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近江に行って参りました(その3)安土城

日帰り旅行だったのに、やたらと時間がかかってる近江レポ。
またも本などだらだら読んでまして書き渋ってたわけであります。もちろん、安土城に関する本です。
良く分かっていない割に最も人気のある城跡だけあり、関連書籍もさまざまかと思ったのですが、意外に地元の図書館にも良書がありました。滋賀県のサンライズ出版の本で、『安土城・信長の夢~安土城発掘調査の成果~』と『図説・安土城を掘る~発掘調査15年の軌跡~』(ともに滋賀県安土城郭調査研究所編著)で、ともに二年前の発行。前者はどうやら読売新聞の地域ページに連載されていたコラムをまとめたもので、後者は題の通りその図説といったところ。発掘当事者の執筆だけあり、調査において明らかになった点と今後の目標などが細かに紹介されており、かつ平易な文章。他の同時代遺跡などと比較しながら、若干の推定にも触れているのが読み手をワクワクさせました。
このような本を読んでから行けば、もっとしっかり観てきたと思う今頃。でも、実はそんなにゆっくりも見ていられなかったのです。

小谷城の遺構に興奮した私のせいで、気がつけばもう11時頃。
あぁいかん、すっかり時間を喰ってしまった。
K氏はこの後、安土城跡に連れて行ってくれるつもりで、自身も楽しみにしていた様子。ちょっと申し訳ないことをしてしまった・・・。
小谷からは、湖岸沿いの国道8号線を一路南へ。安土町へ。
途中、秀吉が築城した長浜城跡の公園を横目に通り過ぎた。
綺麗な望楼型天守が復原されていたが、実際の遺構はあまり目に見える形では残されていないよう。
それでも、ここは旧城下町に伝統的景観を残していたりまた復原していたりと、なかなか景観には気を遣っている。各地の町おこしの参考にと視察に来る人も少なくないと聞く。
そういえば、この町は先の小谷城下の町人達が移り住んだところである。次回また浅井氏関係の遺跡を訪ねる折は、小谷城と長浜をセットに観たい。

琵琶湖を右手に見ながら暫く南へ走ると、もう彦根城下もすぐである。だが、これは最後のお楽しみということで、まず今は安土であった。
しかし、この後が少々長く感じた。というか私は寝てしまったのである。暁前から運転しているK氏には再び申し訳なく、何度も睡魔に抗ったのだが、だめだった。それよりも、寝て静かになったと思った私が突然咆哮を上げるので、その方がK氏にとっては煩わしかったようだ。

そんなこんなで、気がつけば周りは再び田園風景。それを囲むように幾つかの緑山が親子亀のように連なっている。
周囲に城跡らしい山を認める度に、あれかこれかと思いを巡らす。しかし、安土城跡は意外に突然目の前に現れた。そう、今の安土山は琵琶湖と入江に囲まれた水郷の城跡ではなく、埋め立てられた陸田にそびえる城山なのである。

思いのほか駐車の数が多い。
大手道ほかの整備が進んでいるとは聞いていたが・・・。
さすが織田信長の安土城。
そして、城跡にして拝観料を取るしたたかさも、またさすがであった(笑)。まあ今秋から有料になったばかりのようだが。
(そういえば、信長も正月に安土城に招待した武士たちから本丸御殿などの見学料を徴収したんでしたっけ)
今回で名度目かの訪問になるK氏は少々不満気の模様であった。
城跡の模様は以下のウェブアルバムをご覧に頂きたい。
http://lumixclub.jp/photo/Lci?mode=guest&album=EIOMWWDIT007iNQY7gsG
パスワードは再び「om20061105」です。

入場券をもらうと目の前はもう、大手道の石段。
広く真っ直ぐ上る石段は、城と云うより山寺の参道という感じ。そのためか、何となく城跡を歩いている気がしなかったのも事実。
しかし、道の両側には伝・羽柴秀吉邸跡や伝・前田利家邸跡などの平坦面が道に沿っていて、その玄関門はいずれも枡形を備えた城門らしい構造。道に沿った屋敷はいずれも土塀を立てて、それには狭間が開いていたというから、見ようによってはかなり圧迫感があったろう。
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その坂を一息登りつめると、今度は七曲りというジグザグの登り坂。こういう「七曲り」道というのは城跡でたまに目にするが、安土のそれは幅が広いのが特徴か。
この上に伝・織田信忠邸跡。ここから黒金門まで上るのが現在の拝観路だが、どうやら大手道はこのあたりから本丸の南下を通って、二の丸を通過せずに直接本丸南虎口に至っていたらしい。が、残念ながら、現在はまだ整備が進んでおらず公開されてはいない。
18115_1221
とはいえ、黒金門からのルートは見応えがある。折れを多用した縄張りや、巨大な石が積まれた黒金門石垣がそれである。
この辺りで、ようやく城と寺の違いがはっきりしてくるのではなかろうか。
黒金門を入って二の丸に至ると、信長を祀った信長廟があった。二の丸の半面ほどを石垣で囲って、その中に石垣で組んだ墓碑のようなものが立っている。これは秀吉によって建立されたものと云われる。が、正直ちょっとモダンなデザインのように感じるのは私だけではないと思う。
廟所の山門にはあちこちに落書きが彫られており悲しかった。

その二の丸は、廟所があるためまだ本格的な発掘調査が行なわれていないようだが、ここには庭園があったのではないかとも考えられているよう。
そして、不等辺な形の天守石垣もまた、ここの魅力の一つ。
どんな天守建築が建っていたのか、それぞれが想像をめぐらして楽しむ場所となっている。
この頃は復原イラストが盛んだが、描かれるたびに大きく異なってしまうのも安土城くらいなのではなかろうか。

最後に再び黒金門から信忠邸跡を経て、摠見寺跡へ。
これは安土城創建当時からあった先祖の菩提寺。臨済宗寺院だが、近隣の社寺から建築物を移築したため、本堂が密教形式であったりもしたらしい。幕末の火災で三重塔と山門を除いて焼失、今も大手道沿いの伝・徳川家康邸跡地に仮本堂が立ったままになっている。
その摠見寺跡地の石垣もなかなか見事。そもそも城内に同時期に建てられたのだから、城の一部ともいえなくもない。
だが、摠見寺は安土廃城後も存続し、淀殿や徳川幕府による修築の援助がなされたため、現在の石垣がどこまで原形のものかはまだ明らかではないのかもしれない。
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それでも、庫裏跡付近から望む西の湖(琵琶湖の入り江)の景色は絶景であった。この庫裏跡などは信長時代は能舞台であったかもしれないとの推定もあり、興味は尽きないところではある。ただ、三重塔は重文指定ながらも傷みが目だつ。

と、ここまで見て急ぎ足で大手道を下った。
彦根城でK氏のご友人にお会いするとの事。余韻は車中に持っていくことにした。

小谷もそうだったが、安土もまた全てを見るには時間が少なすぎる。また再び時間をかけて観に来たい。その折は、安土町の考古博物館のみならず、隣の観音寺城跡や安土の城下町が移った近江八幡なども訪れたい。

同じく織田信長に興味のあるTK7殿とも、時間があれば来たいところである。その折は坂本城跡なども良いかもしれない。

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