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沼津へ(4)三枚橋城(沼津古城)・沼津城

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写真は城址付近の河畔・御用河岸(ごようがし)から撮った狩野川と御成橋。
橋の名前は、皇族が沼津御用邸来臨に際して通過する橋として、架けられたことに由来するとか。
現在のは二代目で、初代はこの駿東郡で最初の鉄橋だったそうな(それ以前は渡し場で架橋されなかった)。
沼津駅前付近へ来た。
k氏の車載ナビを見ると上土(あげつち)町付近とある。
「あげつち」というのは城普請などで盛土した土地として、よく城下町にある地名の一つである。
沼津城のことに関しては全く予習してこなかったが、近くの狩野川がちょうど蛇行する岸でもある。
この辺りではないかと考えて車を止めてもらった。
ここで少しばかり城の歴史を。

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三枚橋城(沼津古城)は戦国大名武田氏によって築かれた。創築の詳細は明らかではないが、永禄12年(1569)武田信玄が今川・北条との三国同盟を破棄して駿河・伊豆国境へ出兵した折に陣場程度のものが営まれたのが最初だとされる。その後、天正7年(1579)以降に武田勝頼は、北条氏政・氏直父子と再び激しく敵対するが、それとほぼ併行して、本格的な城として取り立てられたと考えられている。
三枚橋城は狩野川対岸にある北条氏の城砦郡、特に戸倉城(現・清水町)に対陣して設けられた最前線基地であり、また狩野川河口に程近く、水運の利便と水軍基地としての機能も備えていた。城将には信州海津城主・高坂昌信の甥・源五郎や曽根河内守昌長が務めたことが記録により知られており、どうやら信州の兵や陣夫が派遣されていたようである。
北条方の戸倉城は軍記ものなどでもよく知られるとおり、諜略によって武田氏の城になってしまうのだが、国境の緊張は天正10年(1582)の武田氏滅亡直前まで継続した。
同年2月29日、すでに武田家危うしとて浮き足立っていたのか、戸倉城は落城(『北条記』などでは降伏となっている)。城兵500余りが討ち取られたという。三枚橋城も同夜自落している。
こうして一時は北条方が占領した三枚橋城だったが、武田家滅亡後、織田信長の采配により駿河は徳川家が領有し、松平康親が入城した。
しかし同年6月、今度は信長が本能寺の変で急死。未だ秩序定まらない旧武田領国は北条氏と徳川氏によって争われることに。この「天正壬午の乱」と云われる一連の合戦は甲信地方で行なわれたが、伊豆駿河国境でも戦いがあった。その折、城将・松平康親は松平康元らと共に韮山城の北条氏規の攻撃から城をよく守っている。
康親は翌天正11年に没。子の康重が城を継いだ。
天正18年(1590)、今度は北条氏が豊臣秀吉により滅亡すると、徳川領国は関東へ総引越し。
駿河を領有した豊臣大名・中村一氏の弟・一栄が三枚橋城に入った。
そして江戸開府後の慶長6年(1601)、再び家康家臣・大久保忠佐が沼津藩主として入城した。忠佐は小田原大久保家(北条滅亡後に入城)初代・忠世の弟で、長篠の合戦で名を馳せた武将である。だが、世継に恵まれず、忠佐死去の翌慶長19年(1614)、沼津大久保家は断絶。城は廃城となった。ここまでを三枚橋城もしくは、後世の沼津城と区別して沼津古城と呼んでいる。

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それから約160年後の安永6年(1777)、水野忠友が三河大浜から沼津に転封。かつての古城のニの丸域内に一回り小さな近世城郭を築城した。その後、沼津藩水野家五万石の城として、明治維新まで存した。天守閣は設けられなかったが、本丸に三層の隅櫓があった。
慶応4年(1868)、大政奉還がなされると徳川家は一大名として駿河・遠江二か国に移封。水野氏は上総国市原郡菊間(千葉県市原市)に転封された。
城は徳川藩の兵学校施設として、明治5年(1872)5月、同校が東京に移されるまで利用された。そして同年10月、静岡県により城は解体され土地は民間に売却された。
その後、明治21年に鉄道・東海道線が城の北に敷かれると、城地は駅前開発地として再整備され、大正の大火、昭和の沼津空襲などを経て、今では城の面影は全くといってよいほど残っていない。

とまあ、こんなところ。
とりあえず夕暮れ近かったので、沼津新城の本丸周辺だけ歩いてみたのだけれど、目にする遺跡の乏しさは寂しいくらいだった。
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旧本丸は現在「中央公園」があるところで、公園内に「沼津城本丸址」の石碑と簡単な説明パネルが設けられている。記念碑の足元を飾る石は、開発に伴って出土した三枚橋城(沼津古城)の石垣だそうである。
また、公園の裏口、河畔へ向かう階段を降りると、そこに僅かに本丸石垣が残っている(上から三番目の写真)。城跡を偲ばせる高低差もなんとか感じられるが、どこまで幕末の遺構を留めているかは定かではないように思える。

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ここから駅前通りを北に向かって二つ目の横道を右に入ると、城岡神社がある。ここは二の丸域にあたる。
由緒を見ると、かつて沼津城の丑寅(鬼門)にあった小祠が原型らしい。ただ、何の神社だったかは伝わっていない。神社の体裁が整えられたのは、沼津藩水野家二代目・忠成のときで、文政7年(1824)に伏見稲荷を勧請して城の守護神としたという。明治維新の後は、旧城内区民の鎮守として祀られ、明治7年、東照宮を相殿に勧請した。城岡神社と号したのは明治36年から(以前は稲荷様・権現様)。相殿の祭神には大国主命も入っているが、これは割と近年の昭和39年に迎えられたものとある(詳細は記されておらず)。
平成3年に再建された社殿は神明造りっぽい建物なんだけど、全体的にさっぱりしすぎて無機質な感じがした。

「まあ、このくらいでいいだろ」と、駐車してある上土町へ。
その道すがら、三枚橋城の遺跡を幾つか目にした。
といっても、開発で出土した石垣石をモニュメントとして建材の一部に転用して展示してあるのだが(上から二番目の写真も)。
何にも無いよりは嬉しいのだが、こうしてあるということはつまり、遺跡を埋蔵保存しないで壊しちゃったということでしょう?
埋蔵文化財包蔵地に建設をする場合、まず発掘調査して記録とって壊す場合と、破壊しないように建築設計を改める場合がある。発掘当時の写真を見るとざっくり石垣が出土して見事なのだけど、こういう保存(?)のやり方が精一杯だったのでしょうかね。三枚橋城の石垣ということは、武田時代に遡るかどうかは不明としても、江戸初期の遺構ですよ。沼津だけでなく静岡県にとっても貴重な城郭遺構となったでしょうに。条例に限度があるのかもしれないけど、民間企業の一時代的な開発によって歴史遺産が破壊されるのから、行政はもっと強く護らなくてはなりません。開発第一の昭和ならともかく、平成の開発でこれとは自治体のセンスが問われるというものです。まあ、小田原市も似たり寄ったりのところありますが。でも、この石垣モニュメントは負の遺産の香りがプンプンします。
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そういえば、沼津市は新たな大規模駅前開発でまた問題になってますな。歴史と自然ある地方都市の個性は好きですが、こういう地方センスには呆れます。

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