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2008年4月

深夜一人の史跡めぐり

今日は、というか昨日29日は歴史散歩&ほうとう鍋のオフ会でした。

30分ほど前に帰宅。

実は川崎からの東海道線で寝過ごしちゃいました(苦笑)。

起きたら早川駅(ホーム真っ暗)。

ここで30分待って乗った最終の上り電車は、あいにく小田原が終点。

結局、そっから小一時間歩いて帰りました。
(タクシーは勿体無いのだ!)

おかげで酔いがさめまして、なんだか不思議と元気になってきたので、ちょっと寄り道。

酒匂川にほど近い場所にある、徳川家康陣場跡を見てきました。

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豊臣秀吉の小田原攻めの時に家康が陣場を置いたとされる場所で、江戸時代に創建された小さな東照宮があります。

民家の敷地内にも土塁がホンの少し残っております。
こちらはもちろん見てません。

かなーり久しぶりに来たのですが、特に変わりはなく。

でもなんか写真見ると、心霊スポットみたい・・・(笑)。

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川中島合戦戦国絵巻への道(平成20年度)~⑥甲府城跡~

二十四将の終着を見届けたところで、さおりんさん、かずさんぐさんと再び合流。

歩き回らせちゃってスイマセン。

でも、この後もうひとつ行く予定地があるのです。甲府城跡。

もう16時を回っていたので、ちょっと焦りつつ、また20分ほどえっちら歩いて甲府駅前へ。

2041213_0771跨線橋に着くと、眼下にはつい最近復元された山下御門。
そして線路の向こうには白亜の稲荷櫓と天守台の高石垣が!

城内を鉄道が走る、なんとも微妙な光景です。

さっきまでその線路を、観光用のSLが走っていたらしい。

少々違和感を感じたのは、線路のこちら側にぽつんと再現された山下御門。

橋側から見ると、門の内側になってしまうので、枡形もなくいきなり渡櫓門が置いてあるように見えてしまう。

今回は時間がギリギリで立ち寄れなかったけど、次回はしっかり正面から入って、重厚な枡形を堪能したいと思います。

2041213_0801稲荷櫓に到着したのは16時50分くらいだったでしょうか。

何を急いだかって、スタンプです。

ここ甲府城も「日本100名城」の一つでして、稲荷櫓の有人案内所にスタンプが置かれているのです。

お祭の日なので少しは閉館が遅くなると期待してたんですが、実際閉館ギリギリタイムだったのかも。

まあ、なんとか無事押せました(笑)♪

この「100名城」スタンプを集めている人はそこそこおられるようで、受付の方によれば、この日は我々で22組目(だったかな?)との事。多いんだか、少ないんだか。

それにしても、さおりんさんは100箇所全部のスタンプ本気で集めるそうです(まじですか?!)。

私もついでに集めてしまってますが(笑)、どうなることやら。
単なる旅のスタンプ集めの一つとして終わってしまいそうです・・。

内心、御陵印(各天皇陵の御朱印みたいなもの)みたいに、事務局でも全スタンプ一括管理してるんじゃないかと思ってたり・・・・。

そのうち観音霊場みたいに、東国100城・西国100城とか出てきやしないか心配です(ないでしょうね)。

稲荷櫓内では、整備前の発掘調査で出土した瓦類などが展示されていました。

浅野家の「違い鷹羽」紋の軒丸瓦や、オーソドックスな三つ巴紋の軒丸がありましたが、後者では製造年代によって巴の向きが違っていたり、周囲の連珠(円模様)の数が違ったりもするようです。

櫓の二階では、甲府城の模型が展示されており丁寧に説明してくれました。

閉館まぎわだったのにイロイロとお話して下さり、甲府城の概要や今後の整備計画などが良く分かりました。

昨年はムカツク山梨女に出会ったおかげで、内心山梨県のイメージが極悪でしたが、おかげさまで今はかなりの好評価となっております(単純)。思わぬところで小田原市役所のネタで盛り上がりましたし(笑)。

櫓から出ると、もうかなり西陽に。

せっかくなので、ささっと城址の主要部を一回りして見学してきました。

2041213_0881動物園付きの城址公園に見慣れた私ですので(笑)、純然としたこうした城跡はとてもスッキリして見えます。

また、東国の城なのに高石垣なのも魅力。

門や塀も多くが再建されていて、歩くのも楽しいです。ちなみに写真は稲荷門。

ただ、石垣に落書きが多いのだけはいただけません。

特にヒドイのが天守台穴蔵の石垣。見ていて悲しくなりました・・・。

天守といえば、ここに天守閣を復元しようという動きが前からあるのは存じてましたが、あまり評判良くないようですね。やはり政治が絡むからか・・・。

最近では天守があった可能性は高まっているようですが、具体的に再建となると難解。

国史跡でないだけに、文化庁指導に厳然と従わなくても良いのかもしれませんが、それでも一昔前のように“想像復元”なんて許されないでしょう。

城跡は復元とかだけでなく、現状を損なわず維持していくのも評価されるべきです。

ま、それは別として、城址の公園整備はこれからも続けられていくようで、武田氏館跡と併せて楽しみなところではあります。

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川中島合戦戦国絵巻への道(平成20年度)~甲斐古府中へ⑤武田二十四将騎馬行列~

武田氏館跡ではそのほか、西曲輪の北門の枡形や主郭の堀、わずかに見える天守台石垣などを見学しました。

藤村記念館は修築工事中。

ふと時計を見ると、15時半。

そういえば、そろそろ武田二十四将の騎馬行列が帰還してくる頃です。

武田神社の参道に戻ってみると人ごみが。どうやらすぐそこまで来ている模様。

2041213_0631その合間から武田通りの方を見ますと、もう鳥居前を曲がってお堀に沿って帰陣中~。

せっかく待っていたのに見逃しては元も子もない・・・。

ともかく、かずさんぐさんとさおりんさんを置いて、一人もとの西曲輪へダッシュ!

甲冑武者を追ってハアハア走ったのは、地元の『北条五代祭り』以来でしょうか。

これはもう、質はともかく撮れる素材はかならず撮影する、という前からの呪縛のようなもの(苦笑)。

できれば武田氏館のお堀を効果的に入れて撮影したかったのですがね・・・。

行列の中ほどに追いつくのがやっとで・・・・・(汗)。

2041213_0661幸いなことに、秋山伯耆守信友役の三浦介星友さんや原美濃守虎胤役の繁霞さんは後尾の方でしたので、なんとか馬上の勇姿を拝見することができました♪

黒澤映画や日本大好きなルーマニア人の友人Fなどは、こんなお祭見れたら大喜びだろうなあ。

騎馬武者姿で武田屋形前から甲府城の方までをぐるりと行列できるこのお祭、抽選だけど一般参加なのですよね。
武者に扮するまでなら、結構あちこちの時代祭りがあるけど、馬に乗れるのは少ないと思います。

自分も一度やってみたいような(笑)。気分よさそう。

騎馬武者の面々は、皆さん自分から申し込んで出ているだけに本当に楽しそうだし、なりきっておられる。

見ている方もね、そういう方が楽しいですよ。

お馬さんもお疲れ様でした!

2041213_0691_2


ちょっとお疲れな方(馬)もいたようですが、この時期、武田関係のお祭で忙しいんでしょうか。


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川中島合戦戦国絵巻への道(平成20年度)~甲斐古府中へ④子とりの堀~

武田氏館跡で今回、もうひとつ確認したかったのがコレ。

甲府市のHPはなかなか充実していて、昔話集なんかも掲載されているのですが(↓)、そのなかでこんなのがありました。
http://www.city.kofu.yamanashi.jp/contents/content/section/42/204/

2041213_0521(引用はじめ)

「子取りの堀」

(松のしらべ方言伝説号より)
 武田神社の烏居に向かって左方の古城の堀に、昔は子供がそこを通ると、水中に美しい玩具が落ちていて、子供がそれを取りに堀に入ると、誰でも皆、堀の主のために水中に引き込まれてしまった。
 そんなことのないように堀の入り口に地蔵を立て、今でもその地蔵があるという。

(引用おわり)

そういえば、西曲輪の土橋のあたりに石碑やらあったなぁ~、と思って行ってみましたら。

2041213_0511あった(笑)。

まあ、上のお話に該当するお地蔵さんかどうかは確証ありませんが・・・。

そのほかにも、西曲輪の竹は割ると断面が武田菱になっているとか・・。

2041213_0531
神社ができるまでの館跡はうっそうとした茂みだったみたいですから、昔はちょっと怖い雰囲気もあったんでしょうかね~。

実際、堀で子どもがおぼれた事もあったのかもしれませんね。

「あんなとこで遊んでると、お堀に引きずり込まれちゃうぞ!」
なんて、大人が子どもをしかる口実にしていたのでは・・・。

でも、逆にそれで興味が湧いちゃった子も少なくなかったハズ(笑)。

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川中島合戦戦国絵巻への道(平成20年度)~甲斐古府中へ③武田氏館跡~

2041213_0331話が前後しちゃいましたが、武田氏館跡の大手門あたりの現況はこんな感じでした。

現在の武田神社東入口になるのが館の大手門になるのですが、その外側で近年継続して調査が行われ、現在は公園化整備が進められています(史跡武田氏館跡大手門周辺ゾーン整備工事)。

現地の説明板や甲府市HPで公開されている資料などによれば、大手門の外側にも堀に囲まれた区画、つまり曲輪(くるわ)があったようです。


復元整備されているのは、その仮に“大手曲輪”とでもいうべき区画の北側で、私達が訪れたときは、芝生育成のために土塁上などは立ち入り禁止になっていましたが、ほぼ完成している状況でした。

“大手曲輪”の北側は武田氏館主郭北東の「御隠居曲輪」方面へ続く堀になっており、興味深いのは、並行している主郭部の堀が空堀なのに対し、こちらは水堀になっています。

東側は城下からの大手筋にあたる「鍛冶小路」に堀を隔てて接し、南北二箇所に土橋が設けられていたようです。
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現在までの整備では、北側の土橋が再現され、大手口の土橋のように二段の石積みが施されています。
ちなみに、大手口土橋でも発掘調査は行われ、今よりやや幅狭な武田時代の土橋と石積みが出土したとのこと。

大手口外側の石塁も整備されるとのこと。
発掘調査では、その下から三日月堀が確認されたそうですので、武田氏時代から馬出しが築かれていたことになります。
丸馬出しは、武田氏系城郭に特徴的な防御設備として有名ですが、今までの確認例ではその殆どが前線にあたる静岡県や長野県でした。それが、この発掘で本拠にも設けられていたというのは、意義のある発見だったようです。
具体的な時期などはなかなか難しいでしょうが、やはり軍事的緊張の度合いからして武田勝頼時代と想定されるのでしょうかね。
徳川氏の支配期(関東移封前)に旧武田系家臣による作事という仮説もありでしょうか(笑)。

ともあれ、史跡名になっている「武田氏館跡」周辺の整備工事になってはいるものの、明確な遺構の保存となると、最終段階の姿、つまり豊臣大名・加藤光康の甲府館跡を整備することになってしまうわけですな。

それはそれで楽しみではあるけど、わざわざここに来る方は武田氏の跡を偲びに来る人が多いでしょうから・・。

そういう意味では、将来の西曲輪の発掘および整備が大いに期待されるのではないでしょうか。
まだ先でしょうが。


最後に一応、武田氏館跡の簡単な歴史をさらっと(真っ先に紹介すべきだったか・・・)。

永正16年(1519) 武田信虎によって築かれる。
それまでは、石和に近い甲府市川田(現在の二宮神社あたり)に居館があったそうな。

永正17年(1520) 要害城を築く。

大永元年(1521) 武田晴信誕生。

天文2年(1533)  武田氏館消焼失。

天文10年(1541) 武田晴信、父信虎を追放。

天文12年(1543) 武田氏館類焼。

天文20年(1551) 晴信嫡男・義信と今川義元の娘の婚儀により西曲輪の造営(翌年完成)。

天正元年(1573) 信玄死去。

天正4年(1576)  武田勝頼、要害城修築。

天正9年(1581)  新府城(韮崎市)を築城。本拠を移す。

天正10年(1582) 武田氏滅亡。織田信長、武田氏館仮御殿に本陣。本能寺の変(あはれ・・)。 徳川氏と北条氏による甲信争奪戦、のち和睦。徳川臣・平岩親吉、甲斐の郡代に。

天正18年(1590) 徳川家康、関東に領国替え。羽柴秀勝、甲斐領有。

天正19年(1591) 加藤光康、甲斐領有。この頃、武田氏館に石塁など築かれる。甲府城築城開始。

文禄2年(1593)  加藤光康、朝鮮の役にて陣没。代わって浅野長政・幸長が甲斐領有。 (慶長5年頃までに甲府城完成し、武田氏館は廃城へ)

慶長5年(1600)  関ヶ原の戦い

慶長6年(1601)  平岩親吉、甲府城代として再入国。

大正8年(1919)  武田氏館跡に武田神社創建。


武田氏館跡周辺の整備事業内容については甲府市HPで公開されています。
http://www.city.kofu.yamanashi.jp/contents/content/view/5249/282/
記者会見の内容をここまで開示してくれるのは嬉しいですね。

史跡武田氏館の概要に関してはこちら
http://www.city.kofu.yamanashi.jp/contents/content/category/46/348/210/

そのほか、山梨県の埋蔵文化財センター内のコンテンツに過去の発表会の配布資料がアップされています。
(↓平成19年度シンポの「佐々木氏資料」が武田氏館跡に関して)
http://www.pref.yamanashi.jp/barrier/html/maizou-bnk/95827179228.html

(↓「2007年度上半期遺跡調査発表会」に武田氏館跡についてあり)
http://www.pref.yamanashi.jp/barrier/html/maizou-bnk/74596514647.html


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川中島合戦戦国絵巻への道(平成20年度)~甲斐古府中へ②~

食後、さおりんさんとかずさんぐさん、そして私の三人は将軍様一行と分かれて武田神社へ~。

さおりんさんは名城100選のスタンプゲット、かずさんぐさんは写真撮影、私は大手口の現況を見たかったのであった。

道は武田通りをひたすら北上していくのみ。

が、思ったより長い、というか単調で長く感じてしまった・・・。

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それでも、沿道には武田一族や家臣の屋敷跡などの解説板や、江戸時代の町割りを現在の地図に重ねた表示がなされていて、折々楽しめる。

昨年の大河ドラマの影響も大いにあろうかとは思うけど、こうした細やかな観光情報の提示は嬉しいもの。

そんなこんなで、ようやく正面に武田神社の鳥居が。

ココまで来るとさすがに観光地の華を感じます。
混雑というほどでもないですが、お祭りらしい演芸の音が聞こえてきます。

天邪鬼にも正面鳥居から入らず、右手の(武田氏館)旧大手口から境内へ。
(お二方、お付き合いさせてしまってスイマセン。いっつもこんな調子です・・・汗)

まずは参拝。

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拝殿の両脇には日の丸やら花菱の馬標が厳かに立てられております。

まさに御祭神にして、ここ躑躅ヶ崎館(武田氏居館)の御屋形さまたる信玄公ここにありと。

忘れていましたが、今日は武田信玄公のご命日だったのでした。

そうか、だから武田関連のイベントやってるのか(笑)!

そして、宝物館を見学。

ここまではいつものコースですな。

ですが、今回はスタンプをゲットしたり、展示品にツッコミを入れたりと、やや邪道な見方ですが楽しめました。

個人的には伝信玄公云々とかの伝世品よりも、厨子入りの「将軍大黒天」像が気に入ってしまいました。

そのお姿は、打ち出の小槌と宝袋を持って、にこやかに俵上に立つ現在の定番大黒サマ(いわゆる大国主命スタイル?)ではなく、右手に宝珠・左手に剣(三鈷剣)を持つ童子像。

解説文によれば、この剣は国平の太刀なのだそう。

いずれにしても、この剣に薄っすらとマハーカーラらしさが残っておられるような気がする。

宝珠は今も、俵や小槌に描かれたりして残ってますね。

で、これもやっぱり信玄公の守り本尊と伝わっているそうな。

厨子には永禄七年(1567)にあたる「永禄甲子年、信玄(花押)」との文が書かれているそうだが、もう掠れて殆ど何と書いてあるのか読めなかった。
(※甲子(きのえね)の年や日は大黒さまのご縁が最も濃いとされます)

この年は第五回川中島合戦があった年だそうで、それと関連付けるのならやはり軍勝祈願がなされたものなのでしょうかね。
単に豊作祈願かもしれませんが。


見学後、のどが渇いたので境内にある「姫の井戸」なる水を飲ませていただく。
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脇の説明書きによれば、信玄息女の産湯や茶の湯にも使用されたとある。

別売りペットボトルで持ち帰りできるようになってましたが、そこまでは・・・。でも、なかなか甘露な水でありました。

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川中島合戦戦国絵巻への道(平成20年度)~甲斐古府中へ①~

エロヒムと暫しの交歓を果たした我々であったが、気がつくとお昼時に迫っていた。

時間の過ぎるのが早すぎる!

これもモントーク計画の余波なのか。

小山田氏の岩殿城を右手に過ごし、ようよう国中入りした頃には昼食を予約した時間になってしまった。

運転していた御所様におかれては、沿道に咲く桃の花の美しさを見る余裕も無かった事と思われる。

そして、ようやく街中に入れば、皮肉にも武田二十四将に道を阻まれ(苦笑)・・・、迂回するハメに。

ようやく30分ほど遅れで、予約のほうとう屋に到着したのであった。
(御所サマ、お疲れ様)

ここで尾張衆の二方と御所様奉公衆の太っちょ殿と合流。
食事はやはり、ほうとうでモリモリと・・・。

私は「辛口豚肉ほうとう」とかいうのを食べましたが、コチュジャン入りの豚汁ほうとう&ほうとうという感じでしょうか。

以前、中川温泉オフ会で猪鍋ほうとうを食べたのを思い出しました。
(アレは美味しかったな~。寒かったけど)

それにしても具がデカイ(爆)。

おでんの輪切り大根みたいな形で、ジャガイモが三個ほど入っていました。実際、麺より多かったんじゃなかろうか・・(笑)。

まあ、辛い味噌汁に根菜類が入っていれば、自分はもう言うことはありませんです。(ま、ホットな屁が地球に優しくないかもしれません)

食後は、尾張衆のユゲ殿のシャア専用ケータイに俄然注目!

いいですねえ、あのモノアイ点灯音!!

私も欲しい!!量産型でいいから。

(全然関係ないですが、アッザムってお掃除ロボにしか見えないですよね)

写真は武田通りの信号機。
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市の鳥なんでしょうか、あちこちの電灯やらにカワセミが留まっていました。
青信号でピヨピヨ(?)鳴いたら面白かったのですが。

しかし、信号機や鉄柱がオール茶系に落ち着いているのは嬉しい配慮ですね。

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川中島合戦戦国絵巻への道(平成20年度)~序章~

一年ぶりの石和。

今年は出れないんじゃないかと思っていたのだけれど、色々な方の助力により行ってきました。

そんな調整もあって、昨年は征夷大将軍太郎さんの隊で上杉軍に参陣したワタクシでしたが、今年は原隊復帰?

武田方の三浦介星友隊の欠員の代わりとして、何とか参加できたのでした。

星友さんの隊は自分が石和デビューした宮下隊の後を引き継いだ隊でして、一応自分も初回以来のメンバーなんだけど、毎年参加していた訳でもなく、なかなか以前のように普段お会いする機会がないまま、昨年ついに征夷大将軍太郎さんの将軍隊に浮気してしまった訳であります。

その際「副将と軍師の職を与えよう」との調略があったかどうかは、記憶にございません(笑)。

まあね、そんなチョッチ情けない状態で三浦介星友殿の温情にすがってしまった訳ですな。

(これも、各リーダーの温情および、交流の深い両隊の関係があっての事でして、あらためまして感謝の言葉をここにしるしておきます)


そんなこんなで、12日。
相州小田原を出陣。
自宅の神棚に鎮祭される箱根・伊豆山神社の二所および鶴岡八幡宮と松原明神(小田原総鎮守)に武運と道中無事を祈り、合流地へ。

征夷大将軍太郎殿のお車で、さおりん殿とかずさんぐ殿の4人で甲斐府中を目指したのだった。
ちなみに、さおりん殿は北条家玉縄衆。
今回に至り、初めて北条家援軍の同士を得て心強い限りである(?)。

そして午前11時半頃、車は津久井領より甲州郡内へ入ろうとしていた。

それにしても、藤野SAで見たこいつは何だったのか。
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「宇宙からのメッセージ」・・・(汗)。

私の頭の中では、昔、学校の帰りに駅前で配られていた「宇宙人を迎えよう」という怪しいチラシのイラストがモザイク模様に蘇りつつあった。

も、もしかして・・・、エロヒム??

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黄泉あがりでした

石和でお世話になったみなさま、以後のご挨拶できませんで大変失礼致しました。

石和より帰宅して早々に風邪をこじらせまして・・・。

ようやく本復してきたところでアリマス。

一週間遅れではありますが、これからポチポチと山梨一泊旅行の日記をアップしてこうと思います。

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