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海蔵寺

大観音さんともう一つ、この日の目的だったのが、早川の海蔵寺に来ることでした。
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ここは、後北条氏以前に西相模に勢力を広げた大森氏出身の安叟宗楞(あんそうそうりょう)による開山。
曹洞宗の小田原三山の一つとして、戦国時代には特に格式を誇った寺院です。
今は普通の田舎寺という感じですがね。

それだけに山主も広い交際関係があったようで、『小田原記』では弘治元年(1555)に結城政勝が伊勢参宮の途路に立ち寄り、住職の取次で北条氏康に会見したと書かれています。

また、豊臣秀吉の小田原攻め(天正18年・1590)に際しては、早くもその前年12月に豊臣方禁制を得ています。
秀吉の北条氏への宣戦布告が11月24日ですから、かなり早くから情報を得たり手を回していたようです。
(石垣山一夜城の立地を秀吉に進言したのは、実は松田憲秀ではなく海蔵寺だったりして・・・、寺の裏山だし・・・)

現在、このお寺がウォーキングや史跡めぐりなどで認知されているのは、境内のビランジュと当地で陣没した豊臣方武将、堀秀政の墓です。

堀秀政に関してはウィキなどで上手く述べられていますので、省略。
一応、海蔵寺が秀政などの陣場になっていたと考えられているようです。


そして、ここに出羽角館城主の戸沢盛安も葬られたともいいます。
今のところ、自分が確認したのは、新人物往来社の『戦国人名辞典』だけですが、何れかの家譜などに載っているのかも知れません。

戸沢盛安といえば、鬼九郎や夜叉九郎などと異名を取った武勇の士ですが、まあ、これもウィキなどで検索してみてください(面倒くさがり)。
某戦国ゲームでもなかなか強いキャラのようです(笑)。

この方も小田原包囲中に陣没されているのですが、まだ20代ですよ。
秀政より若い。
個人的想像ですが、箱根山中城攻めでは中村一氏の部隊に加わっていたようなので、もしかしたら銃傷を負って長陣中に発症したんじゃないかなと。あそこは鉄砲による被害者が多かったみたいですから。

小田原城包囲は4月から7月。
およそ一と月ずれる今の暦なら夏真っ盛りの時分です。

もし戦病死だったとしたら、弱っていく己の身体にどれほど悔しかったことでしょう。
盛安は日本海経由で京に参陣し、ようやく三河吉田城で秀吉に謁見したそうですが、これは、南部信直を出し抜いて参着した津軽為信より早い。
確かに若気もあるでしょうが、個の功名ではなく、秀吉政権による領土の公認の願いや、領主のプライドも背負って参陣していたはずです。

まあ、そんな勝手な想像をしてまして(笑)。
ともかく、ご住職にお話でも聞けたらと思って行ったわけです。
・・・そうしたら、またしても不在でした(苦笑)。

まあ、電話でも良いのですけどね。
自分、ツールとしては余り好きではないのです。
用件だけでやりとり終わっちゃうので。

とりあえず、門前でお会いした史跡オジサンと一緒に少し探してみましたが、戸沢氏の追善碑みたいなものは見つかりませんでした。

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堀秀政とその家臣の墓とされる宝篋印塔も、基壇の法名などが摩滅してイマイチどっちが秀政なのかハッキリしない。
以前、文化財保護委員の方に教えてもらった気がするのだけど、忘れてしまいました。

形式的には江戸期だよね。
追善のものだと思う。
一番手前の宝篋印塔の基壇部なんかは、江戸以前そうな感じですけどね。

他にも草に埋もれた墓石などがありますが、ほとんどは古くてもせいぜい元禄。
五輪塔や宝篋印塔はパーツなら中世までいくのがあちこちにあって、きっと大森~後北条時代の墓石なのでしょうが、すでに墓の用を為していない状況です。

ともかく、遺跡が無いにせよ埋葬地ということであるなら、戸沢盛安のことも現地の解説板に一筆触れておいてもらいたいな・・・。


関係ないけど、参道の柑橘系(たぶん)の花が良い匂い。
ミツバチ達が足にいっぱい花粉着けて飛び回ってました。
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