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沼津へ(1)興国寺城跡

今回の沼津行きは、同市根小屋にある興国寺城跡の発掘調査現地見学会に赴くためでした。
藤沢のK氏と共に参加してきました。

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同城は、小田原の人間もしくは戦国大名の後北条氏を知る人にとっては、「北条早雲旗挙げの城」として名高いですが、国境の城としても変転多い歴史を持っているところです。
はじめ今川重臣・伊勢新九郎(北条早雲)が、この地にあった興国寺という寺院を改造して城砦とし、ここを拠点に伊豆侵攻を成しました。その後、今川・北条・武田・徳川の各戦国大名が領主となる度に、国境防備の城として修築強化が成されたと考えられています。
天正18年(1590)に豊臣秀吉が天下一統を果たし、徳川氏が関東に移封されると、豊臣系大名の中村一氏が駿府城に入り、その家臣の河毛重次が城主となります。そして、関ヶ原の合戦後、慶長6年(1601)に再び徳川氏に帰して、家康家臣の天野康景1万石が入城しました。
しかしその後、康景は改易されてしまい、慶長12年(1607)に廃城となっています。

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そのような城であります。
城は、愛鷹山から南下する尾根末端の舌状台地を直交に掘切り、独立させた城。
尾根の北から、北曲輪・本丸・二の丸・三の丸が、堀と土塁で仕切られ連続する、いわゆる連郭式城郭ですね。

城地は、東西南は湿地(「浮島沼」)でして、南の湿地との間には、根方街道(海岸線の東海道に併行する道で、山側にあるので根方道と呼ぶ)が東西に走っています。また城の正面で、この根方街道と東海道を結ぶ「竹田道」が交差していて、天然の要害であると共に交通の要衛でもありました。
今では湿地は干拓されて畑地になっていますが、高低差はそのままですし、水を逃がす水路があちこちに流れているので雰囲気はつかめます。

現在見られる遺構は、基本的に廃城時のものですが、最近まで茶畑など畑地利用がされていたため、耕作などによって平坦部の遺構はかなり消失しているようです。
最南端で根方街道に接していた三の丸は、現在、根方街道(県道22号三島富士線)が内部を貫通して両側が住宅地化していますが、国史跡として同地の行政による買取も進んでいるようです。
最北端と思われる部分は、東海道新幹線によって消滅してしまいました。戦後の米軍による航空写真からある程度の地形読み取りが可能ですが、江戸時代の城絵図によれば、同地には戦国大名・武田氏の城郭に顕著な「丸馬出」があったようです。

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本年度発掘調査の成果として行なわれた現地説明会は、本丸とその南東部にある「石火矢台」と呼ばれる一角、それから、その南に接する空堀の遺構でした。

見学会は午前10時からと聞いていたので、8時過ぎに小田原を出発しました。
時間に余裕を持って出たつもりで、最初は「三島大社にお参りしてから行こうか」なんて言ってたんですが、ようやく城址に近づいた県道22号線では、道路工事などを行なっていたりで、結局ギリギリセーフ。不慣れな土地でやはり余裕ぶっこくのは危険です(笑)。

説明はもう少し人数が集まってからのようでしたので、それまでの間、トレー展示されている出土遺物や空堀を見学しました。遺物は、古瀬戸の皿や天目茶碗などの陶片、かわらけ、古銭、土錘(どぼう)、包弾など。それぞれ特に説明書きなどは添付されていませんでしたが、慶長期を中心としたものでしょうね。包弾は空堀から出土のようですが、これは戦闘遺物なのか。それとも誤って堀に落ちたものなんでしょうかね。土錘は網漁に使用する漁具なので、この土地の性格を示す興味深いものだと思いますが、時代はいつのものなんでしょう。

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空堀は、深さ3mと小規模な感じですが、対面する石火矢台側土塁の頂部との高低差は約11m。土塁の崩落を考えると、実際はもう少しあったんでしょうね。堀幅は上端約13m、下端約2m。堀の法面がやけに不整形だったんですが、配布資料によれば、「南側法面には犬走り状の平坦地を伴う」とあります。当時の堀底の整備や掘り下げの時の足場なのか、それとも、堀をなだらかに埋め立てるために、南法面を切り崩したとか・・・。どうなんだろ。ちなみに、堀は東の沼地まで切れておらず、土塁下で止まっているようです。この部分には石がまとまって落ちていました。

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担当者による説明は本丸と石火矢台で行なわれました。
今回の発掘で明らかになった本丸の概要は、以前から存在が確認されていた排水溝の全容です。
本丸の北から南に一直線に敷かれた石敷きの排水溝が、はっきりと残っていました。
それより東側にも石敷きの遺構があって、こちらは3回ほど規則的な長さで直角に曲がっていきます。
どうやら、居館と考えられる建築物の一部のようで、説明者によれば玄関の遺構ではないかということです。
説明では触れられませんでしたが、その敷石の向きに併行するように、丸柱ピットが2つやや南東に向かって1間幅で並んでいました。何かしらの建物もしくは、柱列がこの方向に立っていたようではあります。地形図で見ると、この面は南東方向に緩傾斜していますので、建物の向きもそれを踏襲してるのかも。
礎石類は検出されなかったようです。後世の土地利用によるものでしょうが、仕方がありません。
また、この調査区の南で本丸土塁の南側の痕跡である、土留め石と土塁基礎部の遺構が確認されていました。
ここの土塁はきっとこの南側の堀の埋め立てに崩されたんでしょうが、基礎の石など一部はしっかり土塁に沿って残っていました。

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石火矢台は、本丸の東南隅にやや張出した一角ですが、こちらでは郭の縁辺部で土塁が確認され、また内側にもう一つの小規模な土塁が設けられていたことが明らかになりました。このあたり、どうやら本丸の搦め手口が設けられていたようです。そういえば、この東の湿地の辺りに「伝東船付場」という地名が残っています。川舟などを付けて、直接城内に入れるようになっていたのかもしれません。
ちなみに「石火矢」というのは、文字の通り、石球もしくは鉄球を砲弾に打つ火砲の事です。この興国寺城の石火矢台がいつごろに由来するのかは分かりませんが、少なくとも戦国時代ではないでしょうね。

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説明会の後、静岡古城研究会のM氏と私が所属する会のY氏に出会い、しばし城談義。
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そして、私と同行のKさんは初めての城址でしたので、本丸北の伝・天守台と大空堀、北曲輪から三の丸堀まで、ぐるりと一周して見学していきました。

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北曲輪からは富士山が愛鷹山の裾から覗き見るように頭を出していて、綺麗だけれど面白みのある光景でした。
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また、つい最近までガソリンスタンドが建っていた三の丸も、公有地化でサラ地になったおかげで富士の展望が利くようになりました。これも素晴らしい事です。
この城址の全域が史跡公園となった時は、城址と富士の1セットがお決まりの景色になることでしょうね。


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