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沼津へ(3)千本松原

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次に来たのは千本浜公園。
沼津市の原から狩野川河口あたりまで、海岸には防風林の松林が植えられている。これが名高い「千本松原」で、その東側、沼津西高校辺り一帯が千本浜公園となっている。
旧東海道筋からその公園に向かう途中、乗運寺がある。寺の由緒によれば、開山の増誉上人が旅僧としてこの地に来たとき、潮風の塩害に苦しんでいた当地を救うために松苗を1本1本植えたのだという。それを顕彰する上人の像が公園内に立っている。
また、一説には天正8年(1580)、武田勝頼が北條氏政とこの地で対陣したとき、北条方の伏兵に備えて松林を伐採させてしまい、その後困っていたのを上人が手助けしたのだとも云われている。まあ、ありえる話ではある。
現に『北条五代記』によれば、翌天正9年の黄瀬川の対陣では、北条方の乱波(忍者)「風魔」一党に夜襲をかけられて混乱した様子が伝えられているし、勝頼が松原を切捨てたことも記されている。
ただ記すところは「彼千本の松原は勝頼時代海賊のためのさはりとて切捨けり。今は其名ばかりぞ残りける」である。要するに海賊(水軍)を交えた作戦に不都合なので伐採したのである。海岸に接した戦場である浮島ヶ原では武田・北条ともに水陸両軍の共同作戦が展開されていた。一つ間違えば、本陣の後方に敵水軍が上陸してきてしまうし、味方の水軍を援護することもできなくなる。
とはいえ、地元民には迷惑千万この上なかったであろう。駿河湾の強風が田畑や家屋に直接あたるのだから。先述の一文にも「今は其名ばかりぞ残りける」とあり、五代記が記された江戸初期は塩害に悩まされていたのではないだろうか。

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その当時を伝える遺跡がもう一つある。
西高校グラウンド向かいの一角にある「首塚」がそれで、現地案内板によれば明治33年(1900)5月の暴風雨で地中から数十体の頭蓋骨が出土したとある。戦後、それらを検視した結果、いずれも若い成年男子の頭骨で刀傷で死亡したものが幾つか含まれると判明した。その事から、武田対北条の一連の戦いにおいて首実検された後、纏めて埋葬されたものであろうと考えられている。いずれの軍の骨かは分からないが、この地は武田陣営の近くであるから、北条方の首ではなかろうか。時代は違えども、同じ故郷の人が埋葬されてるかもしれないわけで、自然と手を合わせ一礼した。

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再び海岸へ歩く。
本当は海岸から松林ごしに富士山を見たかったのだけれど、午後の雲が山を覆ってしまいまだ晴れそうにも無い。日暮れ時になれば、気温も下がって晴れるだろうけど、その前に沼津城址も見てみたかったので、今回は諦めることにした。
写真は千本浜から見る対岸の伊豆半島。
この海を挟んで北条と武田の水軍が小競り合いを繰り返した。

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