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金沢文庫展観と寺社旧跡めぐり(2)

さて展示のほぼ終わりまで見た頃、携帯に電話が。
征夷大将軍太郎さんからで、これから合流してくださるとの事。
称名寺の門前で待ち合わせることに。

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合流までまだ1時間以上かかると思われたので、称名寺の裏山を歩いてみることにしました。
登りはじめると、すぐ脇に「三重塔跡」の石碑が。
今は草の中に位置を示す碑があるだけですが、平坦にされた空間が建物の存在を偲ばせます。
鎌倉後期、最盛期と思われる称名寺のありし姿は、金沢文庫展示の模型や元亨三年(1323)の「称名寺絵図」で想像することが出来ますが、金堂の後ろにあった二階建ての講堂や、この三重塔もいつか復元されるのでしたら、とても楽しみな事です。
もちろん、浄土式庭園が再現された現在の状態だけでも、実際のスケールで当時の精神性に触れられる貴重なものなのですが。鎌倉の永福寺もはやく同様に整備されることを願っている人は相当多いのではないでしょうかね。

途中の百観音(お砂踏み?)を過ぎて、少し登るともう山頂でした。
が、この日は完全な夏日快晴でしたので、たっぷりと汗をかいてしまいました。
コンクリート製の八角堂があるこの広場は、称名寺三山の一つ、金沢山の頂で、大変眺望にすぐれています。
みなとみらいなども遠望できますが、それよりも海の景色。
野島を手前に、猿島や横須賀の沿岸を一望すると、何だか、昔の名勝とされた金沢八景の旧観が目に浮かぶようです。

そして、尾根を東に進むと稲荷山。
称名寺金堂の真裏にあたる山です。
「陰陽師×密教」の展示解説では、称名寺でダキニ法が修された可能性として稲荷山をあげていました。
「称名寺絵図」には稲荷社のような建物は描かれていませんが、あまり使われていないような道があって、寺の方から直接この辺りに登ってこられるようです。

さらに尾根を東に行くと、称名寺の前身である阿弥陀堂と金沢文庫を建立した、北条実時のお墓です。
境内では彼のお墓だけが宝篋印塔で、さすが金沢北条氏の初代の風格を感じました。

実時墓所の前の谷道を下っていくと、ほどなく称名寺です。
こちらの道は、さきほど三重塔跡から金沢山に登った道と異なり、雛壇状の平坦地が連続していて、何か建物か畑でもあったのではないかと思わせました。
三重塔横の道は旧来の道ではないのかもしれません。
「称名寺絵図」では、谷の入口に経蔵があって、その後方に堀のようなものが描かれています。
もしかしたら、と考えていましたが、やはり鎌倉の東勝寺のような防戦を意識した構造でもあったのでしょうか。

それにしても喉が乾きました。
もう汗だくだくでシャツは重いし、着心地悪いこと。
参道沿いの自販機でコーラを買って、赤門前で暫しボーッとしていると、
「こんにちは」
征夷大将軍太郎さんでした。
呼ばれるまで、全然気が付きませんでした。
久々の再会でしたのに、ハナっから情けない顔しててスイマセン。

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とりあえず、池をもう一度まわり、金堂と釈迦堂で手を合わせた後、文庫内の食堂で昼食。
カボチャサラダがついたカレーライスは500円。
ここで小1時間話して、午後の史跡めぐりへ。

門前の道を六浦方面にまっすぐ下る。
右手に金沢八幡を過ごすと、町屋町。
目の前は、こっから金沢八景駅近くの瀬戸神社を経て十二所方面に向かう旧六浦道。
だけど、広い道路になってて、この辺りではあまり面影は感じられなかったかな。
いえ、道沿いには寺社が多かったし、地名も昔を語っているのが少なくないので、もう少し時間をかけて歩けばまた別だったでしょう。

町屋町では伝心寺(曹洞宗)の北条氏繁とその一族のお墓を拝観。
ここの開基は、鎌倉五代執権の北条時頼(大河ドラマ『北条時宗』で渡辺謙が演じていた方ですね)。
道元禅師が直接説法をされた由緒を持っています。
お墓(供養塔でしょう)が残る氏繁という方は、戦国時代の玉縄北条氏の二代目で、お寺にとっては中興開基にあたるようです。
開山上人は南足柄市の大雄山から来られた養拙宗牧。
ややこしいのですが、玉縄北条氏というのは、小田原北条氏の重臣で、今の大船駅近くにあった玉縄城の城主だった方でして、ルーツは異なる一族です。
彼のお墓といえば、同じく玉縄にある龍宝寺(氏繁の戒名)の裏山のが有名で、私も何度かお参りしていますけど、こちらは今回初めて知ったのでした。

あいにく、法事の最中でしたので、おだいこくさんにお墓の場所とお寺の由緒書なんかを頂きましたけど、慌しそうでなければ、氏繁とこのお寺の関係なんかも住職に聞いてみたかったです。
まあ、氏繁の時代の玉縄北条氏は三浦郡の支配や江戸湾の向こうにいる里見氏への睨みとなっていたから、港のあった六浦にも玉縄衆の拠点があったはずだとは思うんですけどね。
『城郭大系』にある「町屋陣屋」は江戸初期ってことになってますけど、玉縄衆以来のものが踏襲されていた可能性だってあるかもしれません。
でも、子孫のお墓は明らかに江戸時代だし・・・。
まあ、土地のことはその地の人に聞くのが一番。あとでの楽しみにしておきましょうか。

次に、洲崎町の龍華寺(真言宗御室派)。
こちらは縁起によれば、瀬戸神社の神宮寺として源頼朝によって六浦山中に創建された浄願寺が、15世紀末の兵火で焼け落ちた為、この地にあって同じく廃れていた光徳寺と併合されて興されたものだそうです。
江戸時代には20以上もあったという塔頭や子院も、明治に統廃合され、今ではそうした旧本尊や仏教遺物を多数蔵しています。
以前、金沢文庫の展示で公開された脱活乾漆の菩薩像も、このお寺の塔頭、福寿院の本尊だったものだそうです。

瀬戸神社へ着く手前には、瀬戸橋。
この辺に来ると、ようやくここが港の町だということを思い出しました。

最後に、瀬戸神社とその道路向いにある摂社・琵琶島弁財天社を参拝。
琵琶島弁財天は、源頼朝が伊豆の三島明神を勧請して瀬戸神社を創建したおり、妻・政子がこの人工の島に竹生島の弁天様を勧請したのだそうです。
収められている弁財天像は立像のため、立身弁財天として、出世や成功を祈る人も多かったとか。
弁天様は小さな社なので、道だけ見るとなんか、海に突出た瀬戸神社の参道のようにも見えます。

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あ、これが最後じゃなかった(笑)。
最後に行ったのは、上行寺東遺跡。
まあ、その実寸レプリカなのですけれど。
正しくは「上行寺東遺跡復元整備地」といいます。
金沢八景駅の裏山のマンション建設に際して発見された、中世のやぐらや建物跡などの遺跡です。
この遺跡の一部は、さきの龍華寺の前身でもある浄願寺である可能性もあるそうです。
結局、実物は破壊されてしまったけど、その現場近くに遺跡を型取りして樹脂で固めたレプリカが展示されてるとのことで、これも前から見たかったところではありました。
でも、最初にここに登る階段を見たときはドッと疲れがでましたよ。
急なコンクリの階段で、その高さはまるで池田屋の倍くらいはあるかと見えましたから(笑)

ここで、この日の史跡めぐりは終了。
夕食は藤沢のインド料理店で。
私ははじめてフィッシュティッカマサラを食べました。
魚肉は赤身と白身が入ってたみたい。

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