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虎御石

さて、前スレの続きというか、虎御石について。

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この石を寺宝として蔵する延台寺の伝えるところによれば、虎御前の両親が弁財天に子宝を祈ったところ霊夢を観、枕元にこの石を授かったとされています。それに日々祈りを捧げた甲斐あって授かったのが、後に虎御前となる美しい娘子でした。
その後は、彼女の守り本尊として信仰し、虎御前の成長とともに大きくなったとされています。
あるとき虎御前のもとを訪ねた曽我十郎が、仇敵の工藤祐経の刺客に闇討ちされましたが、その時この石が身代わりに矢と刀を受け止めてくれた、というのがこの石の主な霊験譚。その由緒から、この石のご利益は、「子宝安産、身代わり厄除け」となり、それに曽我兄弟の仇討本懐を加えて、「大願成就・家運隆盛」にもなっているようです。

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で、その時の刀と矢による傷というのが、石に刻まれているのですが、まあ実のところは明らかに陰陽石(男女の生殖器をかたどったもの)。もっと昔からの信仰対象であったのかもしれません。伝承の一つには、虎御前が亡き恋人(十郎)を偲んで祈ったようなこともありますが、これは洒落に近い話でしょう。
江戸後期(天保12年:1841)の地誌『新編相模国風土記稿』によれば、古くは大磯宿の西端、鴫立沢あたりにあって、“美男なら軽々と持ち上がり、醜男ならびくともしない、色好みの石”などとして、江戸前期には往来の名物になっていたようです。前スレの錦絵もそれを描いたもの。

この当時、庶民にとって、大磯といえば「曽我物語」の虎御前。広重の「東海道伍拾三次」でも大磯宿は「虎ヶ雨」が題になっていることでも良く分かります。宿で働く遊女や飯盛女にとっても、もしかしたらステータスを感じさせていた存在かもしれません。
この陰陽石自体は、どこからもたらされたのかは分かりませんが、宿の西外れ近くにあったことを考えると、古いスタイルの道祖神だったのかも。それが、いつからか力石(よく神社にある力比べの石)になっちゃって、それに虎御前人気が後から付属してきた、というのが実際に近いような気がします。
もしくは、この石の形状に(旅客が?)洒落心を感じて、遊女・虎御前ゆかりの石ということになったのかも。

それが、大磯宿の中ほどにある日蓮宗寺院・延台寺(の番神堂)に納められたのは、前述の『風土記稿』によれば「(調査当時の)二十年ほど前」とのこと。
前スレの錦絵でも分かるように、当時は大磯名物として人気のあった虎御石をなぜご神体のようにしてしまったのか。有名になりすぎて、盗難や破損を心配したのか。
それとも、地域の有力者か誰かが「虎御石さまを、力石代わりに遊ぶなんていかん!」と一声上げたのか。
まあ、本来が陰陽石ですから、ご神体にかえしたのなら分かる気がしますが、盗難の可能性は低かったのでは。
大磯にあるからこそ、名物たりえた訳ですから。
ご神体に返すのだとしても、ちゃんと据えてお祀りすれば済むことだし。

もしかしたら、寺の維持費の捻出などを目的としてたりして・・・。などと穿って考えてみたけど、謎は謎。
でも、こういうローカルな歴史に小さなミステリーを感じて思索するのは、面白い。

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延台寺山内(境内)には、宿で亡くなった遊女の墓や、虎御前の両親が祈ったという虎池弁才天(池は埋立てられ、社が管理していたこの寺に移された)などがある。
山門から正面の曽我堂内には、虎御石ほか曽我物語関係の寺宝がともに安置されている。
曽我堂も虎御石も、年に一度の「虎御前まつり」の日(5月第三日曜)のみとのこと。
ローカルで小さな祭事だが、手作りの大絵馬や曽我堂のなかを拝観するだけでも楽しめる。

ちなみに、ご開帳のときの虎御石は、撫でたり触れたりして参拝はできるが、昔のように持ち上げようなどとは思わないように。

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