになったようですが、小田原市曽我谷津の城前寺では仏式、箱根神社境内の曽我神社では当然神式で催行されます。

遠いところでは鹿児島県加治屋町で行われる「曽我どんの傘焼き」。
これは鹿児島三大行事の一つとされる位で、規模も神奈川県のものより余程大きいようです。まだ実見していないのでよく分かりませんが。
また、どのような経緯で行われるようになったかも興味深いところです。(曽我氏の実家伊東家が後に九州へ移ったのに関係あるのでしょうか)
こちらも以前は旧暦5月28日に行われていたようですが、現在は7月第四日曜になっているようです。
http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/7omatsuri/7-9omatsuri/0006115.html

米沢の神達明神の祭礼は7月16日。
もともと樋口家のプライベートな屋敷神のようですが、今は地域の鎮守さまということで、お神輿でも出るのでしょうか。


武士の時代はそれだけ『曽我物語』や芸能の曽我モノなどが親しまれていたのだと思います。物語の内容的にも庶民より武士が好むでしょう。

そのため祭神とした場合の性格は、(長年の苦難を耐え抜いて父の仇討本懐を成し得た)武芸や信念、孝行の精神というところでしょうか。

大石内蔵助が主君仇討の成功を祈って、箱根越えの際に「曽我兄弟の墓」(現在は違う遺跡と分かってますが、当時はそのように信仰されていた)に生えた苔を持ち帰った事は有名ですが、兼続の場合はどうだったのでしょうか。

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箱根参拝

今週は箱根の杉花粉が出血大サービスなのか分かりませんが、とても目が辛い私であります。
おかげでパソ画面を確認しても長く見てるのが辛いため、私用のパソ利用でレスなど遅れてしまい失礼しました。

今夜はカレーを食べたせいか大丈夫です。
ということで3日遅れの日記。

日曜は箱根に行く用があったので、箱根神社にお参りしてきました。
ちょうど月次祭でしたし。
平成21年に入っては最初の参拝です。

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天気も良く絶好の行楽日和でしたが、湯本も芦ノ湖周辺も観光客の姿はそれほどではありませんでした。
今回は箱根新道を通ってしまったので、一般道沿いの方はどうだったか分かりませんが。
翌週の3連休を前にしての静けさだったのでしょうか。

中国からのツアー客は相変わらず見かけますが、やはり少ないような。
こちらは景気の影響でしょうかね。

山上なので小田原に比べると気温は4度前後低いですが、風も殆ど無し。
湖畔や湖上ではワカサギ釣りのお客がのんびりと構えて、なんとも平和な光景でした。
さすがにお昼前後からは賑わってきましたけど。


境内では箱根神社と摂末社それぞれに参拝。
全部参拝すると結構時間もかかります。
でも、時間をかけ境内をゆっくり回っていると、森林浴というか気分も清々しくなってきますので、毎度そうしています。
また箱根権現時代の別当寺・金剛王院跡地にも参拝します。
もともと仏教色強い箱根権現ですから。


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参拝が終わって、湖畔の大鳥居(平和の鳥居)まで下りましたら、鳥居下付近に「白猫明神」なる石碑が建立されているのに気が付きました。
意識していなかったのでいつからあるのか分かりませんが、真新しいものでもないようです。
神社で飼ってた猫のお墓なんでしょうか。


伊豆山神社にも今年はまだ参拝してないないので、桜の頃にでも行ければと思っています。

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いよいよ「御館の乱」か

角田さんは今回で出番終了か…。惜しい。
もっと暴れて欲しかった(笑)。

今日は、市川崑ばりの短カット割りかと思いきや、フリーズ(超スロー?)>フェードの多用。
他にも片目武者視線とか。
なんだか、編集ソフトを手に入れたばかりの新人作品みたい。
何かへのオマージュ?
それとも、「すべて仮説なんだよ」というイメージなのか?
第一話から思っていたのだけど、何となくアニメというか二次元的演出が多い気がする。
それが良いか悪いかは使い方によるけど・・・・

で、やっぱり、景虎側はほぼ遠山康光の工作という筋書きか。
「見捨てられた」と思ってる景虎へは北条家からの指示という形では進言できないから、というのは分かるけど・・・。
全ての暗躍を一身に背負った役、という感じですな(笑)。

というか、今まで景虎自身も少しは野望があってもおかしくないキャラだったんだし。それはそれで良いと思うのだが…。

まさか、ジブリ作品みたいに美麗キャラは全員善い人になっちゃうのか(笑)?

あ、毎回文句ぶーたれてますが、視聴は楽しんでます♪色んな意味で。
それも大河の宿命さ。

さて、来週は「御館の乱」。
御館の主、前管領サマはきっと出てこないに違いない(笑)。
はらたいらに3000点!!

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『風と雲と虹と』18日から

またしても時代劇専門チャンネルの宣伝になってしまいますが、今月18日からは、平将門(加藤剛)を主人公にした大河ドラマ『風と雲と虹と』(1976年放送)全52話が再放送!

http://www.jidaigeki.com/prog/001036_001.html

全話現存する大河ドラマとして最古作品だそうですが、描かれた時代もたぶん最古。

原作は海音寺潮五郎。
個人的には吉川英治の『平の将門』の方が好きですが、ともかく楽しみであります。

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酒匂川土手の桜

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酒匂川に新しい橋が3月末に開通する。
公募で富士見橋と決まったこの橋は、小田原市成田地区と中曽根地区を結ぶ県道に伴うもの。

流通基地や、梅や海産加工品の工場が並ぶ地域で、殺風景な場所ではあるが、どんな橋ができているのか野次馬根性丸出しで見に行ってきた。

橋は想像通りのシンプルなコンクリート橋。
親柱に装飾でも付くかもしれないが、このご時世、控え目なものだろう。

橋は数秒で見飽きたが、工場地裏手の酒匂川土手には早咲きの桜が開花しており、こちらは青空のおかげで大変楽しませてもらった。
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工場の人が植えたのだろうが、橋梁工事で車両通行止めとなっているためか、誰も見に来ておらず、少々もったいない気がした。

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北條稲荷

2月初午から日が経ちましたが、旧初午に合わせて紹介。
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【立地】
小田原市浜町4丁目。旧町名・古新宿。
戦国期小田原城総構(大外郭)の旧山王口(後に江戸口が陸側に新設された東海道に設けられる)にあたる。
境内を巡って西へ向かう道筋が虎口の跡。
境内東側には近世まで溜池があったが、これは北条時代の水堀(渋取川)に由来するものだったと思われる。

【祭神】
倉稲魂命・大宮姫命・大巳貴命・保食神・大田命(稲荷五社明神と崇める『新編相模国風土記稿』)

【境内末社】
牛頭天王社・疫神社・蛙石明神社

【例祭】
二月初午

【由緒・伝説】
『北条五代記』の「北条氏康和哥の事」によれば、

ある日、氏康公が家臣たちと高楼で夕涼みをしておられると、どこから来たのか近くで狐が鳴いた。
秋の狐とは言うけれど、夏の狐は珍しい。
一同、不吉の前触れでなければと思う所に、梅窓軒という者が故事を語った。

「昔、源頼朝公が信州浅間で狩りを為された時、狐が一鳴きして北方へ逃げ去ったそうです。夏の狐であったので、公は不審がり、厄払いに歌を詠むようにと御家人達に命じられました。
これを受け、武蔵国の住人・愛甲三郎季隆は
『夜ならばこうこうとこそ鳴くべきに あさまにはしるひる狐か)』
と詠みました。
(夜にコンコンと鳴くのが狐であろうに、昼に鳴くとは浅ましい狐であることよ。「浅間」とかけている)

頼朝公はこれ(不吉を珍妙に詠んだ事)に感じ入り、恩賞を取らせたという事です」(『曾我物語』逸話)

それを聞いた氏康公は、ならば故事に倣って皆も詠んでみよ、と仰られた。
けれども各々、いまだ詠む人が現れなかったので、氏康公おん自らが
「夏はきつねになく蝉のから衣 をのれおのれが身の上にきよ」
とお詠まれになった。

(きつねは「来つ、音」にかけている。「蝉の空衣」は唐衣にかけていると思われるが、季語の「蝉の羽衣(薄着)」にかけているようにも見えるし、「枯れ衣」(蝉の抜殻、転じて古衣)としているようにも受取れる。いずれにしても、季節外れで風流心を解せない狐を茶化した歌であろう)

夜が明けると、昨晩鳴いていた場所で狐が死んでいた。
皆、奇妙な事だと感じ入ったということだ。

・・・というのが話の筋である。
ここでは、北條稲荷として祀られた話までは記されていない。

だが、地元の伝話では話が続く。

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死んでいたのは、一匹の老狐だった。苦悶の表情であったという。
その後、家臣の鈴木左京介が狐憑きになったと噂が立った。
左京介は、狐の鳴きまねをしたりしていたが、やがて呪詛の言葉を吐くようになった。

「氏康公は歌で私を調伏し殺した。この恨みは深い。この後必ず公の身辺に災いが起こるであろう」と。

そして、この一連の出来事があったのは、元亀元年(1570)6月であったとされているが、翌年10月に氏康が没したので、皆これは老狐の祟りであると恐れたという。
氏康の跡を継いだ、子の氏政は、狐の霊を鎮める為、城内(狐が死んでいた場所だという)に稲荷明神の社を建てた。

これが、北條稲荷大明神の創建であると云われている。
稲荷が建てられると、左京介も狐憑きから解き放たれ平常に戻ったという。
北條稲荷大明神は、北條一族の守り神として祀られていたが、いつの頃からか現在の山王口脇に移され、後に同じく城内にあった蛙石明神も境内に移されたという。

狐が憑いたのは左京介本人ではなくその中間であったとか、老狐が氏康の夢枕に現れて呪詛の言葉を言ったのだとか、聞き伝えなだけに細かな内容の違いがいくつかある。

『相中雑志』には、氏康筆の棟札があると記載されているが、現存していないようである。

【一考】
実際のところは、この話があったとされる元亀元年には氏康はすでに病で、夕涼みで歌を詠むほど壮健ではなかったはずである。

伝説を見る限りでは、伏見系の正当な稲荷社ではなく、オサキ狐系の民間稲荷のようであるが、実際は伏見稲荷の祭神五柱を勧請しているようである。
保食神は、倉稲魂命と同一として習合されることの多い神だが、穀物だけでなく食料全般の神とされるので、ここでは役割分担されているのだろう。思うに、田中大神の代わりではあるまいか。

古新宿は、ほぼ専漁の村であったから、田の神よりも(海の恵みを含めた)食物全般をもたらしてくれる神が好まれたのだろう。
魚座の繁栄も祈願されていたかもしれない。
地元自治会による『専漁の村』によれば、関東の一部では稲荷を漁業守護とする信仰があるとのこと。
古新宿町には、この他にも稲荷や竜神の小社がある。

北条時代から北條稲荷を号していたとは思えないが、古新宿と隣の千度小路の漁民は、戦国期から江戸期を通じて海士(あま)方役を負っており、帆に三鱗を染め抜く事が許されていたという伝統がある。
そうした来歴が北條の姓を慕わせて号したものであろうか。

神主の天(てん)家は神事舞の家で、北条時代に韮山から小田原へ呼ばれ、移他家・唱門師といった移動性の民間宗教者を監視する役を受けていた。
北条家が持てなす客を饗する時も天家の当主・十郎とその推薦人だけが許され、この伝統は、江戸期においても、年に六度、小田原城主の繁栄と天下太平を祈るという形で継承された。

(北條稲荷は昭和初期の漁業が盛んだった頃までは、広く信仰されていたらしい。戦前の頃までは、民間の祈祷師が占いをするなど、蛙石明神と共に吉凶を知る場所としても知られていたようだ)

天家では、天正十四年頃に北条氏から小田原に屋敷地を与えられて住んだと伝えられており、それ以前はどこかの宿を宛がわれていたのかもしれない。
もともと移動を常とする神事芸能者であるから、北条家当主が別の城に在陣する時なども伴われていただろう。

宛がわれた屋敷地は、江戸時代と同じ北條稲荷の隣接地であったと考えられている。
東海道が通過する虎口に屋敷地があったのは、街に出入りする旅芸人や宗教者を監視していた事に由来するだろうか。
天正14年という時期を考えると、秀吉来攻に備えて小田原城も大普請が始まる前年であり、この年の後半であったならば、そうした政治的緊張の中での移住であったろう。
また、この当時の小田原城下町東端部がすでに近世城下町と同じ範囲に至っていたと考えると興味深い。


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『太平記』スタート!

ご存知の方も多いかもしれませんが、今日から時代劇専門チャンネルで大河ドラマ『太平記』再放送です。
CS系では以前も再放送しましたが、その時は見逃してしまったので、今回はなるべく全話観れるようにしたいと思います。
あぁ、鶴太郎の高時とフランキー堺の円喜がまた観れる…(笑)

http://www.jidaigeki.com/special/0903_2/

また、そのほかの60~70年代大河も選り抜き紹介という形で放送されます。
http://www.jidaigeki.com/taiga/
個人的には『草燃える』が楽しみです。
『新・平家物語』も。
ただ、モノクロ版しか現存していないとのことで、残念。
総集編ならカラーでビデオ化されているのですけどね…。
業務用のテープは高価ですが、この当時は相当高かったハズ。
NHKも繰り返し使ってたんだと思います。

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遠山康光登場

…かと思いきや、早くも謀議に。
悪代官みたいだな。
ようやく景虎のまともな家臣登場。
(2話観てないけど、初登場だと思う…)
「景虎のお気に入り」ってアンタ、一応母方の外戚ですよ。

しかし、北条高広も柿崎晴家も単独行動なのか(笑)。
これじゃ勝てん。

今日もあのキャンドル(灯明)サービスが気になる。
余程お気に入りの演出と見える。
フリーチベットのコールか、サティーでもするつもりかい(笑)

冗談はさておき、謙信遺言の虚言は兼続本人でも良かったような。
幾つもの毒を飲んで、どんどん逞しい軍師に育ってくれたらそれでよいのではなかろうか。
ま、いいか。

三郎殿、やっぱり家督争いしか道は残ってなかったのだろうか。
上田長尾も難だけど、北条家出身も単純には受け入れらんないかもね。
長尾の娘を離縁して小田原に戻ってもね…。

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