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「河越夜戦」云々①

さて、また暫く間が空いて夏越大祓も過ぎてしまいました。
そして、今更ながらに大河ドラマ『風林火山』23話の「河越夜戦」に関して、思うところを幾つか。

ともかくも、この合戦が映像化されたのは初めてだったのではないでしょうか?
毛利元就の厳島・織田信長の桶狭間と並んで「戦国三大奇襲戦」と云われたりするなか、ようやく「河越」も現代メディアデビューを果たした感があります。
とはいえ、桶狭間の合戦については現在も諸説ある状況だし、河越の合戦もまた良く分かっていないのが現状でありまして。別に一々「三大・・」とかに拘る必要も無いのですが。

本回もまた井上靖の原作『風林火山』には無いオリジナルストーリーでありますが、第一話と並んで、北条氏贔屓な視聴者には嬉しい企画であったに違いありません。
ドラマ的には、後の真田幸隆の武田臣従や長尾景虎登場への「つなぎ」、さらに後の三国同盟への布石でもあると思えるのですが、こういう一時横道的な構成ができるのも、大物大名の御一代記ではなく、「前半生が不明にして志し半ばで戦死」という短命な主人公のドラマならではというところでしょうか。

さて、本ドラマは、武田&主人公である山本勘介の視点で描かれていますので、ここは一つ北条贔屓の身として、北条側からの視点について簡単に紹介。

いつだったか失念しましたが、これ以前の回で氏綱が没しようとするにあたり、氏康に遺訓を伝える場面がありました。内容はいわゆる氏綱公の「御遺訓」とか「御置文」とか呼ばれる五箇条の内容ですが、こういう所をさりげなく押さえてくれている辺り、今回の脚本は大変嬉しいものがあります。

で、その氏綱が没して氏康が名実共に家督を継承したのが、天文10年(1541)7月。氏康26歳。
河越合戦はこの頃からの流れを見ていくと、結構、その合戦に至るまでの一定の緊張感が想像できるように思います。
ちなみに、河越城は4年前の天文6年(1537)7月に氏綱が攻略。ドラマには登場しませんが、氏綱三男で玉縄城(鎌倉市)主・為昌(次男某は早世)が、河越の城主を兼ねます。

氏綱死去三ヵ月後の11月、早速、山内・扇谷の両上杉軍が河越城に来襲した模様。この時の氏康感状が幾つか残っています。やはり代替わりの時期というのは、狙われやすいようですね。そもそも、氏綱が河越城を奪取したのも、扇谷朝興の死後でありましたが。
とはいえ、氏康も「代替わり検地」を開始して、領内の支配を引き締めています。

翌天文11年(1542)5月、為昌が弱冠23歳で死去。
彼は、玉縄(三浦領を含む)・河越のほかに、武蔵小机(横浜市港北区)の城主として、主に相模東部方面を任されていた重要一門でした。あと氏康の弟は20歳の氏尭(うじたか)一人のみ。それだけに影響は大きく、これを機に北条氏領国の支配や家臣団編制に大きな変革がなされていきます。為昌の広大な支配領域と家臣団は分割され、玉縄は義弟だった北条(福島)綱成が継ぎ、河越は為昌後見人で鎌倉代官の大道寺盛昌が、そして小机は叔父(氏綱末弟)で箱根権現別当を隠居した北条宗哲(幻庵)が継承することに。

先代と重臣にして実弟(しかも河越城主)の相次ぐ死没。
やはり管領家としてはこれを機と見なしたものと想像するのですが、同年6月、関東管領・山内上杉憲政は北条討伐祈願と解せる願文を鹿島神宮に捧げています。

ただ、その後の両社の細かな軍事的動きが暫く不明。
ですが、天文12年(1543)には、氏康は古河公方・足利晴氏に忠節を誓う起請文を書いていますし、同13年には房総の里見氏の領内に進出している模様。
天文14年7月、今川義元、氏綱の代に北条家に占領されていた駿河東部を奪還するため、上杉憲政と結んで駿河吉原へ出陣。それまでの間に山内上杉家・扇谷上杉家・今川家の三者で軍事協同に関する外交が進められていたのでしょう。

その5ヶ月前に小田原へ来訪した連歌師・谷宗牧の『東国紀行』には、今川・北条の軍事境界における緊張が記されています。
〈・・・一里ばかり過たれば、吉原の城もまぢかくみえたり、この舟を見つけて、足軽うち出、事あやまちもしつべきけしきなれば、十四五町此方の礒にをしよせ、荷物おろさせ、松田弥四郎申陣所へ人つかはしたれば、案内者をこせ、みなと川のわたりし船さしよせて待たり・・・(正月26日)〉

8月になると、妹が義元に嫁いでいた武田晴信も出陣。
9月には北条方の吉原城(富士市)が落城。今川軍さらに東進。時同じ頃、両上杉家が河越城を包囲。城代として入城していた玉縄城主・北条綱成の籠城が始まります。
まさに四面楚歌。
西は今川、北は武田、東は上杉。南の里見の動きも目を離せない。とまあ、この敵対状況は氏綱の時もそうだったのですけれど、ここまで両上杉と今川・武田が連携して同時攻勢に移った事は無かったのではないでしょうか。
そして10月、古河公方が河越包囲軍に参加。
公方・足利晴氏の正室は北条氏綱の娘でしたから、氏康とは義兄弟。当初は氏康の要請で中立を保っていました。が、ついに上杉からの誘いに乗ってしまいました。
これは本気モードでかなりまずい状況。
公方の手勢は少なくとも、その威に従ってさらに多くの武士が参陣してくるのは大迷惑。
氏康ピンチ。
ここにおいて、駿河東部の放棄(今川家に返還)を決断。天文14年10月下旬、今川・武田両家と和睦し、ひとまず一方の危機は薄れたのでした。
あとは、いかに河越方面を収拾するか。

・・・というのが、河越合戦(天文15年・1546)の前年までの大まかな流れです。
ドラマでも22話「三国激突」の締めがこの辺りだったと思います。

22話といえば、躑躅ヶ崎館(武田氏館)軍議のシーンで、小山田信有(田辺誠一)が広げた地図を覚えておられるでしょうか?
かなりアバウトな地図で、国名と主立った城くらいしか記載されていませんでしたが、そのなかになぜか「河村城(山北町)」が。玉縄城も韮山城も記されていないのに何故?
まあ、単に相甲駿国境の城という意味からなのかもしれませんが、この後、永禄4年(1561)3月に上杉謙信(当時はまだ長尾景虎)が小田原城まで攻め寄せてきた折に、どうやら武田の援軍が河村城に入っていたようなのですよね。
で、同年の9月に第四回川中島合戦(勘介討死)があるわけです。
ドラマ的にはクライマックス前のイベントとして、この謙信小田原攻めに勘介が出てきそうな気がしてなりません。地図の記載はそのヒントかな、とも受け取ったのですが、如何なものでしょうか。後々が楽しみです。

なんか結果的に23話のネタ話というより、22話のネタ話になってしまいました。

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