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近江に行って参りました(その4)彦根城

さて、ようやく最終目的地の彦根城。もう行ってから一月も経とうとしているのですが、まあけじめレポとしまして・・。
まず、写真はこちらです(パスワードは「om20061105」)。
http://lumixclub.jp/photo/Lci?mode=guest&album=EGKMWUIISZ07iOQ37gsI

時間は午後2時過ぎだったか。さすがにお腹も空いたので、彦根へ戻る道すがらコンビニで中華まんなどを買う。K氏のご友人は彦根城で姫装束(・・で良かったのかな?)を体験中とのことで、それが終る前までに是非とも彦根城へ着到を目指していたのであった。急ぐK氏は早々に飲み込むように済ませて運転。私は助手席で窓を開けて寛ぎながらゆっくり食させていただく。陽は暖かく真に良い天気、窓からの風も心地よかった。

道は大して混んでおらずスムースに彦根へ。ふと路傍を見ると、「巡礼街道」の標示が。同名の道は小田原にもあるが、こちらは坂東三十三所観音霊場の札所への道であり、彦根のそれは、かつて彦根城築城以前に山上にあった彦根寺の巡礼道とのことである。ちなみにその道沿いの商店街は「ベルロード商店街」と称しているが、これは六部(巡礼者)の持っていた鈴に因むとの事。

巡礼街道を東に向かい、芹川を渡ると程なく彦根城下である。
巡礼街道を外れて京橋へ向かう直線道路に入る。ここは、城への導入路として整備された商店街「夢京橋キャッスルロード」となっており、沿道の店が全て町屋風に仕上げてある。色調や屋根の勾配などが統一され、また電線も完全に地中化であり、一層の景観美を際だたせている。何だか江戸時代テーマパークに来たような楽しさで、城に入るまでの気分を盛り上げてくれる。やはり、城下を観光地として整備するなら、これくらいやって欲しいものである。
その通りの中に、目を引く朱門の寺があった。宗安寺とある。が、これが石田三成の佐和山城大手門を移築したもの(と伝える)と知ったのは、帰宅して後のことであった。墓地には、大坂の陣で討死した青年武将・木村重成の首塚(井伊家家臣・安藤長三郎なるものが討取ったと伝える)があるとのこと。上方(西方)びいきの方には、なかなか感慨ひとしお為らぬ寺かと思う。ちなみに本堂には徳川家康の位牌も祀られているとのこと。これもまた、上方びいきの方には複雑な思いひとかた為らぬかもしれないが。

このキャッスルロードの突き当たりが京橋口で、ここで外堀(旧中堀)を越えると所謂二の丸(内曲輪)域内である。橋向うは枡形の食い違いが良く残る門跡でもあった。そこから、内堀沿いに進んだ所にある二の丸駐車場に我々は車を止めた。
駐車場とはいえ、二の丸佐和口多聞櫓のすぐ裏にある広場であり、すでに周囲には重文クラスの建築群(同多聞櫓、馬屋など)が建ち並んでいる。これらを見ただけで(今日のメインはやはり彦根城であったかもしれない。もっと早く来るべきだった・・・)と早々に感じた次第であった。

駐車場を出ると内堀のすぐ向うは彦根城博物館で、土塁の向うにはその御殿造りの甍が軒を連ねているのが見えた。さらに遠くには山上の本丸石垣も望めた。ここから城内に入るのは大手門ではなく表門であるが、今はこちらが最も大きな入場口のようになっている感じ。
表門橋を渡っていて気づくのは、この表門を境にした左右の土塁である。一方は、法面の上下に石垣を配する鉢巻・および腰巻石垣であり、一方は腰巻石垣のみで勾配の緩い土塁であった。
さて、橋を渡っていると、正面から緋や萌黄の色鮮やかな姫様風の人々が四人ばかりこちらに歩いて来られる。そして、この中にK氏ご友人もおられた。私もご挨拶させていただき、同行のご家族衆に僅かながら小田原土産を手渡させていただく。先々より小田原北条家ご贔屓の方とK氏より伺っていたので、老舗のういろうが良いかとも思ったが、とりあえず正栄堂の最中「虎朱印」を持参した。しかし、ご一同5人であったのに対し、3つほどの最中しか持って行かなかったので、少々申し訳ない気もした。

ご友人らと別れ、表門を通りいよいよ主城郭内へ。城と博物館のセット入場券もあったが、各郭を歩くと博物館まで拝観する時間は無さそうなので、今回は止めておいた。大変残念ではあるが、また次回を期待したい。

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表門から登城していく「表坂」は樹々に覆われてやや薄暗い。それを上り詰めたところに高石垣と、左右に二階櫓を配した天秤櫓が建っている。というより立ちはだかって居る感じといえようか。天秤櫓の門からは、我々が表坂で左手に接していた鐘の丸へと橋(廊下橋)が架かっている。すなわち、今歩いてきた道は堀道(堀底道)なのであった。尾根の反対側にある大手門からの道もここで合流していたようで、この門の防御にどれだけ重点が置かれていたかが察せられた。
また彦根城の石垣や建築物の多くは、他の廃城から転用したものが多いとされているが、この天秤櫓は長浜城から移築されたと云われている。土台の石垣の積み方が左右で異なるのは、一方のみ後世に改修されたためである。

鐘の丸へ上がり、廊下橋へ。この橋は、戦時の際にはいつでも落とせたものではあったろうが、旧観は覆屋を備えた橋であった。
そういえばこの橋には、ちょっとした昔話がある。
慶長11年(1606)、彦根城の築城が一段落した祝宴の折、この橋を通っていた結城秀康(徳川家康次男)が吐血する事件があった。一説には、後の彦根二代藩主の井伊直孝が毒をもったと云われているが、真相は不明である。が、その翌年に秀康は34歳で死去。死因は梅毒と伝えられているが、同年には弟の松平忠吉(家康四男)も死去しており、その辺りが徳川秀忠(家康三男)側近による謀殺であるとか、徳川政権の将来を憂いた父家康の意によるものという説の根拠になっているようではある。ともあれ、この秀康の吐血痕だけが橋の羽目板に残った。そして後年、幾つかの不幸が秀康の祟りと結び付けられ、不吉なものとして羽目板ならびに覆屋なども取り払ってしまったということである。
この話だけを信じると、幕府の忠誠の為には謀事も厭わずという恐ろしげな井伊直孝のイメージが浮かぶかもしれないので、小田原ネタもかぶせてもう一つ余談を。
我らが小田原・大久保藩二代の大久保忠隣公が謀反の嫌疑で所領を没収され、配流の身が預けられていたのも、彦根藩領であった。その折、預かっているという立場もあったろうが、多くの幕臣らが大御所・家康の怒りを恐れて忠隣公無実の訴訟取り次ぎを渋る中、冤罪を訴えて赦免を請うてくれたのが井伊直孝と成瀬正成であった。
その運動も功を奏し、もともと秀忠の覚えも大きかった忠隣であるから、家康没後に無罪の内意を得たが、それでは先君の政道に失点を残しかねないとして忠隣は辞退。佐和山の麓にある井伊家菩提寺・竜譚寺門前に居を移し、仏門に帰依した余生を送ったとされる。遺骨は小田原大久寺もしくは京都本禅寺に改葬されたようだが、位牌のみが同寺に今も残っている。

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さて、大変説明臭くなってきたのでこの辺りで少々急ぎまわりを。
天秤櫓の門をくぐって、太鼓丸。やや小さな枡形あり。次に太鼓門。この櫓門は佐和山城からの転用と目されている由。そして本丸。大津城天守を移築したという天守で、破風や花頭窓などが特徴的で秀麗。ただし、下層は下見板張りで突上げ戸、石垣を雨水から守る水切り板が巡らしてあったり、さらには塗込めの漆喰裏には戦時の為の鉄砲狭間が設けられているらしい(天守内は時間的都合により立入らず)。慶長年間の城らしいといえばそれまでだが、見る角度によってはそのような無骨さは微塵も感じさせない(そういえば、現在時代劇専門チャンネルで再放送中の『葵・徳川三代』では大津城の合戦に現・彦根天守が合成もしくはCG処理で登場していた)。西の丸の三重櫓もまた小谷城天守を移築したと伝えているが、これは概ね否定された模様。いずれにせよ移築といえども、外観までがそっくりもとのままということはまずないだろう。
本丸着見台からの展望はすこぶる良く、眼下には城内御殿を模した博物館の全容や佐和口門、二の丸庭園の玄宮園などが見下ろされ、さきほど表門からはるかに望んだ本丸石垣はここであったかと気がついた。また北側は旧三の丸域から琵琶湖方面まで見渡せ、やや午後の霞に遮られてはいたが絶景であった。

西の丸から観音台へと堀を渡り、山を下って黒門跡へ。途中、茂の中に埋もれるような竪堀を見る。さすがに堆積土でかなり浅くなってはいたが、石垣が良く残る。
黒門は表門と同じく櫓門は残されていないが、こちらは小規模な門跡で枡形も備えていなかったようだ。門の左右の塁壁の様子もまた表門同様に変化している。北の山崎郭へと連なる側は概ね総石垣で、水面付近のみ犬走り状に土塁となっている。ただし、石垣の傾斜はかなり垂直に近い。南側は逆に水の接する下層部のみの腰巻石垣で土塁の斜度もかなり緩か。このまま先ほどの表門の方に連なるのだろう。二の丸に面した表門と黒門の間の塁壁は、堀の水面下を除いて土塁造りとなっている。また同区域は縄張りの屈曲や櫓台も少ない。反面、庭園のある二の丸域は外側の縄張りに屈曲が多用されており、防御的な設計意図が明確である。その辺り、江戸城山里曲輪や吹上曲輪などの様相と似た趣があった。

この辺りでK氏は私に先行して二の丸庭園の方へ。私は幾つか付近の写真を撮ってから後を追った。が、どちらへ行かれたものか見当たらず。玄宮園入口のお爺さんにK氏の面体を聞くも良く分からぬと云われ、まずは楽々園を巡る。こちらは建築物の一部が修築中であったが、御殿や枯山水は立派見事なもので、個人的にはこの後に観た玄宮園よりも好みであった。ともかく、こちらにはK氏は見当たらないので、戻って玄宮園へ。
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玄宮園は池泉回遊式の広大な大名庭園で、池には茶亭が臨み背後には天守そびえる城山が借景に控えて奥行きのある庭園世界を構成している。また、池は琵琶湖を模して築山、配石などで近江八景を現しているとのことである。そして、K氏はその中に居た。ただ、庭園を鑑賞されていたのではなく、ご友人一行の装束姿を激写していたのだけれど。とはいえ納得。艶やかな装束で写真を撮るならやはり累々たる石垣をバックにするよりも、美しい庭園の方が良く似合っておられた。

後はもう駐車場へ戻るだけと思い、私は再び別れて暫し庭園の景を楽しんだ。個人的には、趣味の合う友人同士で旅行に行っても、現地ではなるべく一人の時間を楽しみたい方なのだ。これはどうだこうだと、現地で歴史を論議するのも好きなのだけれど。

再び堀端沿いを表門の方へと歩いて行く。日曜日ではあるが、下校する高校生たちの自転車とよくすれ違った。別にどうということはない景色だが、城や町屋といった旧観と制服姿の学生というのは何となくノスタルジーを感じる。西伊豆の港町で見かけた自転車学生も良い絵であった。
傍らを見ると束帯姿の井伊直弼像が。そういえば横浜の掃部山公園にも似たような井伊直弼像が立っている。県立図書館に行くときなどたまに見かけたが、横浜の像の由来は以下のサイトなどご覧あれ。
http://www.natsuzora.com/may/park/kamonyama.html

最後にK氏とご友人一行様に私も加えていただき、佐和口門の内外を見て駐車場へ。同門の多聞櫓は、南側のみ重文指定であるが、江戸中期の火災後に再建されたもの。創建当初は櫓門であったらしい。
その後、K氏ご友人お着替までの暫時、その御母堂君と御姉君とお話交えさせて頂いた。
旅先で、普段接点の無い遠方の方と話をするのはまた楽しいことである。

帰路は再び長らく車中の人となり、漸く駿州富士川SAに到着したのが夜11時近かったか。ここの駿河うどんは安価ながらも実に美味であった。麺にこし有り、汁に濃いダシ。具は桜えびとワカメ、青ねぎのみで350円也。
ここまで来れば相州境もあとわずか。足柄・丹沢の黒き峰々を通り抜け、小田原の拙宅に到着したのは、もう日も改まろうとする頃であった。
思えば大変充実した日帰り旅行。K氏殿には、今回のお誘いと長時間に渡る運転および現地ガイド等々大変お世話になったと今にしても思う。ありがとうございました。
(彦根城もまたじっくり観に行きたいですね。一日くらいかけて城下町や佐和山周辺など行きましょう!)

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